「礼拝、礼拝」2009年8月10日(月)

ウイークリー瞑想

礼拝でメッセージを聞いていて、と言うか、聞きながらその場にい
て、だから自分がクリスチャンなのだと、心の深いところで納得さ
せられることがあります。すなわち、クリスチャンでいることの意
味を、メッセージの流れのなかでただ深く感謝できるのです。メッ
セージはメッセージとして伝えたい内容があるのですが、その場で
耳を傾けていると、たとえどんなことがあっても、困難があり、苦
しみがあっても、クリスチャンであることをやめることができない
と自分に言いたくなるのです。だからたとえ、負わされている重荷
があり、先が見えないような状態でも、クリスチャンとして礼拝を
守っているのだというような確かさをいただくのです。

昨日はまたスラッツおばあさんのお孫さんがメッセージをしてくれ
ました。サンフランシスコ近辺からシェボレーのコベットという
カッコウいい古典的なスポーツカーで乗り入れてくれます。現実に
自動車関係の仕事に就いていると言うことです。サンフランシスコ
近辺の教会でも説教の助けをしていると言うことです。

アメリカで礼拝のメッセージを聞いていて、どうしたらクリスチャ
ンとしてうまくやっていけるのかという信仰処世術のようなもの
か、どうしたら教会が成長するのかという組織拡大法のようなもの
を聞くことがあります。さすがアメリカだけあってそのようなハウ
ツーものは見事なプレゼンテーションでなされ、会衆を喜ばせてく
れます。それでもだから自分がクリスチャンであると言うことを心
から喜んで礼拝を終えるわけではありません。むしろ変な疲れを覚
えます。逃げ出したくもなります。そんな教会には二度と行きたく
ないと思います。

また聖書そのものから語っているのですが、聞いていて、しかられ
ているような感じなることがあります。あなた方は聖書を知らない
から、信仰のことが分かっていないから教えてあがるという感じで
語られるのです。どうしても距離感を感じてしまいます。だんだん
教会の人もついて行けなくなります。また聖書の真理を自分だけが
見つけ出したので、あなた方に特別に教えてあげるという感じの時
もあります。なるほどそのようにも読めるのかと感心するのです
が、それだけで終わってしまいます。さらに聖書のことばをよく調
べてきて解き明かしてくれるのですが、そう読めなかったら良いク
リスチャンでないのかと逆に思わされてしまいます。

20年前に東京からフォレストヒルという小さな街に移り住んで、そ
の小さな教会にそのまま通っています。今の家からは一度山を下
り、川を渡って、また山に登って30分以上かかります。当時
の牧師とは今でも交流しています。その牧師が去ってから何人もの
牧師が入れ替わり来ました。今も次の牧師を捜しています。自分が
この教会の問題を解決し、教会を大きくしてあげると感じで来ま
す。牧師としての自分のアジェンダだけが先走っているのです。神
もどこかに追いやってしまっているときもあります。そんな感じの
候補者もいます。

スラッツおばあさんのお孫さんは候補者ではありません。ただ必要
があるので助けに来てくれます。メッセージとしての伝えたいこと
はありますが、その背後に自分自身がどうしてクリスチャンなのか
という確かさがにじみ出ています。人種の難しさも経験していなが
ら、さらに最初の奥様を20年前に癌で亡くされたことがあり
ながら、なおクリスチャンであることの最も深い根のようなものが
伝わってきます。ただそれだけでいいのだろうと妻と話しながら山
を下りてきました。

上沼昌雄記

追記:そういうことでこの山の小さな教会のことを覚えていただけ
れば幸いです。23日の礼拝後に信徒の話し合いが予定されて
います。

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