「アメリカ、アメリカ、アメリカ」2009年10月30日 (金)

神学モノローグ

 今回の6週間近い日本での奉仕の間で、自分自身がアメリカ
に住んでいることもあって、またアメリカと日本を行き来しながら
奉仕させていただいていることもあって、うんと思わされ、えぇと
思わされ、えーと思わされることが3度あった。それで上のタ
イトルとなった。

 最初は戦争反対を唱えている方が、多少あることで議論が盛り上
がってきたことに合わせるように、アメリカの戦争のことを取り上
げてこられた。もっともな意見でもあるし、その考えは分かるので
あるが、反論を始めることも叶わないで、そのご意見を伺うことで
ことが流れた。アメリカでも戦争絶対反対の人々もいるので、特に
驚くことでもなかった。ただそのテーマが出てきたことに多少のた
めらいが全体にあった。むしろ正直に出してくれたことを感謝している。

 そのあと札幌での伝道会議の宣言文を友人が送ってくれた。随分
時間をかけて文章をまとめられたのだと思う。多様なテーマを見事
に網羅している。前文で過去4回の伝道会議を総括するように
して本論に移っている。4回目の沖縄でのテーマが「和解の福
音」であった。「沖縄の痛みを心に刻み」と大切なことを確認して
いる。和解のテーマで避けられないことである。日本と日本の教会
が負っていることである。いまだに光に照らされないで闇に覆われ
ている課題である。

 なるほどと思っていたところが、いきなり「ところが2001
年9月11日のアメリカ同時多発テロ以降の世界は、和解
ではなくて敵対の様相を呈し」と入ってきている。それで札幌での
伝道会議のテーマを「危機の時代」とすると言っている。同時多発
テロも「危機の時代」もそれ自体は大切で大変な課題なのである
が、自分たちが本来見つめるべき課題をどこか外に転嫁しているよ
うに思えて仕方がない。沖縄の痛みは、まさに日本と日本の教会が
戦争責任のことを含めていまだに負わされていることである。その
意味で自分たちの内側を真剣に見つめるべき課題である。「危機の
時代」はまさに「日本の教会の危機」として受け止められること
で、ことが始まることである。

 と思いながらも、宣言文のことを取り上げてもどうにかなること
でもないと思っていた。しかし、同じような思いにさせられること
があって、この記事を書くことになった。過ぎる礼拝の奉仕を札幌
でさせていただいた。友人の竹本牧師が、最近出版された『宣教師
イヴァ・グラースとこの時代』という本を下さった。不思議に読ん
でいた方が良いのであろうと思って読んだ。グラース宣教師とは多
少面識もあって宣教師の心を深く感じることができた。

 ところが後半になって、前半とは全くと言っていいほど趣が変
わって、というのか、流れが変わってアメリカの宣教師によるいわ
ゆる「成果主義」の批判に移っている。最後の座談会もその批判が
何度も出てくる。「日本の福音派の根本問題はアメリカ追随のやり
方をしてきたことにある」とも言っている。前半の宣教師の心と姿
勢をとても親しみのある文章でまとめてくれていて引き込まれる思
いで読んできたので、このような部分に接してためらいと違和感を
覚えた。本を下さった竹本牧師はその座談会で「ただのアメリカ批
判にならないように」と、北海道での宣教師との関わりのなかで建
徳的な意見を述べている。

 そのような批判を読みながら、先の宣言文と同じで、日本の教会
がすでに自分たちの課題として受けと得るべきことをしていない
で、その責任を転嫁しているようで、まさに日本の教会の危機を覚
えさせられた。もはやそんなことを言っているときではなくて、自
分たちの課題として内側からどのように変えていくことができるの
か真剣に取り組んでいくときである。少なくとも日本とアメリカの
教会を観ながら自分自身の課題と思わされている。アメリカの教会
もそれなりにしっかりと取り組んでいる。それを見ないですぐに役
立つようなプログラムに飛びつくのはこちらの問題である。

 札幌から帰途秋田によって交わりをいただき、秋田から仙台に向
かう新幹線のなかでこの本を読み出した。盛岡への峠の紅葉は目を
見張るばかりであった。常緑樹の秋田杉に黄色、オレンジ色、紫、
赤がちりばめられた山肌の芸術作品に見とれていた。と同時に本の
あちらこちらの部分に見られる後味の悪い読後感がよみがえってき
た。不思議に村上春樹の歴史感覚を思い見ることになった。アメリ
カの苦悩をしっかりと捉え、日本の闇を見据えて小説の背景にして
いる日本人小説家の格闘に襟を正される思いがする。必ず小説に戦
争と大学紛争のことが出てくる。それは命をかけてのことである。

 伝道と宣教は本来命がけのわざである。宣言文を読んでも、本の
後半にでてくる「違和感」を感じる部分を読んでも、すれ違いとい
うか、責任転嫁というか、歴史感覚の遅れを感じる。日本の教会は
今、命がけのことに取り組んでいく責任が問われているように思え
て仕方がない。

上沼昌雄記

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中