「エレミヤ書の学びを課せられて」2010年4月19日(月)

 当然のことなのであるが、ユダヤ民族はいまでも旧約聖書に書か
れていることを自分たちの先祖たちに起こったこと、自分たちの歴
史そのものとして受け止めている。直裁的な連続性である。しか
し、その当然であることは私たちにとっては当然でない。過去のど
こかの誰かに起こった事実としては認めている。聖書の歴史性であ
る。それでも自分たちの先祖の歴史とはならない。結びつけるため
に信仰的、霊的な理解が求められる。この信仰的な理解にはすでに
読む側の枠が働いている。

 最近翻訳されたレヴィナスのラジオでの対話集『倫理と無限―
フィッリプ・モネとの対話』(ちくま学芸文庫)の初めで、このユ
ダヤ教徒の視点を端的に述べている。聖書のなかの出来事が、「世
界中に離散したユダヤ人の運命に現在、直接関係しているという痛
みの意識」(25頁)につながっている。現在の痛みの意識は
すでに聖書でも先祖たちが感じていたものである。痛みの意識の連
続である。そんな意識は、逆さになっても持つことはできない。

 ともかくユダヤ教徒の思想家のものを読むようになって、逆にこ
の違いに関心を持つようになった。民族が違い、歴史が違うものた
ちが旧約聖書を読むときに、自分たちの必要や、歴史的背景や民族
的背景から来る視点が働くことになる。その意味での聖書のとらえ
方は当然許されている。しかし、その視点で捉えたとらえ方だけが
聖書的だと主張してくると、そのユダヤ教徒の視点も排除してしま
う。それだけでなく暴力的な力を持って、その視点に同意しないも
のを排除してくる。

 最近ヨナ書に関しての書物を読んだ。ヨナ書を先祖に持つユダヤ
人の理解に興味を持っているからである。ヨナ書に関するこの書物
は信仰的なものとして私たちの間で用いられている。私たちの信仰
を促す視点で書かれている。その理解は許されている。そのために
ヨナの不信仰を取り上げている。しかもヨナの不信仰をただすため
にヨナ書が書かれたという。そのためだけに書かれたという言い方
である。そのように理解することが聖書的であり、福音的であると
までいう。つまり、その以外の理解は聖書的でないというのである。

 いまエレミヤ書の学びを課せられていて、この著者の主張が気に
なる。果たしてそのためだけにヨナ書が書かれたのだろうか。その
ためにあえて異邦の地ニネベへの宣教を命じたのであろうか。魚の
腹の中に三日間留められたことは何のためであったのだろうか。し
かもこの著者は、イエスがヨナを何度も取り上げていることに関し
て本文では何も言っていない。それで良いのだろうか。この著者の
主張は、レヴィナスやデリダがいう西洋の哲学と神学が持っている
暴力ではないだろうか。自分たちの解釈だけが聖書的だということ
で他を排除する暴力ではないか。

 こんなことを思いながら、ともかくエレミヤ書を当時の人がどの
ような思いで読み、聞いたのだろうかという視点で一緒に読んでみ
たいと思っている。当然ユダヤ人のようには自分たちの歴史の一部
のようには読めない。それでもそのような読むことになったらどの
ような読み方になるのか、想像しながら読んでみたい。教会に『新
聖書注解』がある。時々参考にしている。それでもそのエレミヤ書
の1章の終わりに関しては、エレミヤが一生をかけて信仰の従
順さを学んでいくためのようなことが書かれている。ともかくこの
ような枠を外して読んでみたい。どこまで読めるのであろうか。と
んでもない課題をいただいたものである。

上沼昌雄記

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