「心の底で響いている音」2009年7月6日(月)

 

神学モノローグ

 6週間の日本での奉仕が許された。昨秋出した闇の本に基づ
いて、どれだけ闇について触れることができるか遠慮なしに試みる
ことにした。すでに本を読んでくださった方々もいるが、聖研やセ
ミナーでどのように取り扱うことができるのか、ともかく挑戦する
ことにした。最初は昨秋から取り入れている「表の私」と「裏の
私」ということから取りかかった。そしてその裏の私をさらに辿る
ために、心の深くでうめいたり、うごめいたり、叫んだりしている
心の響きを聴いてみる作業をすることになった。

闇は隠れていて、光には出されていないので、言葉で言い表すこと
ができない。言い表せたら闇でなく、光である。闇は心のどこか
で、底の深いところでドロドロしたもので、訳の分からないままで
不気味に漂っている。そんな自分でも捉えきれない、抗しきれない
力に突き動かされて罪を犯してしまった自分を、ダビデは振り返り
ながら詩篇139篇を歌っている。

5節から「表の私」と「裏の私」と言うことで自分を振り返ることが
できる。その前の4節で、その裏の私の心の底に響いている何
かを「ことばが私の舌にのぼる前に」と言い表している。そのこと
ばの手前の世界にどのように入ることができるのだろうかと思いな
がら、そのまま尋ねてみることにした。すなわち、それは言葉では
言い表せない、そうだとしたら、うめきや、叫びとして心で響いて
いる音で表したらどうなるか聞いてみた。

ひとりの青年がためらいもなく、ウォーと叫ばれた。心に押さえ込
まれていたものが、ふたが開けられて出てきたような叫びであっ
た。それだけで彼の心が解き放たれたようである。その叫びは今で
も耳に残っている。あるお嬢さんは正直に、聞きたくない金属音の
ようなものが鳴り響いていると言った。その場にはご両親もおられ
た。それだけでメッセージになったようである。

ある男性がそれしかないかのように、「止まらないモーターの音」
と言われた。説明はないのであるが、聞いているだけでこちらが疲
れてしまいそうである。またある中年の男性は、チャンネルが合っ
ていないテレビの「ジーィー、ジーィー」という連続音が鳴り響い
ていると言われた。聞きたくもない、観たくもない、それでいて消
すこともできない、しかも観なくてはならない、誰もが経験してい
て、それでも歓迎されない音である。どちらもそれ以上の説明を聞
くことはないが、こちらで想像してその心の情景を推し量ることが
できる。

ある年配のご婦人が「ため息だけが聞こえます」と言われた。でも
その時は安心しきった様子で言われた。この方とはこの3年ほ
どいくつかの会合でお会いしてきた。確かに最初の時にはため息し
か出てこなかった。しかし今度は、そのため息が色づいてきたとい
うか、メロディーが付いてきたというか、
ため息が多少の音
楽を奏でてきた。負っている重荷を知らされている。その重荷はな
くならないのであるが、その中で不思議に神に近づいていることが
響いてくる。

一泊の牧師の研修会で闇を辿る作業をした。夜には電灯を付けない
で暗闇の中で自分の影、闇を辿ることをした。その中のひとりの牧
師の教会に2週間後に伺うことになった。正直にその作業はき
つかったと、お好み焼きを食べながら言われた。今まではふたをす
ることでバランスがとれていたものが、ふたを開けることでそのバ
ランスが崩れてしまったと言われた。

闇を辿り、闇を見つめることはそのようなことなのだろうと思う。
そして心に響いている音を分かち合ってくれたが、それはバランス
が崩れたことで初めて出てきたようである。思いがけなく、また驚
きである。「ことばの手前の神学」という表現を闇の本で使った。
今は、その序論に取りかかっている。

上沼昌雄記

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