「差異・ズレ」2009年1月19日(月)

神学モノローグ

 新しい年も最初の月を速くも半分以上過ぎた。今週は「変化、変革」
を唱えてきた新しい大統領が誕生する。「新しさ」には希望がある。何
かを望み、期待する。思いがけない、予測不可能なことを期待する。そ
の思いがけない、予測不可能なことが益をもたらすことを願う。そうで
なく困難に直面することもある。今まで経験したことのないことが起こ
ることに期待と不安を抱えている。

 すでに不況のなかで厳しい状況に置かれている。100年に一度だと
言われても、100年前のことを経験している人はいない。いても覚え
ていない。歴史の記録を辿っているだけである。現実に教会の働きに、
神のわざの前進にどのように影響するのか不透明である。金融情勢とし
てある程度のことは言えても、それが神の国にどのようなインパクトを
与えるのかは分からない。

 時は経過し、推移していく。時は私たちを過ぎ越していく。私たちの
手の届かないところから来て、との届かないところに過ぎ越していく。
時が私たちを捕らえ、通過していく。私たちは時の中で生をいただき、
生を終えていく。時を自分のものにすることはできない。

 時はもともと私たちを越えている。時は私たちの意志とは関係なしに
到来する。その到来は単なる繰り返しではない。到来と共に多少の差異
をもたらす。夜があり、朝がある。繰り返しのように思える時の到来
に、多少の、そして確実な差異をもたらす。打ち寄せる波のような繰り
返しであっても、そこに見えない、こちらの意識に上らない差異をもた
らす。年をとることである。時をとるとは言わないが、年をとることで
ある。孫は日ごとに成長し、こちらは日ごとに衰える。

 差異は避けることはできない。いつも何かのズレが生じている。それ
を知っている。少なくとも認めなければならない。これが真理だ、この
ようにしたら大丈夫だと思い、そのような方策を私たちは一生懸命に探
し求めている。差異もズレもないしっかりした体系を、そのような考え
方をしたら大丈夫だと自分に言い聞かせる。そんな隙間をぬってズレが
生じてくる。私たちの努力をあざ笑うかのように、ズレが生じてくる。

 『若者たちは、イエス様は好きだけれども、教会は嫌いだ』という本
が一昨年にアメリカの若手の牧師によって書かれた。この牧師の話を宣
教師であった義父が聞いていて、その本を紹介してくれた。変化も新し
さもない教会、変化することが、新しいことを試みることが不信仰のよ
うの思う体制としての教会に多くの若者が嫌気をさしている。

 差異は、しかし、意図的な変化、変革ではない。差異はかなりの意味
で受動的である。能動的な変化を唱えてもそのようにはならない。全く
受動的な差異を聞き届けながら、方向付けていくだけである。政治的な
アジェンダではない。新しい大統領もその辺でのジレンマに直面するで
あろう。

 全く受動的だと思われる差異はどこから来るのか分からない。差異は
超越している。ただ差異は時の中で現れる。その流れをコントロールす
ることはできない。ある適度の対応をしているだけである。自然災害が
あり、政治の行き詰まりがあり、経済の崩壊がある。教会の行き詰まり
があり、神学校の閉塞感がある。その度に対応を迫られる。

 どこからそのような差異が生じるのであろうか。差異が問いをもたら
す。差異が問い直しをもたらす。その度に目を覚まされ、祈りを新たに
され、信仰を問いただされる。どうしてなのかと問い、どのようになる
のか息を潜めて見守っていく。

 差異は沈黙している。差異は時の中に秘かに紛れ込むように入ってき
て潜行している。ただ多少の差異をもたらしながら響いている。沈黙の
響きである。その沈黙の響きを聴いていく。耳を澄ませて向こうから届
いてくる差異という沈黙の響きを聞いていく。眼を開いてどこから到来
するのか分からない差異という沈黙の響きを見つめていく。じっと佇ん
で秘かに紛れ込んでくるような差異という沈黙の響きを肌で感じていく。

 上沼昌雄記

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