「車輪の上、車輪の下」 2009年2月23日(月)

 
ウイークリー瞑想

 ツール・オブ・カリフォルニアは、首都サクラメントを皮切りに、サ
ンフランシスコを通過して、いくつかの町をとびとびに南下して、昨日
サンディエゴ近くを最終フィニッシュとして9日間のレースを終えまし
た。3年連続でレイフェイマーという選手が優勝しています。アームス
トロングは7位でした。

 「私も去年から片道14kmの自転車通勤を始めました。自転車
は、自己肯定感をとても高めてくれる乗り物で、わたしはそれによって
精神的に随分、いえ、はかりしれないほど助けられてきています。」そ
のように返事をくださり、さらにお嬢さんと都内70キロのサイクリン
グをしていると言うことです。

 「私も二年前からロードバイクに乗り始めて、その面白さにはまって
いるところです。いつも一人で走ります。風向きを気にします。追い風
のときは、、、。向かい風のときは、、、。横風が吹くとき
は、、、。」そのように書いてくださって、自転車に関する幼児期のこ
とに触れています。

 そんな返事をいただいてうれしくなりました。ツール・オブ・カリ
フォルニアのホームページを見つけてレースの映像も観ることができま
した。そこでこの自転車レースのロゴに目が留まりました。渦巻きのよ
うに描いたふたつの車輪の上を前傾姿勢で走っているレーサーの模様
が、どうみてもひらがなの「う」の字に見えます。何か上沼の「う」が
走っているような感じです。

 片道14キロの自転車通勤をしている方は、闇の本の装丁をしてくだ
さったデザイナーなので、そのロゴをコピーして送りました。「いかし
ていますね!」と返事をくださいました。ここでもそのロゴを載せたい
のですが、著者権の問題がでてきそうで控えておきます。http://
http://www.amgentourofcalifornia.com/ で見ることができます。

 そんなやり取りをしたり、レースをときどき観たり、マウンテンバイ
クを乗り回したりしながら、「車輪の上」で風を受けている自分に、ど
ういう訳か、あのヘルマン・ヘッセの小説のタイトル『車輪の下』が浮
かんできました。語呂合わせのようなのですが「上」ではなくて、
「下」であることに、すでに100年以上前に書かれたこのヘッセの自
伝的小説になお今日的な意味があるように思わされて、再度読むことに
なりました。

 ドイツの片田舎の14歳のハンス少年が、優秀であり、そのように校
長や牧師から思われて、国営の神学校にはいるために、楽しい釣りや川
泳ぎを犠牲にしてラテン語、ギリシャ語、古典の学習に身と心が縛り付
けられてしまうのです。そのような自分であることを心のすみで誇りに
もしているのです。

 試験に無事にと言っても、2番目の成績で合格して、かつてシトー教
団の修道院であった森の中の新教の神学校に入るのです。日本で神学校
に行くというのとは歴史と体制が違います。14歳の少年にとっては国
家の宗教に身をささげることです。終身雇用と代償に国家に身を捨てる
ことです。それは決められたエリートというレールの上を走ることにな
ります。あるいはそんなレールの上を走る車輪の下敷きになって押しつ
ぶされてしまうことです。

 神学生ハンスは、注意人物とみなされてしまう親友の詩人ハイルナー
と前後して、そんな車輪に押しつぶされてしまったかのように、追放さ
れ、放校され故郷に帰ってきます。ヘッセ自身の経験です。そんな自分
をハンスとハイルナーの二人の少年で描いています。ハンスは押しつぶ
されたままで水死体として見つかるのですが、ヘッセは成長期の危機を
ハイルナーとして何とか乗り越えていきます。とても際どいところです。

 少年が成長するために通過しなければならない過程だと言ってしまえ
ばそのとおりですが、100年以上前に書かれたこの自伝的小説は、近
代化の訪れとともにその流れの車輪の上を走ることができないで、車輪
の下で押しつぶされていく私たちの姿を描いていると言えます。

 近代化、モダニズムは家庭、教育、学校、会社、社会、すべてに走る
べき道筋を提供しています。神学校もその一環になっています。その車
輪の上を走る牧師を養成するのです。そうだとすれば教会もその車輪の
一部になります。信仰と伝道がプログラム化され、それをこなし、実行
できる信徒が車輪の上を走ることになります。

 それは取りも直さず、そのような神学教育を可能にする神学そのもの
が、車輪の上を走ることのできるメカニズムの一部になっているからで
す。神学が体系化されていくときに、そのメカニズムの上を走れない人
をはじき出し、押しつぶしていくことになります。

 聖書は、そんな体系化に入らない豊かさを持っています。計り知れな
い深さを持っています。これが聖書の教えだと言えば、そのズレを示し
ていきます。聖書を体系化すれば、それでは説明しきれない差異を示し
てきます。救いをいただいて安心していれば、暴風を送ってきます。

 高校からの帰り道、冬場は有名(?)な空っ風に向かうことになりま
す。赤城山を越えてそのすそ野をはうように吹いてくる冷たい風に、畑
の脇で自転車が一瞬止まってしまいます。息が止まり、こいでいるので
すが自転車が戻される感じです。町を挟んで家と高校があり、雨の日も
風の日も毎日40分ほど少なくともただ車輪の上にいられたので、少年
ハンスのようにはその下敷きにならないで済んだのかも知れません。そ
してその自転車の通い道にバーネット館という宣教師館があって、誘わ
れてバイブルクラスに行くことになりました。

 上沼昌雄記

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「自転車」 2009年2月16日(月)

 
ウイークリー瞑想

 日本は4月の陽気だと、友人がメールで知らせてくれました。雪国の
秋田もしばらく雪がなかったということです。こちらは先週半ばから断
続的に雪に見舞われました。金曜日の朝は10センチ以上積もってい
て、勝手にスノー・ディと決め込んで家で仕事をしていました。気温が
少し上がってきて雪も溶けてきたのですが、週末は風と雨といつでも雪
のゆりそうな雲の中でした。下のサクラメント・バレーは雨で、上のシ
エラ山脈は雪です。この冬の降水率が半分ほどでしたので恵みの雨であ
り、恵みの雪です。

 今日はプレジデント・ディです。間借りしている友人の事務所も閉
まっているので、間接的に家に閉じこめられています。空は相変わらず
どんよりとした雲に覆われています。しばらく太陽が隠れたままです。
いつもは雪が降ってもすぐに太陽が出て来て、もとのカリフォルニアの
青空に戻ります。これほど長く太陽を見ないのも珍しいです。気が滅入
りそうです。

 そんななかでひとつだけ心躍らされるイベントが繰り広げられていま
す。土曜日から始まったツール・オブ・カリフォルニアという自転車
レースです。夏に毎年開催されるツール・ド・フランスのアメリカ版で
す。あのランス・アームストロングが4年ぶりに復活して参加している
こともあって、地元サクラメントは大変盛り上がっています。最初の日
のスピードトラックで使った彼の自転車がその晩盗難にあったというこ
とで、その悪いイメージを取り戻そうとサクラメント市当局はさらに躍
起になっています。

 昨日は雪で礼拝が取りやめになりました。すでに礼拝を終えてその
メッセージを届けてくださった立川福音自由教会の高橋秀典先生のメー
ルを読み、ルイーズの従姉妹のサンフランシスコ郊外のロシア正教会の
聖歌隊の賛美を聴きながら一時を過ごしました。

 それでも正午に、サクラメントの隣、カリフォルニア大学のデーヴィ
ス校のある街から、サンフランシスコ郊外のサンタ・ローザまでの10
0マイルのレースがスタートするのが気になっていました。雨の中で
す。途中に山越えがあります。3つのチャンネルしか映らないテレビで
観戦できるかと思ったのですが、残念どこにも入ってきませんでした。
夕方のニュースを待ちました。アームストロングは5位で入っていま
す。こんな雨の中のレースは初めてだと言っています。

 今日はゴールデンゲートを通って、坂の街サンフランシスコを通過し
て、海沿いを走って、サンホゼの先のサンタクルツまでです。今日も雨
のようです。その地形を想像し、雨の中をひた走る選手たちを思い、沿
線で応援している人たちを思い描いています。

 メイジャーリーグの野球があり、フットボールがあり、バスケット
ボールがあるのですが、歳なのかそんなに興奮しません。しかしこの自
転車レースには不思議に心が躍ります。自分も走っているような感じに
なります。3週間ほど前に教会の方が、ガラージセールで見つけて修理
をしてくれたマウンテンバイクをくださいました。少しでも時間がある
と家の回りを乗り回しています。

 日本で牧会をしていたときに、都内にあった神学校まで5段切り替え
の自転車で週一日通ったときのことを思い出しています。電車を乗り換
えていくよりも、車でラッシュアワーのなかを走るよりも、自転車で通
うのが時間的に正確で速いのです。雨の中も蒸し暑い日にも、車の間も
また歩道も、自転車ですいすい走っていました。

 神学のテーマを考え、自分の心を見つめ、先どのようになるのかを思
い巡らしながら自転車をゆっくりこいでいました。通過する町々の様
子、家々の匂い、人々の息づかいを感じます。風を切ってとはとても言
えないスピードなのですが、歩いているときより風を感じます。自分だ
けが受けている風に生かされていることを知ります。風の中で自分一人
なのです。自分の足でこぎ、その強さでしか進まないのです。どこでも
いつでも止まることができます。全くの自由です。

 一度日本に滞在しているときに、信濃町で友人と会う約束をしていま
した。改札口の方ばかり見ていたのですが、マウンテンバイクで、ヘル
メットをかぶり、ショートパンツで現れました。驚きました。同時に都
内を自転車で駆け巡る姿を想像してうらやましくなりました。先週の記
事に書いた友です。

 中島みゆきの歌「時代」をこの覧で数年前に書いたときに、それはボ
ブ・ディランのThe Times They Are
A-Changin’の影響だと教え
てくれました。ボブ・ディランのデビュー曲、Blowin’
in The 
Windがあります。おりかえしが浮かんできます。「その答えは、友よ、
風の中に舞っている。風の中に舞っている。」

 このおりかえしと、夜訪ねてきたニコデモに応えたイエスのあの返答
を、自転車をこぎながら思い巡らしたくなりました。「風はその思いの
ままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこに行く
かを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
(ヨハネ3:8)でも外は雨が降っています。

 上沼昌雄記

「素敵で粋な神の計らい」2009年2月9日(月)

 
ウイークリー瞑想

 父親のテーマで文章を書いています。男性集会を続けてきて、男性に
とって隠れた重たいテーマであると気づいてきました。父親のことは、
話すこともない、話す機会もない、話したくもないということで、男性
にとってはそのまま闇です。心の深くに閉じこもっていて、それでいて
男性の陰のように付きまとっています。

 男性集会で父親のことをただ分かち合うこともしています。個人的に
インタビューもしています。私にとってはどちらかというと穏やかで静
かな父親のイメージです。ですので自分が父親のことを書くことはない
と思っていました。それでも闇のテーマを取り上げてから、私にとって
も避けられないと分かり、書いてみました。父親のことと、父なる神
と、三位一体の神ことです。

 すでに10年ほど前に不思議に知り合った方がいます。肉体的、精神
的な痛みを抱えていたのですが、男性集会で、一番苦しいことは父親の
ことですと言われました。その時の状景、この方の表情を今でも覚えて
います。父親によって人生を狂わされましたと言うのです。それ以来何
とも言えない不可思議な交流をいただいています。交流をいただいてい
ること自体が理解を越えていることなのです。書いてくださることも私
の理解を越えていて勉強をさせられます。

 そんなやり取りのなかで、父親のことで書いた原稿を読んでいますと
言うとになりました。「私は反発もなければ愛着もない、どうも不透明
なイメージです」とメールを送りました。返事をくれました。「これっ
て、おかしいい、、、、、、。! 超笑えました! 笑っちゃいけない
のでしょうが、何かおかしくて笑い転げてます。こういう事を平然と書
いてくるのが先生のおかしな所ですよ!」「僕なんか父死しても、まだ
父の呪縛にかられている部分」があると言うのです。

 そして、その後に書いてくれたのはとても笑ってはいられないことで
す。でも笑ったのでこの方の心が打ち破られて、縛られていた父ののろ
いが吐き出されたかのようです。だれにも話したことがない「長く封印
してきた僕の闇です」と言って、中学生の時に経験した父親のことを詳
細に書いてくれました。10年ほど前にほんのちょっとだけ漏らした父
親のことを今聞くことになりました。その時の顔の表情の裏側を知るこ
とになりました。そして、放蕩息子のようには父のもとには帰れないの
ですとため息をつくように言うのです。

 この文書を私がブログでも著書でも使ってかまいませんとまで言われ
ます。初めはとても載せる気持ちにはなりませんでした。載せたらばす
でに書いた原稿に毒を入れるように思ったからです。本のニュアンスが
変わって来るからです。ですが、その毒はまさに父親が持っているどう
にもならない毒性であると気づいて、自分の文章を読み直しながら、慎
重にこの方が書いてくれたことを入れてみました。確かに毒が入ってき
た感じです。毒にやられてしまう部分と、守らないといけない部分が自
分のなかで拮抗してきました。何とかふたつに分けて入れてみました。
苦しめられました。

 何とか落ち着いたかなと思って、後半を読み出しました。後半は父な
る神と三位一体の神のことですので、そのまますんなりといけるかと
思ったのですが、前半の毒が付いてきます。それでこの方にメールを書
きました。「後半を読んでいますが、やはり前半の爆弾の影響に引きず
られて苦しんでいます。父親の毒性を盛り込まないと落ち着かなくなり
ました。」

 この方の書いてくれたことは大変なチャレンジなのです。それをしっ
かり受け止めることが文章としてできるかと問われている感じです。そ
のぶん苦しまされるのです。この方と似たような告白をある男性から聞
いています。そのように語ってくれた男性たちに応えられるかと問われ
るのです。

 また返事をくれました。「先生が苦しむ事で、僕は救いを受けていま
す。内緒にしていた僕の父への思いを知らせた事で、僕の心のなかの風
向きが変わってきました。、、、素敵で粋な神の計らいだと思っていま
す。」

 だからといって過去がなくなるわけでもありません。それでもじっと
しまい込んできた記憶が解き放たれて、今までにない息吹が泡のように
吹き出しているのかも知れません。それは、晴れ渡った大空の下で飛び
跳ねるような素敵な感覚ではなく、どんよりと覆われた霧が少しだけ切
れかかった感じなのだと思います。どうなるかもまだ分からないので
す。それでも笑い転げたことで心の窓が開けられて書いてくださったの
で、新しい風がこちらにも届いてできます。笑い声が聞こえてきます。

 上沼昌雄記

「行き所のない時間、置き場のない空間」2009年2月 2日(月)

ウイークリー瞑想

 先週の神学モノローグ「意に反した差異、過剰な差異」に関して、友
人の牧師からレスポンスをいただきました。「私のライフワークである
<神義論>についてです。それをすべて論理で説明することは、<神>
を論理に閉じこめることと思っています。そういう意味では、最終的に
<信仰的不可知論>が私の立場です。」何度も読み返し、思いを馳せる
ことになります。

 神義論(あるいは弁神論)は、神が義であり、善なる神であるのに、
なおこの世には悪が存在し、苦しみや痛みがあるのかという、誰もどこ
かで確実に心の中で問う問いを基にして論じられている議論です。その
典型的な例が、義人ヨブの遭遇する苦難と、それに対する3人の友人た
ちとのやり取りと、最後まで神を信じていくヨブの姿勢です。前回の記
事にそのヨブのことに触れました。

 ヨブ記をライフワークとしている別の友人の牧師がいます。今週研修
でサクラメント郊外の教会にグループを率いてこられます。金曜日にみ
くにレストランでランチョンを予定しています。ヨブ記をライフワーク
とされているというより、ヨブと同じ歩みを通されました。ヨブの友人
たちの無理解にも遭遇されました。苦しんでいる者への教会での二次被
害と言っています。

 意に反したこと、それは誰も避けられません。避けられない時の流れ
の中に置かれているからです。それで、私の存在する前からのものを否
応なしに受け継いでいます。時の経過と推移の中で父の咎を3代、4代
にわたって受け継ぎます。私の肉体も確実に老いていきます。高血圧と
高コレストロールの対応に迫られています。勝手に私の肉体に入ってき
ていると文句も言いたくなります。それ以上に、「病気は悪化していま
す」と言う短いメールを2週間前にある牧師からいただいています。

 また私の外のものが私に降りかかってきます。「自己に反した」とい
う言い方を、他者を視点に哲学をしているレヴィナスが言っています。
意に反して遭遇させられたホロコーストは、当然ユダヤ教徒であるレ
ヴィナスにヨブ記について書かせています。歴史に潜在している悪は、
善への突破口であるとまで言います。アウシュビッツでキリスト教の神
は死んだが、アブラハム、イサク、ヤコブの神はなお生きているような
ことを言います。そんなレヴィナスに惹かれてヨブ記に注目しています。

 日本の教会の戦争責任のことが真剣に取り上げられています。自分の
外のことで直接には関係ないことでも、記憶として確実に届いてきま
す。また戦争を通して明らかになった悪は、いまだに確実に影響してい
ます。村上春樹が小説で取り上げています。妻の失踪に、妻の家族の戦
争の時の悪が深く絡まっているという小説に、多くの若者たちが、世界
中の人たちが共鳴しています。戦争で暴露された悪が、いまでも生活の
回りに染み込んでいて影響しています。

 思いがけないかたちで苦難に遭遇したヨブ、神がサタンによってヨブ
を打つことを許されたこと、妻に呪われたこと、ただ黙ってじっと見つ
めている3人の友人たち、どうみてもこれが聖書かと思わされます。ヨ
ブは自分の生まれた日をのろうのです。その日が神からも顧みられず、
闇と暗黒の中で隠れて自分の意識にも上らないで消えてしまうことを望
むのです。しかし、ただ嘆くだけです。「死を待ち望んでも、死は来な
い。」(ヨブ記3:21)

 どうすることもできない思い、右にも左にも行けない、ただじっとし
て苦しみの中で耐えているのです。そんな自分を見つめているだけで
す。どこかに行って逃げることができれば希望があります。どこにも解
決の道はないのです。どうすればよいのかも分からないのです。苦難の
下にあることだけが分かります。そんなことが意識にも上らないで通り
過ぎてくれたらばと願います。しかもその苦しみはしっかりと意識の上
に留まっています。どこにも行かないのです。どこにも行けないので
す。行き所のない時間が、置き場のない空間のように心をじっと占めて
います。

 友人の言う「信仰的不可知論」を少しでも理解できたらばと願いま
す。理解できなくとも、「最終的に信仰的不可知論が私の立場です」と
言明されるその信仰に惹かれる思いです。

 上沼昌雄記