「ためらいつつ」2008年10月20日(月)

 ロマ書7章、8章のパウロの罪の自覚、心のうめきについて2年ほど 
前に宇治の教会のセミナーで語りました。語り終わったときに一人の私
より多少年配の方が立ち上がって、聞いていてルオーの「郊外のキリス
ト」の絵を思い出しましたと言われました。その絵をお見せしますとい
うのでお茶に誘ってくださいました。夕闇が覆っていく郊外の路地に二
人の弟子と言えるのか、二人の人と立っているキリストの絵です。家々
の間に立ちすくんでいるキリストの姿が、夕闇の中で道を失いさまよっ
ている私たちの心を思い描いているようで、何とも惹きつけられるもの
です。

 この絵のことについてもお話しをしたいと思い、セミナーをしてくだ
さった教会の祈祷会での奉仕にあわせて伺いました。ルオーの一見素朴
に目えるタッチが深い意味合いを秘めていることを感動深く語ってくれ
ました。ルオーが何度も描いているキリストの顔、「聖願」を繰り返し
眺めました。顔だけを描いているのですが、その回りに額縁に当たる枠
組みも描いているのです。あるものは実際に額縁に絵の具を塗って描い
たというのです。縁取りされたキリストの顔が迫ってきます。「聖顔」
だけに縁が取られているようです。なぜそのような作法をキリストの顔
を描くときにしたのだろうか。あたかも深い闇の中でキリストにお会い
するような迫力を感じます。そんなことがあるのだろうかとためらいを
覚えます。

 その後友人の牧師ご夫妻が、闇のテーマを神学校の卒論で取り上げた
もう一人の牧師と共に黙想の家に招いてくれました。すでに深い闇の中
に招かれています。アジェンダなしに互いの心を分かち合うことになり
ました。自分たちのうちに起こった深い傷、喪失感、絶望感をただ分か
ち合うことになりました。ご家族を立て続けに失った空白感を静かに
語ってくれました。それにともなうご家族の葛藤と試練と、そこでのご
自分の感情も隠さないで語ってくれました。

 招いてくれた牧師は、牧会上で経験した苦しみと回復の道を思い起こ
しながら分かち合ってくれました。語り終わって心の底から湧き上がる
神の臨在に満ちた祈りをささげました。深い闇の底から湧き上がる感謝
の祈りです。おふたりのお話と祈りを聞きながら、一緒に闇の底に下り
ていくような誘いを感じます。計画したわけでもなく、意図的にしむけ
たわけでもないのです。また道筋があるわけでもないのです。ただ闇の
奥に共に下りていくのです。なぜなのだろうとかためらいを覚えます。

 卒論で闇のテーマを取り上げた牧師の名古屋の教会で礼拝の奉仕を許
されました。その牧師は他教会での奉仕に出かけていました。どれだけ
闇のことについて語ることが出来るかためらいを覚えつつ語りだしまし
た。会衆はためらいを持っていないようでした。自分のなかの闇を誰も
が認めているようでした。何人かの方と語り合うことが出来ました。す
でに闇の部分に触れられているような感じです。この牧師がすでに闇に
届く牧会をされている感じです。意図的にされているわけでないので
しょうが、ご自分の闇を認めておられることが牧会に出てくるのでしょ
う。しかし、どの教会でも同じようには語ることが出来るわけではない
のであろうとためらいを覚えました。

 広島の友人の牧師家族を訪ねました。遅い夕食をいただき、家族も休
まれ、闇に包まれた中でこの牧師と闇のことを語り続けました。書棚に
『ゲド戦記』などの本が置いてあります。すでに数年前から自分のなか
の闇に気づかされていました。驚きであり、それがなければ自分でなく
なるそんな自分の闇に今は共存していると言うのです。闇のイメージ、
裏の自分、影の自分と、闇のまわりを回りながら、その方のことばの手
前に疼いているうめきのようなものに共に耳を澄ませてみました。何か
幼年時代に失ったものが湧き上がってきたようです。同時にそれ以上に
入ることはためらいを覚えました。

 上沼昌雄記
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