「自然と叫びとヨブと」2009年7月1日(水)

 

ウイークリー瞑想

昨日無事にカリフォルニアに戻ってきました。多少遅くなったラン
チを妻の両親と親戚の者たちと外で食べました。妻は、シカゴの長女に5
月末に2番目の子供が与えられ、孫に会いにすでに行っていま
す。私はこの土曜日、それはアメリカの独立記念日なのですが、シ
カゴに向かいます。北カリフォルニアの家に戻るのは半ばになりそ
うです。

カリフォルニアの太陽が何の妨げもなく降り注いでいます。まぶし
いばかりです。手入れが届いている芝生は、暑い太陽の下で水が注
がれ、しっかり刈られたら如何に美しいかを示しています。空には
少しの雲が浮かんでいますが、それ以上には透き通れないほどに澄
み切っています。

そんな誰も文句が言えないほどの青空を見上げていたら、成田を発
つ前日の夕方に、靄の中に幾重にも浮かんでいる山々を観たときの
情景が浮かんできました。山形市内での夜の集会に、最上川沿いの
隠れ家のご主人がドライブしてくれた車中から、遠くに連なってい
る山々が靄の中で幾重にも重なりながら、その重なるたびごとに夕
闇の中で濃紺が異なってくる幻想的な情景を、ことばなしに眺めて
いました。

ゆっくりと流れる最上川と水田に張られた水が、日中暑い中で蒸発
して靄になって、夕刻には遠くの山々を浮かび上がらせる帯となっ
て地に浮かんでいます。そして地の緑の敷物と、その上に夕闇に浮
かぶ山々の灰色がかった青の覆いは、なんと言えない幻想的な風景
を作り出しています。それに引き替え、何の妨げるもののない太陽
の下では、すべてがさらけ出されています。美しいものはより美し
く、見にくいものは目をそらしたくなるほどに、すべてがはっきり
しています。灰色かかったものはありません。

人文地理学的には、それぞれの地形や風土の違いがそれなりに心に
まで影響していると言えます。澄み切った太陽の下で生まれ育った
妻と、多少幻想的な灰色かかったところで生まれ育った夫が、私た
ち夫婦です。それでも灰色のないカリフォルニアで、人々は苦し
み、家庭が崩壊しています。灰色かかったと見える最上川沿いで、
心が澄み切って元気に生きている人々がいます。

太平洋を挟んで二つの異なった風景をしかも短時間に経験しなが
ら、やはり心にはあのヨブに最後に神が語られたことばが響いてき
ます。「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。
あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。」(38:4)地上
には労働があります。その実もあります。山の幸、海の幸を楽しむ
ことができます。同時に苦しみがあり、病があり、死があり、涙が
あります。それらすべてをご存じであって、しかもあたかも知らな
いかのように、神は語られるのです。

新緑の日本、森の中でなくカッコウの声、水の張られた水田、手付
かずの自然、北の大地に吹く風、さくらんぼの木の下、幻想的な山
並み、そんな景色を楽しみました。同時に心の叫び、うめきも聴き
ました。心のふたが開けられたようなウオーという叫び、聴きたく
ない金属音、止まることないモーターの音、ただため息、顔を斜め
に上げて叫ぶ遠声、心の底で誰もが何らかの叫び、うめきを響かせ
ています。

人には聞き取れない心の響きを、確かに神は聴いていてくださいま
す。それでいて、そんなことは知らないかのように神は嵐の中から
ヨブに語られます。人々の叫びとうめき、私の叫びとうめき、それ
らすべてを吸い取るかのような手付かずの自然を前にして届いてき
たヨブへの答えが、不思議に繰り返し届いてきます。

上沼昌雄記

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