「神の足跡を見た者はいない」2008年9月21日(月)

ウイークリー瞑想
 「苦しみには意味がある!?」というテーマを、今回の日本での最初 
の奉仕でいただきました。担当の福音自由教会でウイクリフ宣教師の松
村先生が拙書『苦しみを通して神に近づく』を読んで、そのテーマの必
要を感じて修養会に招いてくれました。それでその本の基になっている
詩篇77篇をもう一度思い返し、思い巡らすことになりました。修養会
に参加してくださった方々の遭遇している苦しみ、通過した苦しみを、
短い交わりの端々で感じることが出来ました。詩篇の作者と同じ道を歩
まれているのです。

 苦しみのなかでただ神に叫ぶことで生まれる共鳴、その叫びがいまに
でも声となって出て来そうな瞬間、叫び疲れてただ嘆きとうめきが伝
わってくる低音の響き、そんな思いと感覚を共有しながら静かな軽井沢
の一時をいただきました。そしてそんな感覚を持って、苦しみの道をま
とめるように詠っている詩篇の作者の心に思いが向きます。

 神に「なぜなのですか」と問いかけていた心が不思議に、自分たちの
先祖が歩んだ出エジプトの出来事を思い起こし、その場面を振り返るの
です。そしてハット気づいたように言うのです。「あなたの道は海の中
にあり、あなたの小道は大水の中にありました。それで、あなたの足跡
を見た者はありません。」(19節)

 苦しみに遭遇していながら、その苦しみの激しさは決して忘れること
が出来ないにもかかわらず、そこから救い出された道筋はすでに海の中
の消されてしまって跡形もないのです。そして詩篇の作者は、出エジプ
トを思い出しながら、自分の苦しみも同じように激しい水のわななき、
雷雲を聞きながら、気がついたらすでに通過していることに気づいたよ
うです。その道筋は海の中にかき消されているのです。この振り返って
出て来た詩篇の作者の一言、それは慰めです。

 そんな思いを次に伺った山形の村山のご夫妻と一日の終わりのディ
ボーションで分かち合うことになりました。苦しみにゆえにその傷跡は
いまでも残っています。その時のことを思い出すだけで心は痛みます。
それでもどのようにその苦しみを通過し、救い出されたのか、その道筋
は分からないのです。すでに海に覆われてしまったのです。神の足跡は
見えないのです。それでいいのです。そんな心境をこのご夫妻と分かち
合いました。

 いま秋田に来ています。その途中とはならないのですが、一度東京に
出て、友人宅で交わりと宿泊をいただきました。心の深く、井戸の底に
下りていくような語り合いをいただきました。そのなかで作家高橋たか
子の『霊的な出発』を紹介してくださいました。十字架の聖ヨハネのこ
とを記しているくだりで、この詩篇77篇の同じ箇所が引用されていま
した。それでその十字架の聖ヨハネの『暗夜』をお借りして確認するこ
とが出来ました。神の取り扱いの不思議さ、知解不可能性を語っていま
す。神の取り扱いは霊的なことで、余りにも深いことなので、その足跡
を見ることはできないのです。

 神は「ご自身を隠す神」(イザヤ45:15)です。イエスは「隠れ
たところにおられる父」(マタイ6:6)に祈り、語りかけています。
隠れていても、それでも神は私たちに語りかけ、働かれています。そし
て同時にその足跡も見えないようにしているのです。やっと通過した苦
しみを振り返っても、その足跡を見せないのです。すでに神は前に進ん
でいるのです。そんな神の取り扱いに慰めをいただいています。

 上沼昌雄記

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