「新緑の証」2009年5月27日(水)

 
ウイークリー瞑想

秋田から山形まで奥羽本線を南下しながら旅を続けています。
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両連結のワンマンカーの後部の一番後ろに座っています。肘掛けを
背もたれにすれば両側の窓から新緑の景色が飛び込んできます。後
ろを見れば誰もいない運転席から過ぎ去っていく景色を追うことに
なります。仕事に出かける人が数人座っているだけです。通学生の
いない静かな車内です。

停車駅の脇をグレーの車体にピンクの筋の入った新幹線「こまち
号」があっという間に通り過ぎて行きます。いつもは新幹線を使っ
て移動をしています。しかし今日は、新幹線では味わえない景色を
ゆっくりと眺めています。

朝日に照らされて新緑が冴えています。線路の脇も、土手も、道端
も、水を張った水田も、山並みも緑に覆われています。それでいて
一つ一つの緑は自分の存在を主張するかのように自分の緑を醸し出
しています。冴えています。その緑をさらに際だたせるように色と
りどりの花が背を低くして咲いています。見事な演出です。

田植えを終えた水田の脇で農家の方が太陽の下で仕事をしていま
す。おいしい「あきたこまち」の産地です。水田には朝日が気持ち
よさそうに照り返り、秋田杉を抱えた山並みが遠慮がちに写ってい
ます。その田園風景は何ものにも代えがたいものです。しかし、そ
のためにというか、それを守り維持している農家の方の労力は想像
を超えたものです。それでも、苗が充分な水分と太陽で生長して稲
を実らせていく作業に関われるのは貴重なことです。

秋田で何度か新鮮なワラビをいただきました。親戚の方が山に取り
に行ってゆでてくれたものが食卓に出てくるのです。その山は秋田
杉を抱えて深く古い緑を醸し出しています。ところどころに山藤が
すだれのようにかかっています。飽きさせない演出です。その黒い
緑の奥は何かが出てきてもおかしくないような闇の奥です。その山
並みの間をしみ込んだ水が集まって渓流を作り出しています。その
渓流で釣りをしている人が目に入ります。遠くの山にはまだ残雪が
残っています。その水はさぞ冷たいのだろうと想像したら、そこに
足を突っ込んでいるような気持ちになりました。

山形に近づくにつれ、少しずつ果樹園が目に入ってきます。リンゴ
の木、ぶどうの木、サクランボウの木も緑をたたえて実りの時に向
かっています。その実りの時のために稲も果物も水分を補給してい
るようです。あるだけの水分をとって実が結んでいく素地を作って
いるようです。新緑はいのちの継承のしるしです。

新緑は生きている証です。雑草で刈られるだけであっても、それは
新しいいのちが生まれている証です。刈られるだけのそれだけのい
のちが生きているのです。邪魔ものでもそれは生きているのです。
冴えきった豊かな新緑は、古いものを覆い尽くす新しいいのちの到
来です。

そんないのちの証の緑をお借りして それに黒を少し対比させてミ
ニストリーの色としています。それに「三位一体の神と私」のイ
メージをロゴとしています。三つの緑とその下に黒い点を付けたデ
ザインです。いのちのしるしである緑と、闇のなかの私の黒です。
そんな色とデザインを名刺にして持ち歩いています。

上沼昌雄記

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「闇の奥に」2009年5月21日(木)

 
ウイークリー瞑想

過ぎる土曜日の午後に、今回の日本での最初の奉仕の教会に到着い
たしました。牧師ご夫妻と再会の挨拶をしてしばしくつろいでいま
した。そうしましたら、その奥様が突然でもないのですが、このと
きとばかりのような感じで、私の闇の本に関してどのような人を相
手に書いたのかと聞いてこられました。そのような質問を受けたの
は2回目でした。それで、逆にどのように思いますかと聞いて
みました。

1章を読み出したときには、これはいったい何を言おうとしているの
かとも、このまま訳の分からないことが続くのかとも、このままや
めようかとも思ったと言われました。しかし2章に入ってから
は、ダビデとパウロと私の経験が重なってきて一気に読むことがで
きたと言われました。

最初に同じ質問を受けたときのことが浮かんできました。誰を相手
にというより、結局自分のために書いたのだろうと思って、そのよ
うに答えました。「分かりました」とそのときには言われました。
今回はその書いたときの状況をお話ししながら、書かないわけに行
かなかった心の必要をお話ししました。

闇の本を書くことになった核心部分に触れてくださってので、今回
の奉仕は闇を避けないで、しかもどこまで取り扱えるのか祈りつつ
進めてみたいと思わされました。むしろ避けてはいけないのだと思
いました。それでもいきなり闇のテーマに入ることはできません。
それでダビデが罪を犯して神から逃げていったときに、主が自分の
前から後ろから取り囲んでいてくださる(詩篇139:5)体験を
したことから、「前の自分」と「後ろの自分」、「表の私」と「裏
の私」ということで、自己紹介をすることから取りかかりました。

教会での男性集会、夫婦セミナーに続いて、この月、火にわたって
5回目になるのですが牧師だけのセミナーでも取り上げました。どこ
まで入れるのか試行錯誤です。前の自分と後ろの自分を紹介してか
ら、その夜はその後ろの自分、裏の自分に入っていく作業をしまし
た。裏の自分は影であり、過去です。生まれ育ったときから、ある
いはそれ以前から自分の家系や家族にある闇を引き連れています。
その上さらに闇を増し加えるような出来事に遭遇しています。

聖書の時代は夜になれば真っ暗です。月明かりかろうそくか松明だ
けです。そんな夜にイエスを訪ねてきたニコデモのこと思い出しな
がら、集会室の電気を消して暗闇の中で自分の闇を振り返る作業を
始めました。裏の自分に入っていく作業です。自分の中でうずいて
いる心、自分を不安に陥れる闇、引きずっている影、何が出てくる
のかは分かりません。全く個人的なことです。出てきたことを分か
ち合いました。共通に分かることは生まれ育ったときのこと、親の
こと、家族のことにどこかで関わります。まさに後ろの自分であ
り、裏の自分です。自分の過去であり、影です。

その分かち合いの後、さらにその闇の奥に、井戸の底に降りていく
ように、入っていったらどのようなことが出てきますか、どのよう
な状況が展開してきますかと問いかけてみました。続いて暗闇の中
で心を静まる時を持ちました。光をいただいているので、ほんの一
条の光を頼りに自分の心の闇の奥に入ることができるのです。ジョ
セフ・コンラッドの『闇の奥』と、その小説を下にして作られたフ
ランシス・コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」の主人公たちが闇
の奥をたどることでいやされていくのです。

会衆は霊的な意味では牧師の心を見抜いています。語ることばが心
から出ているのか、頭から出ているのか聞き分けています。語る聖
書のことばが牧師自身の心に届いているのかどうか見抜いていま
す。牧師の闇を感じ取っています。そこに光をいただいているかど
うか見抜いています。

そして牧師は聖書を聞くひとりひとりの後ろに、裏に神のことばを
届けていく責任があります。表だけでは息苦しくなります。後ろに
届くことで、心の癒しが与えられ、生きてきます。光が与えられ、
解放されます。

そのようにして自分の中で、光と闇の折り目ができてきて、今まで
全く別々であった表の自分と裏の自分、前の自分と後ろ自分が結び
ついてきます。折り目を通して結びつくことで、神の前で「表の
私」と「裏の私」が手を結んで生きることになります。

上沼昌雄記

「現代哲学が語るもの」2009年5月5日(水)

 

神学モノローグ

脱構築、揺らぎ、差異、反復、他者、顔、痕跡、パロール(語ること)、エクリチュール(書くこと)、アンティ・オイディップス襞、器官なき身体、渇望、欲望機械、ノマド、等々。


代哲学の醸し出す異様な用語に、哲学を多少はかじっていても、かなりの違和感と疎外感を感じてきた。時代遅れで取り残された感じでいた。同時にそんな用語
を出してもどこにも行かないのではないかと思ってきた。それでも直感的には、そんな用語を振り回すことで何かを求めているのだろうと思う。もがきであり、
産みの苦しみでなのであろうとも思ってきた。さらに現実的には、そんな用語で表現される世界に子供たちは生き、その子供たちも生きようとしているのであ
る。

それでもそんな不可解な哲学の世界にもう一度引き込まれることはないと思っていた。しかし、
イデガーの対局にいるレヴィナスを読むようになって、かなり風向きが変わってきた。哲学の終焉のようなものを前世紀の初めに感じ取っていた終末感が、ヨー
ロッパでホロコーストを経験することで現実のものになった。その哲学の死からの再生を真剣に求めているのだと思うようになった。ホロコーストは、西洋の哲
学だけでなく、西洋の神学の死でもあった。そのホロコーストの生き残りといえるレヴィナスは、血肉を注いでその再生を求めている。その真剣さに打たれた。
ユダヤ教徒として旧約聖書を哲学の世界に押し出している。それしか再生の道がないかのようです。そんな視点と真剣さに感動した。


メリカにとっては、ホロコーストは対岸のものであった。アメリカの神学は勝利者の神学である。戦後はその力に乗って世界的な宣教がなされた。日本の教会は
その恩恵の中にいる。個人的にはそんな流れの中に組み込まれることになった。そんな恩恵を受けた日本の教会も、そんな恵みをもたらしたアメリカの教会も、
ここにきて前世紀の初めに哲学者が言い出した哲学と神学の終焉を経験してきている。勝者として築き上げた神学の行き詰まりを経験してきている。西洋の神学
の行き詰まりである。しかしそれは、聖書の行き詰まりを意味はしない。


イデガーの存在の問いは新しい道を開いた。しかしその何ともいえない神秘的な言い回しは哲学の行き詰まりでもあった。同時代人のヴィットゲンシュタイン
は、世界を言葉で説明しても、世界の意味を見つけることはできないといって、沈黙を哲学の結論とした。そんな哲学の終焉と死の現実から、現代の哲学者は何
とか再生の道を見つけ出そうとしている。それで脱構築とか、差異とか、欲望とか、一見過激と思われる用語を使い出している。


んなことがあっても人は生き、時代は流れ、社会はそれなりに機能していく。その始まりがどこで、どこに行くのかとは問わない。それには答えのないことを分
かっている。悟っている。ようやく悟ったともいえる。それでも時間は停止することはない。空間は消えることはない。命は継承されている。時代は生き、国は
生き残り、地球は存在し続ける。その現実の中での再生の道を探っている。力を起こし、新しい命を生み出す躍動感を求めている。


つての観念論哲学での世界の説明、神学による世界の始まりと終わりの説明ではホロコーストを阻止できなかった。そんな原体験をもって哲学に取り組んでい
る。かつての体系の揺れや、隙間や、外れに注目してきている。命の流動性、その襞の動きを見ようとしている。心の襞を注視し、心の闇を聴こうとしている。
他者のパロール、他者のエクリチュールを大切している。自分の論理よりも他者の語りに耳を傾けようとしている。優しい哲学を求めている。心痛める者のそば
に立つ哲学を求めている。


者の神学ではやりきれなくなっている。これをしたら大丈夫、この方法でしたら教会が成長するという勝者の方程式では取り入れられないものが出てきている。
揺らぎが生じ、差異をもたらしてきている。苦しむ者、痛める者のそばに立つ神学が求められている。答える神学ではなく、問う神学が求められている。語る神
学ではなく、聞く神学が求められている。子供たちのためにも、さらにその子供たちのためにも責任が課せられている。 

上沼昌雄記