「父親探し・父親殺し」2010年6月14日(月)

 今回の秋田での奉仕の間、一度ミニストリーのこととして関西方 
面での奉仕が許された。夫婦で出かけることができた。その帰り
に、拙書『父よ、父たちよ』でご自分の父親のことを書いて構いま
せんと言うことでその文面をそのまま紹介した方と、東京駅前の新
丸の内ビルの隣にあるディーン&デルーカというニューヨーク発の
カフェでお会いした。この方のことはこの10年以上妻にはよ
く話していて、何とか紹介したいと思っていた。宣教師であった妻
の一番下の妹夫婦を通して信仰を持った方でもある。ご自分の健康
のこともありながら妻の体調のことを心配してくださった。妻もこ
の方が健康上のことがありながら顔を輝かせていたことに驚いていた。

 当然会話は村上春樹の『1Q84』にもなった。妻にはこの方
が若いときに村上春樹の経営していたジャズ喫茶の常連であったこ
とは話していた。その会話のなかでとても示唆的なものがあった。
すなわち、この『1Q84』は中上健次の小説ように難解で、あ
の『海辺のカフカ』で虜になった村上春樹ファンを引き離してし
まったと言う。その証拠に誰も何もこの『1Q84』に関しても
のが言えなくなってしまったと言うのである。そのものが言えない
ほどの小説であることは納得できるが、中上健次のようであるとい
うことが心に引っかかった。

 あの泥臭いというか、肉体が文章を書いているような中上健次は
気になっていたが取り上げることはなかった。しかし村上春樹と対
になって出てきたので興味をそそられた。村上春樹もジョギングを
したりして体育会系なところもあるが、泥臭さはない。しかしとも
に戦後生まれの小説家ではある。ともかくこの際と思って、秋田で
の滞在期間も限られてきたなかで駅の向こうになるジュンク堂で何
冊か文庫本を手に入れて持って帰ってきた。行きつけのブックオフ
では一冊も置いてなかった。最上川沿いで知り合った農業をしなが
ら小説を書いている方が、中上健次はいやだ、自分も同じような生
活をしているからだと言われたのを思い出す。

 短編集から読み始めて、芥川賞受賞作である『岬』にきて、その
続きの『枯木灘』を時差ぼけと闘いながら一気に読んだ。むしろ読
まされたと言っていい。よく台風の上陸のニュースで聞いていた潮
岬、その紀州の山が降りてきて岩場だらけの枯木灘、その猫の額の
ような狭い土地で何代も生き続けてきた何とも複雑な家族のなか
で、避けられない自分とは何かという問い、その問いがそのまま自
分の父親は誰かという問いになっている。その家族の複雑さは説明
しがたいほどである。そのなかで自分の肉体の半分である父親を捜
し求める。同じ町に住んでいるので誰であるかは分かっている。大
男である。自分もそうである。その男の血を継いでいる自分の存在
に脅える。自分のアイデンティティーを、父親を見つめることで突
き止めようとする。

 『父よ、父たちよ』で同じように父親を捜し求めたアメリカの作
家としてポール・オースターの『孤独の発明』を紹介した。父は、
いても自分があたかもいなかったのかのように生きてきた。父はい
ても父の不在である。その父親探しである。中上健次も父は同じ町
にいても一度も一緒に住んだこともない。ただ種だけいただいた。
それが恐れであった。その父親探しである。ポール・オースターと
中上健次は戦後生まれの同世代人である。

 ポール・オースタートは父親の死を通して父親探しを始める。中
上健次は父親探しを父親殺しで終わらせようとする。自分のうちに
流れている父親の悪を断ち切ることで父親から解放されることを願
う。それは腹違いの弟を殺すことで実現する。少なくともそのよう
に思う。どちらにしても父親探しは父からの解放である。自分のな
かで父親を受け止め、整理をし、埋葬することで解放されるのであ
る。それは苦渋をともなうものである。

 そんなあがきを中上健次は故郷の熊野を舞台に執拗なまでに展開
している。それは紀州でも、自分の生まれ故郷の上州でも、父の生
まれ故郷の伊那谷でも、最上川でも、秋田でも、ポール・オース
タートのニューヨークでも、戻ってきて礼拝に出席した山の上の小
さな町であるフォレストヒルでも同じである。父の咎はその地に深
く埋もれ隠されている。その呪いは皮膚の後ろに隠されている。誰
もが父への怒りを爆弾のように抱えて生きている。

 この図体の大きい男の子とは、そのまま中上健次の姿を想像させ
る。土方仕事の現場監督である。心は闇と呪いで満ちていながら、
土方仕事で体を駆使し、汗にまみえ、そのまま土に同化してしまい
そうである。その彼を取り囲む自然、風も、河も、空も、木々も、
暗い心とは対照的に明るく輝いている。何とも印象的な描写である。

 その柔道もしていたであろうと思われる大きな図体の男性は、そ
のまま村上春樹の『1Q84』の天吾という男性を思い出させ
る。彼も体が大きく柔道をしていた。そしてまさに父親探しをして
いる。ブック3の前半では彼は意識を失った父親にただ話しかけて
いる。そんな場面を村上春樹はそれがどうしても必要であるかのよ
うに展開している。その必然性は村上春樹のなかにもあったのであ
ろう。それは避けられないことでありながら、取り扱うことの難し
いことである。父親のことは底知れない闇の奥のことだからであ
る。友が言うように、村上春樹は『1Q84』でこの難しさに臨
んでいるのであろうか。そしてそれはすでに中上健次が直面してき
たことだと言うのであろうか。

 「父の日」を迎えるに当たってこの難しさにたじろぎ、思い巡ら
され、納得させられている。入ってしまったら抜け出すことのでき
ない泥沼だからである。ただ表面的に繕って通り過ぎたい。それで
もそのうずきは心の底に溜まったままである。怒りは溢れ出ないよ
うに抑えられているだけである。

 5月の終わりに宇治の黙想の家で10名の牧師たちとこ
の難しいことを避けないで取り上げることができた。少なくともそ
のように試みた。

上沼昌雄記




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