「沈黙の響き」2009年1月12日(月)

 

主にある友へ  

年の初めにアドレスブックをいじっていた時に、もうこれ以上ここにい
たくないかのように、目の前で全部のアドレスが消えていきました。操
作のミスなのか、それ以外の問題なのか分かりません。今までいただい
たメールを辿りながら再構築いたしました。それでも4分の3ほどだと
思います。届いていないと言うことを耳にされたら教えていただければ
幸いです。同時に記事を紹介していただければうれしい限りです。また
配信を望まれない方はお教えください。

感謝とともに。上沼 2009.1.12

****

神学モノローグ

 ユダヤ教徒のレヴィナスの哲学書は難解である。ただところどころ
で、旧約聖書の歌い手のように、賢者のように、詩的な表現、智恵に満
ちた表現が使われている。その度に難しい哲学的な内容が感性的に心に
飛び込んでくる。何度も使われている「沈黙の響き」「静寂の響き」と
いう表現もそうである。一瞬この表現でレヴィナスの哲学の全貌が明ら
かにされたような錯覚になる。そうでなくても少なくともとても身近に
感じる。もしかすると分かったような気になっているのかも知れない。

 湖の静けさ、海辺の静けさ、森の静けさ、平原の静けさ、田舎の静け
さ、真夜中の静けさ、朝明けの静けさ、だれひとりいない礼拝堂の静け
さ、廃墟の静けさ、死者の静けさ、墓地の静けさ、過ぎ去った時間の静
けさ、記憶の静けさ。そんな静けさをいつも慕い求めている。同時に思
いがけないときに遭遇する。そしてそんな静けさが何かを響かせ、何か
を語っているに気づく。その響きを聞くことが哲学だと言う。

 哲学を思索・詩作と言う人を思い出す。ハイデガーである。確かに気
をつけてみると、「沈黙の響き」とレヴィナスが言っているときにドイ
ツ語で引用している。フランス語の哲学書でそこだけドイツ語で併記し
てある。ハイデガーを意識していることが分かる。かつて戦争前にその
哲学に敬意を覚えたハイデガーである。第二次大戦でナチスの党員にな
り大学総長になったハイデガーである。フランス軍に従軍し、捕虜にな
り、リトアニアの家族がほとんどナチスによって殺害されたレヴィナス
が今振り返っているハイデガーである。

 世界が存在し、私が存在し、あなたが存在し、神が存在する。そんな
さまざまな存在者の根底にただ「ある」が存在している。その存在その
ものに耳を傾けていくハイデガーの哲学である。その存在そのものは意
識的な操作のできない、すでに了解されている。「ハイデガーにおける
存在了解」というテーマで学位論文を書いたのを思い出す。その思索は
魅力的であり、その詩作は審美的である。同時にどこに辿り着くのか分
からない。そんな思いを持ってハイデガーを記憶の奥に閉まって置いて
きた。

 そんなことを思い出しながら何度か出てくる「沈黙の響き」「静寂の
響き」に耳を澄ませていると、とんでもない沈黙をレヴィナスが語って
いることが分かる。それは意味もなく、無惨に殺されていった600万
の同胞の死の沈黙なのである。ハイデガーがいう美しい沈黙ではなく、
醜い沈黙である。無意味性が意味を凌駕としているどうにもならない沈
黙である。どんなに聞き届けようとしても聞き取れない死者の語りであ
る。神の義も無惨に打ちのめされた死者の山である。その沈黙を聴き続
けることを哲学とする。声だかに非難しているのではない。ただ600
万の同胞の死の沈黙を聴き出すことが責任だと言う。その責めを負って
いると言う。

 ハイデガーの存在は飢えを知らないとレヴィナスは言う。戦争を境に
大学総長として存在を思索した者と、捕虜収容所で飢えに悩まされなが
ら存在を思索した者の違いなのであろう。と同時にそんな陳腐な比較を
超えて、食べ続け、飢えを満たしていかなければならない存在の暴力性
を自分も抱えている事実に驚かされる。その暴力性がどこかで絶えるこ
とのない戦争を引き起こしている。それを認めることが聡明さだとレ
ヴィナスは言う。

 一ヶ月ぶりに家に戻ってきた。多少静かな佇まいの中に居住をいただ
いている。同時に雑草をかき集め、冬場のうちに燃やさなければならな
い。結構な労働である。それでもしばし息を潜めて佇むと、森林の静け
さに心が洗われる。さらにその静けさのなかでも、かつてこの地に住ん
でいたであろうアメリカインディアンの死の沈黙に思いが向く。どのよ
うな沈黙にもすでにどうにも取り返しのつかない記憶と歴史が潜んでい
る。その沈黙が今も語っている。

 不思議に村上春樹の『海辺のカフカ』に出てくる四国の森を思い出
す。少年カフカがかくまわれた森、そこでユダヤ人の殺戮を計画したア
イヒマンのことについて読んでいた森、かつて戦時下で軍隊の訓練に使
われていた森、その訓練中に逃亡した二人の兵士がその奥に秘かに隠れ
ていた森である。その森の奥で少年カフカは二人の兵士に出会い、向こ
うの世界に導かれてある種の回復をいただく。沈黙の森は淡い記憶の佇
まいである。そんな設定をする村上春樹の沈黙を聴く眼に、レヴィナス
を掛け合わせることができる。

 沈黙はどこにでもある。言葉と言葉との間に、時と時との間に、昼と
夜の間に、昨日と今日との間に、人と人との間に、夫と妻との間に、親
と子との間に、家と家との間に、教会と教会との間に、牧師と信徒との
間に、国と国との間に、木と木との間に、物と物との間に、そして言葉
とことばとの間にある。悲しみの沈黙であり、憂いの沈黙である。苦し
みの沈黙であり、うめきの沈黙である。敗者の沈黙あり、死者の沈黙で
ある。

 上沼昌雄記

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