「牧師とその教会」2009年10月26日(月)

神学モノローグ

 10月の半ばに埼玉県下の主要都市にある教会の礼拝と、連
休を使っての教会修養会、そして2日おいての一日婦人修養会
に招かれた。ことは最初に婦人修養会に招かれたことから始まっ
た。その延長線で礼拝と修養会に招かれた。ご婦人たちの思いでそ
のようになったと言うことである。この教会の牧師とはこの10
数年親しい交わりをいただいている。私はこの機会に、この教会が
400名近い礼拝をするようになった秘訣を知りたいと思った。牧師に
尋ねたら分かるであろうと思っていた。牧師は分かりませんと言う
だけであった。

 2,3年前に新築されたこの会堂には牧師を訪ねて何
度か伺った。そのたびに1階にある小礼拝堂の静かな佇まいに
魅了されてきた。格子付きのガラス戸からじっと眺めているだけで
心が引きつけられる思いがする。すっと中に入って静かに歩き回っ
ているだけでこの教会の息づきが伝わってくる。そのまま座ってい
たいような気持ちになる。その空間はそこにあるだけでしっかりと
したものを語り伝えている。

 3階の礼拝堂で9時半の第一礼拝が始まった。扇形の
礼拝堂の右端に座って聞こえてくる賛美に耳を澄ませながら、また
そんな会衆を少し振り返って眺めながら、教会に流れている必ずし
も軽やかなものではなく、むしろ重い、それでいて留まっていない
霊の動きが伝わってきた。会衆ひとりひとりの心の窓が開かれてい
て、その心の底にあるものが届いてくる感じである。決して重苦し
いものではない。だからといって簡単には見過ごすこともできない
確かな響きである。

 それは何なのであろうかと自問してみた。これだけ大きな教会で
もしっかりとしたものが伝わってくる。ひとりひとりの心の中にあ
る具体的な苦悩や葛藤は分からなくても、心が確かに開かれていて
その確かなものが共鳴してくる。それは取りも直さず牧師の心とも
共鳴している響きなのだろうと思った。むしろ牧師の心が発信源に
なっていて会衆に届き、今は会衆から反響するように届いてくる。
開かれた牧師の心、ずたずたにされていてなお神への望みをしっか
り定めている牧師の心の投影なのだろう。

 そう思ったら、私はその流れに乗って説教をすればよいのだと分
かった。新しい教えを教えようと思う必要もない。聖書の著者の想
いを思いとして分かち合えばよいのだと分かった。それは語りなが
ら、この礼拝堂の造りにも通じていることが分かった。扇形の会衆
と目線が同じ高さにある。講壇に向かって緩やかな勾配がついてい
て会衆は説教者を見上げる必要もない。その上に講壇の高さも腰あ
たりまでしかない。牧師は上から語っているのではなく、同じ目線
で語っている。語っている牧師が会衆と同じ高さにいる。それでい
て会衆は牧師のすべてを聞きながら観ることになる。牧師と会衆が
一つである。

 牧師に教会の成長の秘訣を尋ねても、分かりませんと言う。しか
しこれ以上ないと思えるほどのこだわりを持って礼拝を守ってい
る。第一礼拝でこの牧師がどこで牧会祈祷をささげているのか分か
らなかった。第二礼拝で分かった。講壇の前に跪いてマイクを使っ
て祈っている。会衆を代表しているからだと言う。祝祷は当然講壇
からであった。

 そんなこだわりを牧師が持っていながら、この教会を支配してい
るのは自由である。主の御霊のあるところには自由がありますとい
う自由である。何かの枠に入らなければその場にいられないという
雰囲気は全くない。誰でもそこにいることができる。教会の人と話
をして分かったのは、20年以上も求道者のままでいる人がい
ると言う。確かに教会の修養会にも二人の未信者のご主人が奥様と
来ておられた。と言うことはすごいことですねと牧師に言っても、
笑っているだけである。

 思っていることをこの牧師に話せば、そう思ってくださるのはう
れしいと言うだけである。ご自分のほうから自分の教会のことを話
すことは少ない。この牧師の教えている牧会塾でのクラスを取って
いる人に聞いてもそうである。ある本を紹介したり、ある先生の意
見を紹介しているだけであると言う。それでも興味があるので聞い
ているなかで、一つだけ言われたことがある。教会が200名か
ら脱皮する時が一番苦しかったと言う。それまではある意味で牧師
の能力で可能であったとしても、それを乗り越えていくのは別のこ
とであるようなことを言われた。その別なものについても明確に言
われない。それは牧師自身が打ち砕かれ、ずたずたにされるような
経験を通して、ただ神が働きやすくなったのであろうと想像するだ
けである。

 当然ひとりひとりに対する深い配慮を持って牧会をされている。
それでも何か特別のプログラムやセルグループのようなものがある
わけでもない。何かゆったりとしたものが流れるように、漂うよう
にみなぎっている。牧師の持っているある特定な方向に全員が従わ
なければならないというような縛りがない。別な思い、考え、願い
を持っている人もそのままいられる自由がそこにある。それでいて
牧師はとてもこだわりを持って礼拝を考えている。多分ぶれること
のない方向だけが明確で、あとは自由にしているのであろう。

 最初の礼拝の時に感じた思いが、そのあと何度かの集会と交わり
を通して変わることなく、むしろ深まっていった。そんな印象を刻
み込むみことばと御霊の深い感動が教会を捉えている。そんな納得
を今でもいただいている。

上沼昌雄記

「オホーツクの流木」2009年10月5日(月)

ウイークリー瞑想

 札幌の西教会で知り合った吉田さんご夫妻が、北見の日赤病院の
院長として昨年赴任されました。惹かれるように、招かれるごとく
に昨年の秋、今年の春、そして先週とJRパスを使って伺いま
した。吉田さんご夫妻との交わりをいただきたいのと、道東の広さ
と美しさに惹かれ、スケジュールを何とか調整して、と言うより、
最優先のようにして伺いました。道産子の吉田さんたちも日赤病院
の責務がありながら、道東が大変気に入っているようです。馬鈴薯
とタマネギを初めとする農産物の豊かさ、さらに東に悠然と広がっ
ているオホーツクの海の幸を満喫されています。

 今回は旅行なしでゆっくり交わりましょうと言うことでしたが、
昼前後空けてくださり、オホーツクに瓢箪のように口を開けている
能取湖とサロマ湖に秋晴れのなか連れて行ってくれました。サロマ
湖はその瓢箪の中身は能取湖よりはるかに大きいのですが、両方と
も瓢箪の口がオホーツク海に開かれています。その二つの湖の間に
常呂町という漁港があります。そこは内陸の北見市が手を伸ばして
きて海に面している町です。そこで取れたばかりの魚と貝をそのま
ま乗せたにぎり寿司を「鮨の安さん」というお店でいただきまし
た。新鮮さという比較を超えた、その数分前までは生きていた魚が
海から直通でそのままテーブルに運ばれてきた感じです。

 最初に連れてきていただいたときに網走の町を外れてオホーツク
の海に接して、その静けさに心が打たれました。太平洋のあの大き
な波がどこの海辺でも打ち寄せているのかと思っていたのですが、
何とも静かにオホーツクの海が鎮座しているのです。呼びかけたら
海の向こうのどこかに届きそうです。もちろん冬には流氷が押し寄
せてきます。流氷館で疑似体験をしました。

 吉田さんの説明では、いわゆる北方領土の千島列島からカム
チャッカ半島に結びついて大きな湖のように囲まれているので、嵐
で荒れない限り静かだと言うことです。確かに太平洋とは区切られ
るようにオホーツク海は列島で囲まれています。網走から宗谷岬に
至る海岸もその静けさを受けたように荒らされることなく弓のよう
に伸びています。

 何か分からないのですが自分のなかの何かに結びついているよう
な気がして、その海岸線に打ち付けられた手に乗るほどの流木を拾
い上げました。それに合うような貝殻も見つけて大事に持ち帰りま
した。カリフォルニアの自分の机の上に置いてあります。そしてこ
の春に知床に連れてきていただいたときにも、海岸線で車を止めて
いただいて同じように手に入るほどの流木を拾いました。そうする
ことが一つの儀式のように、しないわけに行かなかったのです。流
木を拾うことで何かに自分が結びついているような感覚をいただけ
るのです。

 そんなことで海の匂いのする鮨をいただいたあとに、吉田さんに
またオホーツクの海に連れて行っていただいました。奥様を魚市場
に降ろして、あの村上春樹も走った100キロマラソンのコース
にもなっている原生花園を10分ほど横切って、紺碧のオホー
ツクが広がってきました。海辺の向こうに消えそうな砂浜には釣り
人が一人いるだけです。網走の向こうには知床半島がかすかに見え
ます。そして今回は両手でも余るほどの流木を見つけました。誰か
が流木を集めて燃やしたようなあとが残っています。多少荷物にも
なり、重たいのですが、貝殻と二つの小石と一緒に持って帰ること
にしました。

 流木がどこから届いたのか知るよしもありません。そもそもその
前はどこに生えていたのか、どのようにして流木になったのか、ど
れだけ海に浮かんでいたのか、どうしてそのサロマ湖の海辺に辿っ
たのか、知るよしもありません。ただ想像するだけです。海の向こ
うにはロシアの人々が住んでいます。すり鉢に削られて角角が丸く
なっているので、何度かの流氷にもまれた感じです。

 そんな流木を手にすることで、見渡すことのできない海の向こう
に、計り知れない時の先に連れて行かれます。手のなかの流木はど
こか海の匂いがします。その匂いが海の底に連れて行ってくれま
す。知ることのできない時の初めに、見ることもできないこの世界
の広がりの初めに、流木が導いてくれます。不思議にもう一度あの
ヨブに最後の最後に呼びかけられた神のことばが響いてきます。

 あなたは海の源まで行ったことがあるのか。

深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。

死の門があなたに現れたことがあるのか。

あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。

あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。

そのすべてを知っているなら、告げてみよ。(ヨブ38:
16−18)

上沼昌雄記