「聖書の権威?」2010年11月16日(火)

 今回いろいろな方のお話を聞き、またお話しをさせていただい
て、一週間前にカリフォルニアに戻ってきました。日本を離れる前
に北海道を旅していました。大雪山の向こう側はすでに雪の中でし
た。カリフォルニアの太陽のまぶしさに、一瞬別世界に入ったよう
な感じでした。両親は以前より安定しています。その分どのように
助けたらよいのか妻は工面しながら対応しています。母は礼拝でパ
イプオルガンを弾いています。

 その礼拝に出席しました。一部礼拝で、いわゆる伝統的なスタイ
ルです。二部礼拝は若者向けです。そのスタイルはともかくとし
て、礼拝は見事なパーフォーマンスです。それもアメリカらしくて
良いのですが、何度も聞いているこの牧師のメッセージでの聖書の
位置づけに、多少の違和感を感じます。内容も整っていて、パワー
ポイントで説明をしていきます。聖書も何度も引用します。かたち
の上では聖書的なメッセージです。

 それでもその視点は、私たちの必要のために、聖書をテキストに
してそこからノウハウを引き出すものです。かたちとしては主題説
教になります。そうなのですが、その形式ではなくて、聖書に対す
る姿勢があまりにも、自分たち中心、私たち中心なのです。すなわ
ち、私たちの必要のために、聖書からそのための処世術を引き出
し、提供していくものです。聖書がどれだけ自分たちに役立つかと
言うことが焦点になります。それは講解説教という形を取っても同
じことになります。

 どうも気になるので、礼拝から戻って食事をしているときに父に
正直に述べてみました。同じように思っていました。気になるの
は、僭越に聞こえるかも知れませんが、このような聖書理解で会衆
が霊的に成長するのだろうかと言うことです。また会衆はすでにこ
のようなハウツウものは飽きているのではないかと思います。それ
よりも会衆はまさに堅い食物を欲しているのです。これはたとえ講
解説教をしていても起こります。基本的に聖書を自分たちの必要の
ためのテキストのように見ている限り、かたちはどうでも、ただ自
分たちの世界に聖書を引き下ろしてしまうのです。問題解決のため
のテキストとしての聖書なのです。またそのように聖書を読むこと
を勧めるのです。

 このようなことを思い巡らしていると、今回の日本でのいくつか
の対話のなかで、あの100歳の大村晴雄先生とのことが浮かん
できます。引退後も、奥様を亡くされたあとも、ヘーゲル研究会と
イザヤ書の聖書研究会を今に至るまで続けています。全く失礼と
思ったのですが、今回の会話の流れのなかで思い切って聞いてみま
した。先生にとってはヘーゲルと聖書は同等なのでしょうかと。そ
うでないことは分かっていたのですが、聞いてみたかったのです。

 しばらく沈黙されて、ヘーゲルは哲学の文献に過ぎないと、それ
だけを当然のように言われました。分かっていることをなぜ聞くの
かという思いをもたれたかも知れません。それでもその一言で、
ヘーゲルをはるかに超えている聖書の位置づけを大村先生のなかで
知ることになりました。ヘーゲルの哲学大系がどうであっても、そ
れは人間の思考の産物に過ぎないのです。おそらく先生のなかには
ヘーゲルの言っていることは隅々にまで研究されている上で、なお
それを超えた聖書の神のことばとして位置づけているのです。それ
は同席された小泉氏にも私にもそのまま納得のいくことです。

 その一言を語ってくださって、そのあとは気持ちよさそうに、
ヘーゲルの論理学のロギークのロゴスがヨハネ福音書に端を発して
いることを、そのようには受け止められない哲学会のなかでの反応
を紹介しながら話してくださいました。その件は何度か聞いている
のですが、その度に力が入ってきます。聖書はヘーゲルをはるかに
超えているのです。そのことを、ヘーゲルを生涯学び続けるなかで
主張されているのです。聖書はヘーゲルの思想に影響していても、
なおヘーゲルの哲学を超えているのです。そうなので聖書を学び続
けるのです。イザヤ書をヘブル語で学び始めるのです。イザヤ書の
53章が一番好きのように言われるのです。

 自分なりにハイデガーを学び、ホワイトヘッドを学び、レヴィナ
スを学んできました。それが聖書に代わることはないのです。聖書
は神のことばです。大村先生との交流を通していただいた聖書への
姿勢です。今回大阪の天満というごちゃごちゃした通りの古本屋で
ジョルジェ・バタイユの『 内的体験 』を見つけまし
た。その続きでさらに2冊ほどバタイユのものを手に入れまし
た。私の読書と文学の指南役の友人に伝えましたら、そんな本を牧
師が読んでいいのですかと冗談めかして言ってきました。「無神学
大全」と言われるシリーズのひとつです。無神論ではないのです。
無神学なのです。宗教体験を大切にしているのです。聖書にみられ
る宗教体験です。

 聖書から私たちの必要のためのノウハウを引き出せるという姿
勢、それが主題説教でも講解説教であっても、それは結局聖書を私
たちの世界に引き下ろすことになります。私たちがマネージできる
ものとし聖書に取りかかるのです。そのように2千年の神学の
歴史で培われてきました。聖書の極意を把握したようにいう人がも
てはやされ、またそのように鼓舞されるのです。私たちがどんなに
聖書を学んでもなお捉えきれない神の奥義への畏敬はないのです。
神への畏れはないのです。自分が聖書を把握したかのように言うの
です。聖書の権威は、これが聖書の教えと主張する人たちによっ
て、地に引き下ろされてしまうのです。

上沼昌雄記

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