「受・肉」2010年12月7日(火)

 57年間続いた雑誌『恵みの雨』がこの12月で休刊に
なりました。その知らせを聞いて残念に思うのと同時に、戦後まも
なくから今に至るまで多くの恵みを雨のように注いでくれたことを
感謝しています。何らかのかたちで復刊されることを願っています。その
12月号の付録ディボーションガイド「恵みの雫」でローマ書の後
半、8章以降を書かせていただきました。光栄なことです。その8
章の始まりの1-3節で、すなわち、12月1日分に
なるところで、「受肉」のことが取り扱われています。奇しくも
12月に入ってローマ書からクリスマスの意味を取り扱うことになり
ました。

 3節で端的に言っています。「肉によって無力になったため
に、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいまし
た。神はご自分の御子を、罪にために、罪深い肉と同じような形で
お遣わしになり、肉において罪を処罰されました。」パウロが受肉
をことの他に大切にしていることが分かります。

 先週届いた雑誌「クリスチャニティー・ツディ」のタイトルが
「イエス対パウロ」となっていました。普通この時期はクリスマス
に関したことを取り扱うのですが、イエスとパウロの比較になって
いるのでより関心を持ちました。イエスは神の国の福音を語り、パ
ウロの福音は義認論が中心であり、違いがあるのかどうなのかとい
うものです。記事を読んだのですが、「初めに義認論ありき」でパ
ウロを捉えている上での議論ですので、何か無理をして調和させよ
うとしているように思えます。この前提自体がもっと問われて良い
ことです。

 歴史的にプロテスタントは、その信条が語っているのですが、救
いは十字架から始まると理解しています。宗教改革によって明確に
なったキリストの十字架の贖罪による義認です。キリストに関して
は、おとめマリヤより生まれ、神であり、人であると宣言されてい
るだけです。その続きで初めて、私たちの罪のために十字架にかか
りとつながっていきます。救いは十字架を中心に理解されます。ク
リスマスはキリストの誕生日で終わってしまいます。

 これに対して初代教会の信条では、二ケア信条にみられるよう
に、御子は私たちのために、私たちの救いのために、肉をとり、人
となられたと明記されています。救いは受肉から始まるのです。そ
の上で十字架と復活に続くのです。それは明らかにパウロの受肉の
理解に近いのです。クリスマスは肉の弱さを思いみて、その上であ
えて肉を持って御子を遣わして下さった神の愛を味わうときです。
お祭りではないのです。

 これは単なる形式的な違いに留まらないで、「肉」の意味合いの
違いをもたらすと言えます。プロテスタントでは、「肉」は救いの
視点から外されて、単なる罪深いものとして切り離されています。
それは義とされた者が、のちに神の恵みによって聖さに預かってい
くなかで、少しずつ肉の生活から離れていくことによって解決され
るとみているのです。義認に続いて、聖化と栄化が必要なのです。
どちらかというと人間主導の救いです。しかしとても精神的なのです。

 これに対して初代教会では、そしてパウロにおいては、「肉」は
初めから救いの対象に含まれています。肉の弱さは神の視点に初め
から取り込まれているのです。肉の弱さはさばきの対象ではなく
て、神の愛の対象です。肉の持つ弱さを神は知っておられるので
す。その同じ肉の姿で御子を遣わし、その肉で罪を処罰されたので
す。その処罰に私たちも預かっているのです。パウロがキリストと
ともに死に、葬られたと言っていることです。そして復活で新しい
からでよみがえるのです。受肉・十字架・復活の全体が救いの意味
を語っています。それは神主導の救いです。しかしとても身体的な
のです。

 私たちは肉の弱さを認めても、義とされて、救いをいただいてい
るのだからと言って、何とか肉の弱さを乗り越えようとします。乗
り越えることが出来ると思い、そのように努力をします。そのため
の手引き書がこれでもかこれでもかと言って出てきます。形を整え
てこれで肉の欲は押さえ込むことができ、肉の弱さを解決できたと
思いこんでしまいます。それでも肉の欲が思いがけず顔を出してき
て驚かされます。肉の弱さがそんな手引き書をかいくぐるように出
てきます。

 それに対して、肉の弱さが初めから救いのなかに繰り込まれてい
ると理解すると、神の救いの豊かさを高めることで肉の弱さが覆わ
れていくことを感じます。肉の弱さを責める必要はありません。救
いの豊かさが内側から溢れてくることを願うのです。キリストがう
ちに住み、御霊が内なる人を強くして下さることを願うのです。肉
の弱さを神の愛で受け止めることができます。自分の弱さも人の弱
さもさばく必要はありません。だからといって罪を犯していいとは
ならないのです。パウロも言っていることです。

 肉はじっとしてはいません。いつもうごめいています。 肉
は絶えず変化します。迷います。肉は要求します。飽くことがあり
ません。肉は満たされることを求めます。暴力をもふるいま
す。 肉は醜さを抱えます。残虐にもなります。肉は痛みを覚
えます。振り舞わされます。肉は老います。時間を乗り越えること
はできません。肉には終わりがあります。限りの予感のなかにいます。

 クリスマスは、この肉の弱さ、肉の欲、肉の痛み、肉の醜さ、肉
の終わりを覚えるときです。「受・肉」に含まれている神の豊かさ
があるからです。

上沼昌雄記

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