「図々しい信仰、贅沢な信仰、むきだしの信仰」2010年3月1日(月)

 この数年ユダヤ文学というか、ともなくユダヤ教徒、ユダヤ人の
哲学書と文学と詩を読んでいる。取っ掛かりはエマニュエル・レ
ヴィナスである。ナチに加担したハイデガーの哲学に対峙しなが
ら、なぜ西洋の哲学はナチスを容認することになったのかを根本的
に問いながら、自己のエゴを超えている他者を視点に倫理のあり方
を問い直している。その他者の他者はアブラハムを呼び出した神で
あり、その他者の先の先はメシアである。そんな旧約聖書の世界を
当然のように哲学の背後に絡ませている。なんと図々しい信仰なの
であろうか。旧約聖書への取り組みも変えられた。

 レヴィナスと同じホロコーストの生き残りと言えるパウル・ツェ
ランは、600万の同胞の伝えない死を何とか聞きながら、言葉
になり得ない世界を何とか詩で表現しようとしている。その中には
レヴィナスの家族もパウル・ツェランの両親も含まれている。当然
神はいないと叫びたい。そして西洋のキリスト教ではアウシュ
ヴィッツで神は死んだ。しかし、私たちの神はなおアブラハム、イ
サク、ヤコブの神であると言う。出エジプトを経験した民はホロ
コーストも通過の一拠点のように受け止めている。何とも図太い信
仰なのであろうか。信仰の姿勢も変えられた。

 そんなユダヤ教徒というか、旧約の民の信仰をもっと知ろうと
思って、書庫にあった岩波講座の「ユダヤ思想」を取り出した。こ
の道の日本の代表的な方の文章である。旧約の思想を、分析的に、
論理的に、整合的に説明している。同時にそのとらえ方は旧約と言
うより、西洋的な、ギリシャ的な論理と概念で説明していくもの
で、論文としてはそのようなことが必要なのであろうが、旧約の世
界とは違った西洋的に焼き回わされた神学である。それは見事に
整った説明である。しかもそのように理解しなければ旧約聖書がわ
からないという書き方である。何とも疲れる。

 振り返ってみると、旧約聖書を西洋の神学の枠で読むことを強い
られてきたというのか、そうすることが聖書を正しく読む手だての
ように思い、思わされてきた。誰の責任でもない。西洋の神学を通
して聖書を読むことが当然の手だてとして組み立てられているなか
で信仰を持ち、聖書を学び、神学をしてきたからである。聖書の原
語に立ち返り、釈義を施し、解釈をして、聖書の原則を組み立てて
いく。旧約の民がしてこなかったことを西洋の学問は可能にした。
その恩恵は十分ある。同時に生きたもの、生のものを失うことになった。

 西洋の学的手段の背後にあるギリシャ精神は、プラトンに代表さ
れるイデアの世界、理想の世界を追求してきた。見える世界に対し
て、見えないイデアの世界である。あるべき世界である。その精神
が聖書に向かっていったときに、聖書の文字の世界を分析しながら
キリスト者のあるべき世界を、釈義と解釈を通して原則として見い
だそうとした。そのような原則の体系がそれぞれの教派の神学であ
る。そしてその原則を適用することが説教であり、実践である。

 しかし、旧約の民はそのようなイデアの世界では生きていない。
選びの民であることの事実はたとえ困難があっても、罪を犯すこと
があっても、背くことがあっても、ホロコーストがあっても変わる
ことのない神との契約である。それを疑うことはない。アブラハ
ム、イサク、ヤコブの神のもとでの選びの民であることはどのよう
なことがあっても変わらない。思いがけないことがあって、また罪
を犯すことがあって、背くことがあって教会から退けられるような
けちな信仰でない。図々しい、それでいて贅沢な信仰である。

 西洋流の理想のあり方を聖書から求めて、これが自分たちの理解
したもので、聖書の教えだと言い張るときには、それに外れること
も、それと異なったことを言うこともできなし、許されない。いつ
もあるべき姿を気にしながら信仰生活を送らなければならない。道
徳的な信仰であり、何とも神経症的な信仰である。

 そんなことを思いながら旧約聖書を読んでいる。選びの民である
変わらない姿勢は、時には神に向かって叫び、文句を言い、問いか
けることで関わりが深まり、繰り返されていく。決して良い子であ
ろうとしない。駄目なときは泣き叫び、わからないときは文句を言
う。神に怒ることさえする。美しい信仰とはかけ離れている。何と
もむきだしの信仰である。

 夫婦のあるべき姿、家庭のあるべき姿、それにどれだけ自分たち
が近づいているか、そんな美しい、道徳的な、神経症的な信仰で疲
れてしまう。どんなことがあっても夫婦であることとしてこの地上
での歩が与えられ、家庭にどんな問題があっても、食卓のテーブル
があり、家族の交流があれば、それで良しとし、後は神が面倒を見
てくれるという図々しい信仰で良いのであろう。神の祝福は決して
去ることはないという贅沢な信仰でよい。問題がある時は神に叫
び、文句を言い、時には怒っても良い。そんなむきだしの信仰で良
いのであろう。

上沼昌雄記

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