「予測不可能な神」2008年12月28日(日)

ウイークリー瞑想

 イクイッパー・カンファレンスで聖日礼拝を迎えました。内灘聖書教
会の横山幹雄先生の恵み溢れるメッセージを通して、全米各地から、そ
して日本から集った300名以上の若い人と共に主を崇めました。遠く
イタリア・ミラノ賛美教会の内村伸之牧師も講師でいらしてくださいま
した。

 昼食の後のカリフォルニアの暖かい太陽の下にいると、一週間前に徹
底的に寒いシカゴでの鈴木牧師夫ご妻と中村ご夫妻との温かい交わりを
思い出します。その交わりを中村佐知さんがご自分のブログでまとめて
くださり、キーワードは「予測不可能な神」でしたと書いてくださいま
した。

 それは、置いてこられた子どもさんの一人が予定より早く用事が終
わって、食事をしているときに電話がかかってきたことで、「予測不可
能」ということばが出て来たことから端を発しています。特にティーン
を抱えていると何が次に起こるのか分からないという現実にいつも直面
します。

 子どもが育って二人だけになると、どうしても予測可能は範囲で動い
てしまいます。それでも今回1歳と2歳の孫と一緒に過ごすことができ
て、それこそ次にどのような動きをするのか全く予想が付かない幼児に
驚き、はらはらし、感動しました。大人同士ですとすでにその人の動き
は分かっていて、そのぶん安心感をいただくのですが、孫たちですと何
を言い出すのか、次にどのようなことをするのか、見ているだけで新鮮
です。2歳半の男の子どもさんのお母さんがブログでそのような子ども
さんの仕草を楽しそうに書いておられるのは、同じ感動から来ているの
だと分かります。

 私たちとしては聖書も神様も予測可能な範囲でまとめてしまいがちな
傾向を持っています。それは傾向と言うより、とても強い衝動です。神
も存在の一種と見なして私たちの理解可能な範囲でまとめてしまいま
す。神を私たちの延長線上の一種に収めてしまいます。終末もこのよう
になるのだと決めてしまっています。それが聖書だと決めつけてきま
す。ひねられた安心感を持つのです。

 時は私たちを越えて、私たちに反して、経過し推移していきます。孫
は成長し、私たちは衰えていきます。誰も止めることができません。そ
んな時間を存在の一つように予測可能の範囲で、西洋の哲学は考え、概
念化してきたと、ユダヤ教徒でホロコースト生き残りのレヴィナスが繰
り返し言います。さらに時間を支配し、超えている神もそのように捉え
られてきたと言います。組織神学に収められ、閉じこめられた神になっ
ています。

 今300名以上の若い人と一緒にいます。80%以上は初めての人た
ちです。ともかくジーンズの似合う世代です。現代の若者と外見は区別
ができません。それでもよくイエスを求め、交わりを求めて来るものだ
と変に感心しています。賛美リーダーたちも全く新しい人たちです。前
回の繰り返しではありません。何が出てくるのか予測が付きません。混
乱の一歩手前、騒音に限りなく近いところまで行くこともあります。そ
れでいて神にはとことん遜っているのです。インダクティブ・バイブ
ル・スタディーで聖書に向かっている真剣な顔、全身で神を賛美してい
る姿を見るのです。厳粛な感動を与えてくれます。

 「見よ。私は新しい事をする」(イザヤ43:19)と神は言われま
す。それは恵みであり、恐れでもあります。驚きであり、覚醒でもあり
ます。そんな予測不可能なことに遭遇して驚かされ、気づかされ、目を
覚まされたことがこの年もありました。そうでなかったら一見恵みのよ
うに思えても惰性で信仰生活を送ってしまったことになります。打ち破
られ、砕かれ、恐れ、心に破れができ、驚かされ、そうすることで思い
がけない恵みに導かれるのです。

 新しい年も予測不可能な、思いもよらない、全く新しいことに引き出
されます。未だ経験したことのないことに直面し、誰も到達したことの
ない新しい地に少しずつ導かれます。

 上沼昌雄記

「郊外のキリスト」2008年12月15日(月)

 
クリスマス瞑想

 ルオーに「郊外のキリスト」という絵があります。数年前にロマ書7
章、8章のパウロの心、パウロのうめきを語っていたときに、同年配ぐ
らいの方が立ち上がって、聞きながらこの絵を思っていましたと言われ
ました。興味を覚えたので、お宅に伺って絵を見せていただいきまし
た。その原画がブリジストン美術館にあるということで、今回の日本訪
問の間にその絵を鑑賞することができました。

 月夜に照らされてキリストと貧しい親子が立っています。ルオー自身
が貧しい親子と言っているようですが、貧しい夫婦とも見えます。その
二人の背丈はキリストの肩にも届いていません。何ともアンバランスで
す。それだけでなく、この三人の影は後ろにある月の位置からそれてい
るのです。それは、月影ではなく、人生の陰のようです。キリストの目
がその陰をじっと見つめています。誰もが持っている人生の陰をキリス
トが負おとしているかのようです。それとは別に、キリストの横には月
影らしきものが延びています。

 三人が立っている道は、両側の建物より数段も下がっています。郊外
の人が住む建物とはかけ離れた感じがします。アンバランスなのです
が、それがキリストにとって当然の場所であるかの感じもします。切り
離され、沈められ、隔離されているのです。帰る家も、暖を取り、夕食
にあずかれる食卓もないのです。寄る辺もなく、これからどこに行った
らよいのかも分からなく、ただじっと自分たちの陰を見つめています。

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:1
2)ことばである御子が肉となって、私たちの間に住んでくださいまし
た。まさにクリスマスの知らせです。肉となってくれたので、確かに
今、郊外の貧しい親子と共にいることができます。影を負い、陰を見つ
めることができます。それがあたかも、私たちの間に住んでいてくださ
るしるしであるかのようです。温かい居間で一緒に暖炉に当たってので
はなく、月夜の寒い夜に寄る辺のない者と共におられるのです。

 宿屋にはその場所がなく、「飼葉おけ」(ルカ2:7)がキリストの
地上の最初の場所でした。そして、「門の外」「宿営の外」(ヘブル1
3:12,13)がキリストの地上の最後の場所でした。クリスマス
は、御子が私たちの間で住むために来られたのです。私たちが憩ってい
るその真ん中に、自分の居所を確保しているその場に来てくださるため
でした。しかしキリストは、そんな私たちの住まいの戸を叩いていなが
ら、誰にも迎えられないで、同じように誰にも迎えられない人たちと一
緒に夜空の下に立っているのです。

 「肉となる」、受肉、まさにクリスマスです。それは御子が肉を持っ
ている私たちと一緒にいるためです。肉そのものとして、肉の弱さを負
い、肉が抱えている傷を共に負ってくださるためです。それにもかかわ
らず、キリストの生涯は宿の外、住まいの外、郊外、宿営の外でした。

 罪が自分のなかに決定的に住みついていることをパウロが知ったとき
に、その罪はアダムにまで遡り、同時に反転して、キリストの恵みの存
在にまで立ち返っています。キリストが私の内に住む罪と共におられ、
内に住む罪が宿営の外でキリストともに処罰され、処分されることを知
るのです。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなってい
ることを神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、
罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰された
のです。」(ロマ書8:3)

 内に住みついている罪の現実に絶望する以外にないのですが、同時に
それとは逆に、キリストのゆえに神に感謝できるのです。内に向いてい
た心が、反転して外に向かうのです。絶望していた心が、希望を外に見
いだすのです。私たちの間に住むための受肉が、私たちを宿営の外に引
き出すのです。

 ルオーは、自分の絵の額縁にまで絵の具を塗っていく作法を取ってい
るというのです。確かのこの「郊外のキリスト」の額縁も、金の縁が取
られている間は、どす黒い青で絵の具が塗り込まれているようです。そ
れは月夜に照らされた三人の背後を見事に浮き彫りにしています。その
コントラストが絵を限りなく明るいものにしています。長い間見つめ
て、その明るさに気づいて感動しました。

 私たちの間に住むために来られたキリストが、私たちを外に引き出し
ているのです。内側は暗闇と絶望だけです。ルオーの描く建物の中は
真っ暗です。郊外の建物の外、門の外、宿営の外に光があるのです。自
分の内側に絶望したパウロが、自分の外側でキリストの上に見た明るさ
です。自分の外に、建物の外に、門の外に、宿営の外に光があるのです。

 そんなパウロの心に寄り添いながら、この方がルオーの「郊外のキリ
スト」を思い描いていたのだろうと納得しました。

 上沼昌雄記

「闇のなかで格闘をしてきました」2008年12月8日 (月)

ウイークリー瞑想
 ほぼ3ヶ月ぶりにお会いした荒井牧師が、お渡しした拙書『闇を住処 
とする私、やみを隠れ家とする神』を見ながら、呟くように、人生を振
り返るように、そしていつものように静かに「私は闇のなかでずっと格
闘をしてきました」と言われました。自らが創業者であるみくにレスト
ランの2号店で、いつものようにお昼をいただきながらの会話ですが、
最初の一言でした。どのような言葉が次に出てくるのか、どの方向に会
話が進んでいくのか、一種独特な期待と不安を与えてくれます。語り合
い自体が闇のなかでもがきながら、うめきながら出てくるかのようです。

 すでに午後1時を回っていましたが、不況知らずの賑わいです。会社
関係の人たちが昼の会合、商談に使っています。サクラメント近郊にす
でに6号店まで拡張しています。最近デンバーにもオープンしました。
この20年、みくにレストランの歩みを近くで見させていただきまし
た。すなわち、私たち家族が20年前にサクラメント郊外の山のなかに
日本から引っ越しをしてきて以来、荒井牧師とその家族の教会とみくに
レストランの苦闘を見させていただきました。

 死ぬほどの仕事をしながらも牧師としての使命は見失うことはありま
せん。むしろ当たり前のように最優先にしています。土曜の真夜中に仕
事が終わって、それからさらに寝ずに説教の準備をしていました。説教
をしながら眠りの世界に入っていったこともあるようなことを、息子さ
んが語ってくれました。ミニストリーの理事をしてくれていますので、
用事で伺っても戦場のようなキッチンで語り合ったこともあります。よ
く卵焼きを揚げていました。そうでありながら、何ものにも振り回され
ない視点を持たれています。その忙しさと煩わしさのなかで神を見上が
る視点は決してぶれることがないのです。驚くべき強靱さを内に秘めて
います。不思議な静けさ、荒井牧師のところだけ時間が止まって作り出
された日だまりのような静けさを醸し出しています。

 その静けさは、みくにレストランの品格になっています。だいぶ前に
一度だけ荒井牧師がウエイターをしていたのを見たことがあります。物
静かにお客さんに語りかける物腰は、勿体ないような優雅な雰囲気を醸
し出します。食べ物だけを食べに来ているのではなく、その雰囲気を楽
しみに来ているのだとお客さんを納得させます。すでにユニークな3人
の子どもさんたちに経営はバトンタッチされていますが、そんな創業者
としての品格は生きています。

 みくにレストランの特上ちらしをいただきながらの2時間近くも、ぶ
れることなく闇のテーマで会話が進んでいきます。「私に従う者は、決
してやみの中を歩むことがなく」(ヨハネ8:12)と言われている
が、それは闇を前提にしているからだと反省するかのように言います。
一条の光を信じているので、たとえ闇のなかにあっても、それは光りを
たよりに生きていることだと納得しているのです。

 それでも繰り返すように「私は闇のなかで格闘してきました」と言わ
れます。闇との格闘をじっと振り返るように言います。その厳しさを思
い起こすように言います。もう決してその闘いを繰り返したくないと自
分に言い聞かせるように言います。闇がすぐ後ろにあっていつでも覆い
被さってきそうな恐れを感じているように言います。

 同時にと言ったらよいのか、それとは逆にと言ったらよいのか、光り
をたよりに生きている信頼と希望が伝わってきます。一条の光がなけれ
ばとうてい生きられないという神への叫びのような信仰が伝わってきま
す。闇に覆われそうになってもずっと先に輝いている光をそれることな
く見ている眼差しを感じます。

 牧会されている教会、創業者として始めたレストラン経営がどのよう
になろうとも決してぶれることのない神への信頼が、表には見えなく隠
れているようであっても、したたかに生きています。闇との格闘の深さ
が信仰の深さとして生きています。その深さが、一人の信仰者としての
歩みのコントラストをとてつもなく豊かにしてことが分かります。

 心の深くに何かがしっくりと収まるような思いをいただきながら帰途
につきました。

 上沼昌雄記