「過去を書き換える」2009年8月17日(月)

神学モノローグ

これは、例の『1Q84』のもうひとりの主人公である、かつて
数学の神童と言われ、今は予備校で数学を教えながら小説を書いて
いる青年が、10歳年上のガールフレンドとの会話で述べてい
ることである。多少変な状況で、それでいて形而上学的な内容を
語っている。その過去を書き換えるためには、ここではない世界が
必要であるという。過去はそのままでは今までの積み重ねで、その
記憶で押しつぶされてしまう。その過去が書き換えられることで現
在も変わってくる。そのためにはここでない世界に自分がいなけれ
ばならない。そんな小説を書き出しているという。

そのここではない世界には月が二つあったり、リトル・ピープルが
いたり、空気さなぎのようなものが積まれたりしている。そこでは
また、読字障害(ディスレクシア)を持った子供だけが世界を読む
ことができる。だからといって特別にどこか全く別の空間とか時間
とかのことを言っているのではない。ここでの世界でありながら、
いつの間にかここではない世界が挿入していたり、何かの拍子にこ
こではない世界に舞い込んでしまうような世界である。となればそ
れは当然1984年のもう一つの1Q84年である。

それで小説『1Q84』は10歳の時のことを書き換えるこ
とになる。30歳の青年にとっては20年前のことである。その
10歳の時の体験が青年の心の隅に巣くっていて、それが彼の思いと
行動のすべての軸にまでなっている。そのことに少しずつ気づき、
また自分がここではない世界にいつの間にかいることに気づいてい
く。そんなパラレルな世界が不思議に現実味を帯びて展開してい
く。そのようにして10歳の時のことが書き換えられていく。
それが現在に意味を持ち、現在を変えていく。

そのここではない世界とは、すなわち、私たちの過去を書き換え、
私たちの現在に変化をもたらす世界とは、神の国を信じ、期待して
いる者が当然いただいている世界である。声を大きくして言いた
い。それでもそれは、私たちの言葉や概念では表現しきれない世界
である。私たちの読字技術では解読できない世界である。それでイ
エスはたとえでしか語ることができなかった。たとえなので身近な
ことで分かった感じでありながら、たとえを超えた分かりきれない
世界でもある。ただイエスが父なる神とのみ共有して、御霊によっ
てのみ知ることのできる世界である。

それでいながら、私たちのただいている聖書理解は、自分たちの読
字技術ですべてが解読可能なものと思わせる。聖書の文字を論理的
に、整合的に体系づけることで、ここではない世界が手に取るよう
に分かったように思わせる。そこで出てきた命題に基づいてどのよ
うに信仰者としての歩みを整えていくのか、その手引き書ができあ
がる。それですべてが解決したように思わせる。すべてがここでの
世界のことになる。神学の作業と教会の事業となる。すなわち、ど
のように信仰生活をうまくやっていけるか、どのように教会を大き
くすることができるかということが関心事になる。

それでいながら、傷ついた過去はそのまま残っている。それに振り
回されている。どんな処世術をいただいても過去から逃れることは
できない。現在をどんなに整えようと思っても過去に引きずられて
しまう。過去に失ったものでいまでも苦しめられる。それが満たさ
れることを生涯求めている。そしてそんなことはすべて、信じて救
われたたことで解決しているように思わされている。そのように教
会で教えられる。

聖書は過去を書き換えられた物語に満ちている。ダビデにしてもパ
ウロにしてもとんでもない過去がありながら、「母の胎」や「アダ
ム」に立ち返ることで、ここではない世界からの恵みをしっかりと
いただいている。過去が書き換えられて今をしっかりと生きてい
る。とてもしっかりと生きている。むしろはるかにまさって生きている。

アウグスティヌスの『告白』は、自分の過去を思い出しながらその
過去の記憶から、記憶を支配しておられる神の創造の世界に入って
いる。ここではない世界の恵みがアウグスティヌスを生かしている。

上沼昌雄記

「礼拝、礼拝」2009年8月10日(月)

ウイークリー瞑想

礼拝でメッセージを聞いていて、と言うか、聞きながらその場にい
て、だから自分がクリスチャンなのだと、心の深いところで納得さ
せられることがあります。すなわち、クリスチャンでいることの意
味を、メッセージの流れのなかでただ深く感謝できるのです。メッ
セージはメッセージとして伝えたい内容があるのですが、その場で
耳を傾けていると、たとえどんなことがあっても、困難があり、苦
しみがあっても、クリスチャンであることをやめることができない
と自分に言いたくなるのです。だからたとえ、負わされている重荷
があり、先が見えないような状態でも、クリスチャンとして礼拝を
守っているのだというような確かさをいただくのです。

昨日はまたスラッツおばあさんのお孫さんがメッセージをしてくれ
ました。サンフランシスコ近辺からシェボレーのコベットという
カッコウいい古典的なスポーツカーで乗り入れてくれます。現実に
自動車関係の仕事に就いていると言うことです。サンフランシスコ
近辺の教会でも説教の助けをしていると言うことです。

アメリカで礼拝のメッセージを聞いていて、どうしたらクリスチャ
ンとしてうまくやっていけるのかという信仰処世術のようなもの
か、どうしたら教会が成長するのかという組織拡大法のようなもの
を聞くことがあります。さすがアメリカだけあってそのようなハウ
ツーものは見事なプレゼンテーションでなされ、会衆を喜ばせてく
れます。それでもだから自分がクリスチャンであると言うことを心
から喜んで礼拝を終えるわけではありません。むしろ変な疲れを覚
えます。逃げ出したくもなります。そんな教会には二度と行きたく
ないと思います。

また聖書そのものから語っているのですが、聞いていて、しかられ
ているような感じなることがあります。あなた方は聖書を知らない
から、信仰のことが分かっていないから教えてあがるという感じで
語られるのです。どうしても距離感を感じてしまいます。だんだん
教会の人もついて行けなくなります。また聖書の真理を自分だけが
見つけ出したので、あなた方に特別に教えてあげるという感じの時
もあります。なるほどそのようにも読めるのかと感心するのです
が、それだけで終わってしまいます。さらに聖書のことばをよく調
べてきて解き明かしてくれるのですが、そう読めなかったら良いク
リスチャンでないのかと逆に思わされてしまいます。

20年前に東京からフォレストヒルという小さな街に移り住んで、そ
の小さな教会にそのまま通っています。今の家からは一度山を下
り、川を渡って、また山に登って30分以上かかります。当時
の牧師とは今でも交流しています。その牧師が去ってから何人もの
牧師が入れ替わり来ました。今も次の牧師を捜しています。自分が
この教会の問題を解決し、教会を大きくしてあげると感じで来ま
す。牧師としての自分のアジェンダだけが先走っているのです。神
もどこかに追いやってしまっているときもあります。そんな感じの
候補者もいます。

スラッツおばあさんのお孫さんは候補者ではありません。ただ必要
があるので助けに来てくれます。メッセージとしての伝えたいこと
はありますが、その背後に自分自身がどうしてクリスチャンなのか
という確かさがにじみ出ています。人種の難しさも経験していなが
ら、さらに最初の奥様を20年前に癌で亡くされたことがあり
ながら、なおクリスチャンであることの最も深い根のようなものが
伝わってきます。ただそれだけでいいのだろうと妻と話しながら山
を下りてきました。

上沼昌雄記

追記:そういうことでこの山の小さな教会のことを覚えていただけ
れば幸いです。23日の礼拝後に信徒の話し合いが予定されて
います。

「1980年代の陰影」 2009年8月3日(月)

神学モノローグ

村上春樹の新刊『1Q84』に関して、かつて村上春樹の経営し
ていたジャズ喫茶「ピーター・キャット」に通っていた友人で、文
学好きな友が、マニアックで文学オタクの村上春樹の全開と称して
メールを送ってきた。村上春樹が文学オタクでも、この友人もそれ
に輪をかけてようにオタクぽくても、そこまではのめり込めないで
いる者には、ともかく『1Q84』はなんだと思わせるものを
持っている。少なくとも「なんだこれは」と言わせる。言いたくな
る。それだけ考えさせる何かを持っている。そう言うと友は、「考
え過ぎるとややこしくなるのでヤメる事にしてください。それが今
回の『1Q84』を読む一番の方法論です」と平気で言ってく
る。それでも考えないわけに行かない。そして確かにややこしくな
る。それがこの本の嫌みである。

それでも、当然『1Q84』が元になっているジョージ・オー
ウェルの『1984』との関わりで、どうしても1984年が
気になる。オーウェルにとっては近未来であり、村上春樹にとって
は、「近い過去、暗い過去」である。そしてそれは、麻原彰晃がオ
ウム真理教を起こした年である。裁判を傍聴し、地下鉄サリン事件
の被害者をインタビューして『アンダーグランド』という本でまと
めた村上春樹が、じっと心の目で見つめていた年であった。それ
は、またジョージ・オーウェルが見ていた年でもあった。そこに無
限大に近い村上春樹の想像力が展開していった。60年
代、70年代の学園紛争のグループが追われて山梨の過疎地で
始めた活動が、いつの間にか宗教法人となり、カルト集団となって
悪の影響を及ぼしていく。

そこに、ビック・ブラザーに対してリトル・ピープルが登場し、そ
の背後に10歳の少女への性的虐待があり、さらにロマンスが
ある。ヤナーチャックの『シンフォニエッタ』がタクシーのラジオ
から流れ、チェーホフの『サハリン島』が朗読される。文学オタク
の面目躍如たるところである。物語はしかし、当然のように複雑に
絡まってくる。それでもどうして1984年が問題であり、その1984
年が、空気が代わるようにどうして1Q84年になるのか考えて
しまう。

考えないで楽しめるのは、物語にはコンピュータも携帯もない、
ワープロと公衆電話でことが進んでいくことである。そんな時代も
あったねと言いたくなる。CDもまだなかった。それでも人は
しっかりと生きていた。当然村上春樹も当時は手書きで書いてい
た。そして書くことに集中していった。その年にピーター・キャッ
トを友人に譲ったと、友が教えてくれた。個人的には村上春樹を解
く鍵になると思われる『世界の終わりとハードボイルド・ワンダー
ランド』は次の年、すなわち、1985年に出ている。1984
年はその草稿に沈潜していたときである。

そんなことを思っていたら、自分にとっての1984年は何で
あったのだろうと、問いかけてみたくなった。その年をピンポイン
トのように思い起こすことはできなくても、もう少し大目に見て、1980
年代は自分にとってどんな時代であったのであろうかと思うように
なった。60年代、70年代を学園紛争で過ごした者も、
その次の世代、すなわち、日本がまさに経済的の絶頂に向かって突
き進んでいった怒濤のような動きに否応なしに組み込まれていっ
た。その先鋒を担ぐことにもなった。そして日本全土が、バブル崩
壊の前のバブル景気で酔っていたときである。

それに合わせるように福音派の教会も拡張していった。そのなかで
教会を牧会し、神学校で神学を教えていた。その神学校も経済成長
に合わせて、都内の土地を売って、郊外に移転した。自分たちが理
解し、教えてきたことがそのままに行くと思わせるときであった。
教会も神学校もそれなりに成長し、経済的にも拡張し、自信を持っ
ていた。しかしどこかで傲慢の種が埋め込まれ、落とし穴が仕組ま
れていった。

そんな80年代の陰影を見抜いているかのように、村上春樹は
「世界の終わり」に言及する。隠れて密かに始まったオウム真理教
の臭いをかいでいたかのようである。それが表に出てきたときに、
その臭いの元を探るように1984年に焦点を合わせていく。
「暗い過去」を見据えている野の獣のように、狙いを定めて静かに
辿っていく。そこに、1984年とパラレルに存在する、不思議な
Question Markを付けたくなる1Q84年に突き当たる。

『1Q84』の物語に入っていくと複雑に絡まっていて出られな
くなる。そこに引き込まれないように、その1Q84年が関わる
80年代を振り返えることになった。それでどうなるわけでもない。
それでもどのような時代に生かされてきたのか、多少とも考えるこ
とになる。当然教会として、神学を志す者として、80年代の
陰影を抱えることになる。その意味を、歴史をも支配する神に問い
ただしてみたい。

ともかくその80年代にいろいろなことがあって、まさにその
80年代の終わりに、すなわち、1989年の夏に家族でアメリカ
に移り住むようになった。20年前のことである。そのいろい
ろなことを思い起こすことになる。そのいろいろなことが今にも意
味を持っている。ただその1989年に、中国天安門事件があ
り、ベルリンの壁の崩壊を迎えている。80年代の終わりを象
徴するかのように。

上沼昌雄記