「牧師按手礼」2010年9月27日(月)

 過ぎる土曜日の午後にフォレストヒルの山の教会で、すでに数ヶ
月説教をしている、スラッツお婆さんの孫にあたる方の牧師按手礼
式がありました。昨年から数名の牧師候補者が交代で説教してきま
したが、この春に最終的にふたりの中から選ばれました。彼の説教
を聞きながら、教会の方々が徐々に霊的な反応を示してきました。
そのプロセスで、彼がアフリカ系であるということで数組の夫婦が
去っていきました。当初彼の髪型に文句を言っていた役員も、今で
はそれは問題でないという霊的な受け止め方をしています。

 過去何人もの牧師が来て去ってきました。残されるのはいつも信
徒です。牧師は来て、思い通りに行かないと去っていきます。その
度に傷を残していきます。来る牧師の経歴や、一二度の説教を聞い
て、この牧師だったら大丈夫だろうという期待を持って動き出すの
ですが、どうもうまくいかないのです。牧師エゴのようなものが出
てきます。問題を解決してあげて、教会を大きくしあげるという思
いが強く、そのために自分の思い通りのプログラムを進めていきま
す。信徒はそのための素材に過ぎなくなります。その辺を教会の方
はしっかりと見抜いていきます。

 今回はじっくり時間をかけて行きましょうと言うことが、教会の
了解事項となりました。そのなかでスラッツお婆さんのお孫さんも
説教をしているというので、サンフランシスコ郊外から2時間
かけて月2回ということで来ていただくことになりました。当初は
講壇の埋め合わせという理解でした。しかし彼の語ることに信徒が
霊的な反応を示してきました。新しい方も加わるようになってきま
した。教会は今までのことで規模は小さくなっているのですが、霊
的な弾みを持ってきています。

 昨日の礼拝メッセージはマタイ福音書11章の終わりの「す
べて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさ
い。」の箇所からでした。3回連続の2回目になっていました。こ
の箇所を何度も読んで思い巡らしていることが分かります。キリス
トのところにしか心満たされることはないことを実感しています。
それは高みからの説教ではないのです。聞いている人と同じ姿勢で
の語りかけです。それでもしっかりとメッセージが伝わっていきま
す。自分は大丈夫で、信徒は駄目だから教えてあげるという感じは
ないのです。聞きながら納得できるのです。会衆が熱心に耳を傾け
ていることが分かります。

 スラッツお婆さんのお孫さんといってもすでに50代の半ば
です。正式に神学校で学んだわけではないようです。それでも説教
のポイントをしっかりと捉えています。自分の語っていることを聖
書の他の箇所からも引用して裏付けもすることができます。それも
わざとらしさはありません。自然の結びつきで、そのまま心に入っ
てきます。霊的な杭のようなものが心に残っていきます。心にしっ
かりと打ち付けられるものがあって、それをたよりに信仰の歩みを
続けたくなります。パート3を聞いてみたくなります。

 私たちはしばらくぶりにこの教会の礼拝に出ることができまし
た。終わって新しいカップルに挨拶をしたら、逆に私たちが初めて
かと聞かれました。学校の関係で移った若いカップルも来ていて、
再会を喜び合いました。この山の小さな教会がこれからどのように
なっていくのか、期待を持って祈るのみです。何かうちから湧いて
くるものがあるのです。牧師に引っ張られるのでも、不熱心な信徒
だと叱られることもなく、ただ神にのみ期待できるのです。

 10月4日(月)にLAを発って日本に
向かいます。11月9日まで奉仕をします。その間日本で
も教会とこの牧師夫婦のために祈っていますと伝えました。彼も私
の奉仕のために祈っていると言ってくれました。それは、単なる牧
師辞令ではなく、それぞれ遣わされた者同士の神への信頼と期待を
表すエールの交換です。

上沼昌雄記

「イチローと村上春樹」2010年9月24日(金)

 しばらく前は、今年のイチローは200本安打が大丈夫かとい
うような記事をネットで読んでいた。確かに一時大夫停滞していた
のを覚えている。イチローも衰えが出てきたのだろうかとも思っ
た。しかし9月に入っていつものような量産が始まってあれよ
という間に、昨日見事に10年連続200本安打を達成し
た。昨日は家にいてハイスピードのネットがないので観られなかっ
たが、いま事務所に来て大リーグのウエブでビデオを観ることがで
きた。昨年は9月の初めに、9年連続の新記録をテキサ
スの球場で、しかも夜更けに達成したのを覚えている。今回は快晴
のもとトロントでのことであった。それにまつわる記事とインタ
ビューも読むことができた。

 すでに69歳になっているピート・ローズと比較されている。40
年近く前にシカゴ郊外で学びを始めたときに、妻の友人たちから
ピート・ローズのことを聞いていた。そののち監督時代に野球賭博
に関わって球界を追われる身になったのだと思う。それでも彼の記
録は超えがたいものと残っている。それを「超えてあげたい」とま
でイチローは言う。そんなことを言えるイチローの、強さではな
く、柔軟性に思いを馳せている。強さでは勝てないし、強さだけで
はここまで来ることはできなかった。強さをすり抜けるというか、
力と力の間の隙間をすり抜けるような柔らかさが彼にはある。

 三塁手が突っ立っていると思ったらその前にバンドをして、悠々
一塁に走り抜ける。どんな強肩な捕手でも年で衰えてきたと思った
ら、遠慮なしに二塁でも三塁でも滑り込んでしまう。ヘンス際の
ボールであればよじ登ってホームランを阻止してしまう。レーザー
ビームと呼ばれた外野から三塁手へのボールはランナーの手前しっ
かりと届いてしまう。いままでにない、そして忘れられない場面の
数々を提供してくれている。

 村上春樹の『1Q84』のブック3を、イチローの今回の快挙
の前に、何度目になるのか明確ではないが読み出した。そして、昨
晩読み終えることができた。1Q84という時代というか世界の
設定、そこでのふたつの月、マザとドウタ、レシヴェとパシ
ヴァ、20年にわたるロマンス、学園闘争と新興宗教、そんな
おかしな設定がなされていながら、自分のなかのどこかで置き忘れ
てきた古い荷物をもう一度開けられるような感覚を覚える。読む度
にその感覚が深くなる。月がふたつだとか、1Q84のおかしな
世界が、架空のものでなく、自分のなかのどこかで置き忘れてき
て、思い起こさせられるものとなるのである。

 神学書を読み、コメンタリーを読み、哲学書を読み、また自分な
りに小説を読んでいるが、多くの場合に正面から語られている感じ
がある。これが問題でだからこうしたらよいというテキスト的とい
うか、回答提供型のものが多い。当然それなりに意味があるが、物
足りなさが残る。自分のなかの触れられていない面がいつまでも、
水の下に留まっている濁りかすのように心の隅に残っている。

 村上春樹が書くものはその正面の課題をすり抜けているところが
ある。何を村上春樹は言いたいのかと問われると、そんな問いを上
手にすり抜けて、いつの間にか背後に回っていて、問いをかけた人
も気づかない意識の背後を揺さ振るのである。『1Q84』の
ブックレビューに、こんなのは小説でないという酷評がある。そう
も取れるのだろうと素人ながら思う。それありながら、日本語の限
界をあっさりすり抜けて、世界中で読まれてしまう。

 イチローの今回の200本安打が二遊間をきれいに抜けていく
のを何度も観ながら、村上春樹の文章が私のなかの二遊間の守りを
きれいに抜けて、自分でもまだ分からない意識の背後にボールが転
がっていているような感じがしている。そんなことができるふたり
のしなやかさに恐れ入っている。そのためにこのふたりが怠りなく
自分の可能性の限界を伸ばそうとしている努力には驚異すら感じる。

 同じバッターフォームでは10年も毎年200本安打は打
てないことをイチローは知り尽くしている。『ノールウエイの森』
でも『世界の終わりとハードボイルで・ワンダーランド』にして
も、それと同じスタイルでは、自分がいずれ死んでしまうことを村
上春樹は知っている。このふたりのしなやかさは、信仰の新しさを
いただいているものが当然身に着けていないといけないのだが、ど
うも自分のなかで逆になっている。

上沼昌雄記

追伸:イチローのことを取り上げたメジャーリーグのドキュメント
が、アメリカの公共テレビ局PBSでこの28日と29日の2晩にわたって特集
されます。以下のところです。http://www.pbs.org/baseball-the-tenth-
inning/

「神に翻弄される人生」2010年9月13日(月)

 神に翻弄される人生というと、何か過激なのですが、自分ではコ
ントロールできないで神の思いに振り回されるような人生があるの
だろうと、ヨブの人生を思い、ヨナの宣教を振り返り、預言者エレ
ミヤの足取りを辿りながら、半分納得しています。多分別な言い方
をすると、自分としては辻褄が合い、誰もが認めてくれ、祝福され
た人生がキリスト者の歩みだと思っても、実際には思いがけない、
想像もしたこともないことに遭遇して、悩み苦しみ、神に文句を言
い、時には神に怒りさえを覚えるのですが、そうすることで自分で
は思っても見ない恵みの世界に導かれているのだろうと、半分納得
することなのかも知れません。

 87歳の妻の両親の世話があり、LA郊外の両親宅に滞
在することが多くなっています。今まで折々に日本での宣教のこと
は聞いていました。それでもどのような思いで日本で活動していた
のか関心があり、あの村上春樹の3日連続のインタビューでは
ないのですが、3日にわたって義父にインタビューしました。
当然思い通りに行かなかったこと、日本語の不自由さのために誤解
されたこと、多大な労力と時間を掛けたにも関わらず宣教の実を結
んでいないこと、にもかかわらずどこかで深い恵みに満たされてい
ること、振り返りながら、静かに語ってくれました。

 宣教活動を始めたときに4人の子どもたちの教育のことで計
画通りに行かなかったことを話してくれました。妻はその長女で一
番上なのですが、彼女の視点から当時のことを聞くことができまし
た。それで妻の姉弟たちが日本での経験をどのように受け止めてい
るのか興味を覚えました。日本でさらに妹と弟が生まれています。
その弟を昨日礼拝の後にサンディエゴに訪ねました。近くには日本
のスーパーがあり、日本食のレストランがあり、ブックオフまであ
ります。早めの夕食をそのレストランで食べ、当然ブックオフに立
ち寄り、そのままラ・ホーヤという海岸に出て、散歩をしながら夕
陽が沈むのを眺めました。そして、暗くなって彼の家に戻ってきました。

 意図的に聞いたわけではないのですが、夜中まで3人で話し
合っていますので、日本で彼がどのような思いでいたのかが話題に
なりました。親は宣教の使命をいただいて日本に来ているのです
が、子どもたちは逃れられない制約の中に置かれるのです。文字通
りの制約で、自分の部屋に閉じこもっているときが多いのです。ほ
とんどの時間がそうなのです。他に行くところがないのです。そこ
でどのような思いでいるのかは親に分からないのです。日本が彼を
自分の部屋に閉じ込めているのか、家庭環境がそうしているのか、
自分の性格がそうしているのか、その辺は複雑に絡み合っていてい
ることです。夕食ではカツ丼を食べ、藤沢周平原作のDVD3部
作「たそがれ清兵衛」「隠し剣・鬼の爪」「武士の一分」が書棚に
置いてあります。それが今の義弟です。それでも日本で自分の部屋
にじっと閉じこもっていた暗いイメージは拭えないのです。

 自分が十代の時には逃げる場がありました。自転車で利根川沿い
を乗り回していました。義弟も多摩川沿いを自転車で乗り回してい
ましたことが一番の想い出といいます。私にはそれでも一緒に乗り
回す友達もいました。彼にはそんな友人は近くにいませんでした。
どんな思いで十代を日本で過ごしていたのだろうかと自分のことの
ように思えてきました。自分には懐かしさがあっても、彼にはどう
にもならない苦みが付きまとっているのです。それは彼の人格の一
部になっています。乗り越えられなくても、忘れられなくても、そ
の記憶は彼の心の切り離せないひとつの部屋となっています。

 義人ヨブは不当な苦しみのゆえに神と論争をします。それでも神
に勝つことはできません。預言者ヨナは神への怒りを隠しません。
それでもヨナを通しての神の御心は果たされています。涙の預言者
エレミヤは神に嘆きつづけています。それでも神の民はバビロンに
捕囚されることで生き延びる道を得るのです。神に翻弄される人
生、それはあり得ることです。

 義弟の心の深くは知ることができません。それでも日本への宣教
師の家族であったことで受けた思いが、以前よりはるかにほとばし
り出ています。彼は私に会えば日本のことを必ず思い出すはずで
す。それでも私の作るカレーライスを喜んで食べてくれます。福神
漬けは彼に頼んで買ってきてもらいます。

上沼昌雄記

「イチジクの実」2010年8月30日(月)

 隣家のイチジクの木が垣根に沿って実をならせています。ここカ
リフォルニアではイチジクを食べる習慣はあまりなさそうです。今
はスイカ、メロン、ネクタリン、桃、りんごと、どれも安価に手に
入れることができます。妻の両親のこの家の場所は、元々はオレン
ジ畑であったそうです。今でも庭にはそれぞれオレンジとミカンの
木が一本あり、今はまだ緑なのですが豊かな実をならせています。
表にはアボカドの木が二本あります。その一本の木が今年は食べ切
れないほど実をならせています。

 無視されているようなイチジクを見ながら、幼い頃イチジクのあ
の白い液で手がかゆくなるのを我慢して、取って食べたのを思い出
します。食べ頃を見計らって口にした、あの熟した実は少年の空腹
に一生忘れられない記憶の味を残しています。この春には秋田の教
会の方がイチジクの甘露煮をくださいました。それはイチジクを甘
みで煮込んだ深みのあるおいしさです。

 隣家のイチジクは、この窓辺から目を上げるとそこに見えます。
誰も手を出さないのですが、訪ねてくる生き物はいます。しかも日
が昇り、その実がちょうど食べ頃の温かさになったころに、どこか
らともなく真っ黒な蛾が待っていましたとばかりに食事に来ます。
オーブンも電子レンジもいらないのです。カリフォルニアの太陽で
す。熟したイチジクを真っ黒な蛾たちがおいしそうに突っついてい
るのです。多分小さな口でがぶりついているのでしょう。

 ちょうど食べ終わった頃といったらよいのか、食べている最中と
いったらよいのか、今度は雀たちが自分たちの番だと言わんばかり
に飛んできます。食事中の蛾たちが一斉に飛び立ちます。あきらめ
ないで戻ってきて食べ残しを確認しているようです。そんなことが
繰り返されるのですが、何時か雀たちだけの食事の時間になってい
ます。イチジクの皮は柔らかく、雀たちが突っつくにはちょうど良
さそうです。

 イチジクの木の天辺あたりに電話線が走っています。雀たちが代
わり番こにイチジクの実を食べていると、その電話線に真っ黒なカ
ラスが一羽、二羽と止まってきます。 雀はあわてて飛び立ち
ます。あっという間にカラスたちの食事の時間になります。しかし
カラスたちの食卓を見ていると、すさまじさを感じます。雀を追い
出しただけでなく、仲間でもおいしいイチジクを食べているものを
追い出して別のカラスが食いついていくのです。イチジクの実を口
にくわえて、やったと言わんばかりに飛び立っていくカラスもいま
す。先の蛾が戻ってきてイチジクの木の下の実を食べています。カ
ラスの体が大きすぎて届かないのです。

 蛾と雀とカラスがイチジクを巡って、朝のドラマを展開していま
す。太陽が天空の上にさしかかる頃には朝のドラマは終了していま
す。しかしこの朝のドラマを、ライプニッツがいう予定調和と取る
こともできますし、ダーヴィンがいう弱肉強食とも取ることができ
ます。雀が蛾たちに向かって、もう充分食べただろうから、今度は
自分たちの番だ、出ていってくれということで調和が取れていきま
す。カラスも雀に同じように言います。ここは自分たちの縄張りだ
から、食べたらどこかに飛んでいってくれとなるのです。しかし、
それぞれが自分たちの縄張りを主張して絶対に自分たちのものを触
れさせないとなれば、弱いものは徐々に強いものに追われることに
なります。待ったなしの生存競争の世界です。

 自然のドラマは寸時も途絶えることなく展開しています。そこに
自然の調和を見るのか、強者だけの生臭い世界と見るのか、朝のド
ラマを見終わったあとも気になります。すでに飛び立った蛾はとも
かく朝の食料にありつけたのでこちらが何を思っているのかまった
く気にしていません。雀もそんなこと関係なしにそれぞれ忙しそう
に飛び回っています。カラスは、ここはもう関係ないと言わんばか
りにどこかに行ってしまいました。

 この朝のドラマにどのような意味合いがあるのか、生き物たちは
関係ないのです。気になるのはこちらだけです。もちろん気にしな
いでも生きられます。でも一度気にし出すと不思議に考えないわけ
に行かないのです。私たちは、どんなことでも意味づけなしには生
きられないのです。同じように、イチジクのことも気になります。
ただ蛾と雀とカラスの食卓のためだけに存在していのではないだろ
うとも思うのです。

 そうでありながら、しかし、このようなテーマで考えているとい
つも不思議に心によみがえってくる神のことばがあります。あのヨ
ブに神が最後に答えたことばです。「わたしが地の基を定めたと
き、あなたはどこにいたのか。あなたが悟ることができるなら、告
げてみよ。」(ヨブ記38:4)

上沼昌雄記