「秋が深まってきて」2008年10月27日(月)

ウイークリー瞑想

 故郷前橋での礼拝奉仕を終えて山形の最上川の対岸に戻ってきました
ら、秋の雨が夜の闇の中に降っていました。寒さを感じました。それぞ
れの恵みを分かち合い、祈りを持って床に着きましたが、雨は朝方まで
降り続いていました。朝靄に浮かぶ山々を見ながら夜明けを迎えまし
た。その時にあわせたように朝日に木々が輝いてきました。

 札幌に向かうのに一度福島まで戻って東北本線に乗ります。米沢を過
ぎて板谷峠から見える山々に紫がかったピンク色がまだら模様に映えて
いました。ところどころに赤と黄色が飛び跳ねています。それを支える
ように常緑樹の深い緑が浮き上がっています。秋が深まってきました。
今回は9月の半ばに日本に入りましたので、夏の終わりからの季節の移
り変わりに目が奪われます。

 『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』の本を挟んで、現実に
テーブルの上に本を置いて闇のことを語り合いながら、闇の底に共に下
りていくような体験をさせられます。強いているわけでもないのです
が、どこかで気づいていて、それでいて語ることがない自分のなかの闇
を静かに分かち合ってくれます。

 16歳の多感なときにお母さんを急に亡くされたことを、ある牧師が
その時の衝撃を思い起こすように静かに話し出してくれました。その痛
手がいまだに残っているようにゆっくりと語ってくれました。その傷を
同じように負いながら歩まれたお父様の心をご自分の心のように語って
くれました。どうして私にそのようなことを話してくれるのだろうかと
思いながら、何かがこの牧師の心を動かして、共に井戸の底に辿ってい
ることを思います。秋が深まり、闇が濃くなってきます。

 記憶の問題が闇のことを取り扱っていくと出てくることを、アウグス
ティヌスの『告白』を紹介しながら話をし、村上春樹がどの小説でも記
憶を辿るように戦争のことを取り上げていることを説明します。その戦
争の時に10歳ぐらいであった方が、お父さんを失い、弟さんとお母さ
んと生活に困った中で、親戚に与されるようにしてお母さんと別れて、
それっきりになったことを話してくれました。長い間おつき合いをさせ
ていただき、お世話になっている方ですが、初めて聞くことでした。奥
様とそのお母さんの住んでいたところに訪ねたが、家のなかに入ること
は出来なかったと加えてくれました。闇の中のあるところに色が付いて
きた感覚をいただきました。

 昔からの知り合いなのですが、なかなかお会いすることが出来ない友
人の牧師が、私の闇の話を聞いて、思い当たることがありますと言っ
て、そうすることが当然のように話してくれました。2,3代前の家系
に全くの空白があるというのです。両親も話さないし、誰もが黙ってい
るというのです。この年になってもその謎を自分は知らないままである
というのです。語れない闇を家族が抱えて生きているのです。そんなな
かでこの牧師は育ったのです。ただそのような家族にお嫁に来たお母さ
んとは学生の時に畑仕事をしながら、お母さんの心を聴くことが出来た
ことは宝のようだと言われました。闇の中のあるところに紫がかったピ
ンクが色づいているのです。

 前橋に向かう途中で、八重洲口を出たところにあるブリジストン美術
館にルオーの「郊外のキリスト」を観てきました。月夜の誰もいな郊外
の路上で貧しい親子の脇に佇んでいるキリストは、うつむき加減に自分
の影を見ています。誰もが持っている影を、貧しい親子(惨めな夫婦に
も見えるのですが)と見つめながら、その影の中の闇の深くに届いてい
るようです。キリストの向こうの道は月に照らされています。それだけ
キリストの影は濃くなっています。

 列車が北に向かうにつれて秋が深くなってきます。

 上沼昌雄記

「ためらいつつ」2008年10月20日(月)

 ロマ書7章、8章のパウロの罪の自覚、心のうめきについて2年ほど 
前に宇治の教会のセミナーで語りました。語り終わったときに一人の私
より多少年配の方が立ち上がって、聞いていてルオーの「郊外のキリス
ト」の絵を思い出しましたと言われました。その絵をお見せしますとい
うのでお茶に誘ってくださいました。夕闇が覆っていく郊外の路地に二
人の弟子と言えるのか、二人の人と立っているキリストの絵です。家々
の間に立ちすくんでいるキリストの姿が、夕闇の中で道を失いさまよっ
ている私たちの心を思い描いているようで、何とも惹きつけられるもの
です。

 この絵のことについてもお話しをしたいと思い、セミナーをしてくだ
さった教会の祈祷会での奉仕にあわせて伺いました。ルオーの一見素朴
に目えるタッチが深い意味合いを秘めていることを感動深く語ってくれ
ました。ルオーが何度も描いているキリストの顔、「聖願」を繰り返し
眺めました。顔だけを描いているのですが、その回りに額縁に当たる枠
組みも描いているのです。あるものは実際に額縁に絵の具を塗って描い
たというのです。縁取りされたキリストの顔が迫ってきます。「聖顔」
だけに縁が取られているようです。なぜそのような作法をキリストの顔
を描くときにしたのだろうか。あたかも深い闇の中でキリストにお会い
するような迫力を感じます。そんなことがあるのだろうかとためらいを
覚えます。

 その後友人の牧師ご夫妻が、闇のテーマを神学校の卒論で取り上げた
もう一人の牧師と共に黙想の家に招いてくれました。すでに深い闇の中
に招かれています。アジェンダなしに互いの心を分かち合うことになり
ました。自分たちのうちに起こった深い傷、喪失感、絶望感をただ分か
ち合うことになりました。ご家族を立て続けに失った空白感を静かに
語ってくれました。それにともなうご家族の葛藤と試練と、そこでのご
自分の感情も隠さないで語ってくれました。

 招いてくれた牧師は、牧会上で経験した苦しみと回復の道を思い起こ
しながら分かち合ってくれました。語り終わって心の底から湧き上がる
神の臨在に満ちた祈りをささげました。深い闇の底から湧き上がる感謝
の祈りです。おふたりのお話と祈りを聞きながら、一緒に闇の底に下り
ていくような誘いを感じます。計画したわけでもなく、意図的にしむけ
たわけでもないのです。また道筋があるわけでもないのです。ただ闇の
奥に共に下りていくのです。なぜなのだろうとかためらいを覚えます。

 卒論で闇のテーマを取り上げた牧師の名古屋の教会で礼拝の奉仕を許
されました。その牧師は他教会での奉仕に出かけていました。どれだけ
闇のことについて語ることが出来るかためらいを覚えつつ語りだしまし
た。会衆はためらいを持っていないようでした。自分のなかの闇を誰も
が認めているようでした。何人かの方と語り合うことが出来ました。す
でに闇の部分に触れられているような感じです。この牧師がすでに闇に
届く牧会をされている感じです。意図的にされているわけでないので
しょうが、ご自分の闇を認めておられることが牧会に出てくるのでしょ
う。しかし、どの教会でも同じようには語ることが出来るわけではない
のであろうとためらいを覚えました。

 広島の友人の牧師家族を訪ねました。遅い夕食をいただき、家族も休
まれ、闇に包まれた中でこの牧師と闇のことを語り続けました。書棚に
『ゲド戦記』などの本が置いてあります。すでに数年前から自分のなか
の闇に気づかされていました。驚きであり、それがなければ自分でなく
なるそんな自分の闇に今は共存していると言うのです。闇のイメージ、
裏の自分、影の自分と、闇のまわりを回りながら、その方のことばの手
前に疼いているうめきのようなものに共に耳を澄ませてみました。何か
幼年時代に失ったものが湧き上がってきたようです。同時にそれ以上に
入ることはためらいを覚えました。

 上沼昌雄記

「闇が深まり」2008年10月15日(水)

ウイークリー瞑想

 秋晴れの休日の夕刻に、お世話になっているご夫妻と散歩に出かけま
した。最上川の対岸、と言ってもどちらが対岸なのかは見る人、そこに
住んでいる人の視点によって異なるのですが、その方々が以前住んでい
たところからは対岸に、クリニックと居を構えています。果樹園と野菜
畑と刈り入れを終わった畑の間を、なだらかに上り下りしながら、一回
りをして林を抜けて県道近くに出て来たときに、最上川の向こうにある
町々の灯が見えてきました。夕闇が刻一刻と深まっていく中で、遠くの
灯がそれにあわせるように鮮明になってきました。木々も畑も家々も闇
に覆われてきました。遠くの灯りが輝いて見えてきました。

 40年まえにKGKでお世話なり、いまは4つのチャペルを持た
れている牧師を訪ねました。その牧会の姿勢をお尋ねました。お母さん
から人を見る目を教わったと言われました。それはどのようなことなの
ですかと伺いました。お母さんが抱えていた闇を振り返るように語って
くれました。闇を遡っていくと記憶の世界に入っていきます。お渡しし
た本にも書いていることをお伝えしました。このようなことを話すこと
になるとは思わなかったが、話せて良かったと言われました。

 どんよりとした一日に、闇の本を読んでくださっているご夫妻とスト
レートに闇のテーマで思い巡らすことをしました。闇のイメージから始
まって、その出て来たイメージをさらに思い巡らしながら、闇の中に下
りていくことをしました。光をいただいているので少しずつ下りていく
ことができます。不思議に生まれえ育った家族、両親、そして故郷のこ
とが出て来ました。私たちの咎は、十戒で言われているように3代から
4代にわたって伝わっています。善し悪しの問題ではないのです。ただ
肌に染み込んでいる闇を見つめるのです。闇の世界に下りていくので
す。どんよりとした心の闇を見つめることで疲労感を覚えました。

 「表の私、裏の私」と言うことで自己紹介をすることがあります。私
は半分冗談に、半分真剣に、私の表は「上」で、私の裏は「沼」ですと
紹介します。分かってくれます。ある集会で一人のご婦人がしばらく考
えて、「私の表は、表も裏もないことです」と言われました。初めてお
会いした方です。その意味を勝手に想像しました。しかしすぐに「私の
裏は殺人者です」と付け加えました。

 あるご夫妻にそのくだりを紹介しました。奥様がその気持ちよく分か
ると言われました。自分はそのようには言わないかも知れないが、その
通りであるというのです。ご主人が驚いて、今晩寝るのが怖くなったと
言いました。翌朝このご主人と二人だけになったときに、その辺の女性
の闇の深さというか、複雑さと言ったらよいか、ともかく驚異を覚えさ
せられました。この奥様にそのように伝えました。前の晩にそのように
言ってすっきりしましたと返事が返ってきました。

 24時間営業をされている方が、夕闇は嫌いだと言います。朝焼けは
大好きだというのです。闇は徐々に確実に覆ってきます。はいつくよう
に身体を覆い、知らぬ間に目を覆ってきます。実体があるわけでありま
せん。それなのに確実に届いてきます。あたかも私の身体の一部のよう
にへばり付いてきます。そんな闇が深まるにつれて、遠くの一条の光が
まぶしくなります。

 上沼昌雄記