「闇に置かれた人びと」2011年6月7日(火)

昨日、上野の国立西洋美術館で「光と、闇と、レンブラント。」
の版画を中心とした展覧会を観てきました。レンブラントに関して
は実は、例の隠れユダヤ人のマラーノとの関係でさらに興味を惹く
ことになりました。ポルトガルから追われてオランダのアムステル
ダムに住みついたユダヤ人の子孫の、レンズ磨きをして生計を立て
たと言われる哲学者スピノザと同じ地区にレンブラントが住んでい
たというのです。レンブラントの絵画にユダヤ人が結構登場してく
るのです。さらにレンブラントの「闇」と隠れユダヤ人の「隠れ」
が結びついてきそうな気がするのです。

124点の展示なのですが、版画やエッチングが中心ですの
で、からだを乗り出して、顔を近づけてみないとよく見えないこと
があります。例の「放蕩息子の帰還」のエッチングに出会ったとき
に、その構図は絵画のものとは違うのですが、絵画でもそうなので
すが、闇に置かれた人が、光に照らされている父と息子の向こうに
いることに目が向きました。光の下に出られないで、ためらってい
るような、羨望の眼で見ているような、そのまま闇に消えてしまい
そうな、そんな闇に置かれた人の顔立ちをじっと見つめることにな
りました。

それでもう一度展示を初めから見直しながら、闇に置かれている
人びとに注目してみました。その表情が語っているのです。天使を
もてなしているアブラハムを家の陰から憎しみ深く覗っているのは
誰なのでしょうか。猜疑心とも嫉妬とも、何とも言えない醜い顔を
しています。アブラハムが天使をもてなしていることに堪えられな
いかのようです。そんな人をレンブラントはしっかりと闇に置いて
いるのです。

イエスが何かを語っていながらも、隅の薄暗いところでひそひそ
と語り合っている人たちがいます。光のわざではなく闇のわざを引
き受ける人がいるかのようです。3本の十字架の光の届かない
真っ暗なところに、他の人たちに混じって顔を手で覆って泣いてい
る女性がいます。表に出られないのですが、十字架のイエスを誰よ
りも悲しんでいるのかもしれません。イエスが十字架から降ろされ
たところを、人垣の向こうの陰から無表情に眺めている人がいま
す。もう一人の人はもう少し近寄って眺めていますが、何を思って
いるのか分かりません。何とも不気味です。

そんなことを思っていると、絵画での「放蕩息子の帰還」で闇の
中から父と息子の再会を見つめている顔が浮かんできます。ため
らっているような、困惑しているような、そして光の下に出られな
い自分を恨んでいるような、そしてそのまま闇に留まっていること
が運命であるかのような、その顔の表情がしっかりと浮かんできま
す。闇に置かれている人があたかもその場をさらに浮かび上がらせ
ているかのようです。

レンブラントによって闇に置かれた人びと。聖書の物語に
あわせて、表に出られないで、裏の世界に留まるしかない人びと
に、レンブラントがことの他に心を注いでいるかのようです。闇に
留まる人たちが、光の下に引き出されている人たちを今でも眺めて
いるのです。その現実をレンブラントは知っているのです。自分た
ちの正体を隠すことで生き延びるすべを身に着けたマラーノの顔に
そんな表情を見たのかも知れません。

戸惑っているような、あと一歩踏み出せば光の下に出られるのに
出られないでいるもどかしさを浮かべているような、それでいて闇
に留まることで自分の存在を確認しているかのような、闇の中から
見た光の光景は決して忘れることのない確かさを浮かべているよう
な、そんな表情は結構教会でも見られるのかもしれないと思いなが
ら、上野の森をあとにしました。

上沼昌雄記

広告

「「闇に置かれた人びと」2011年6月7日(火)」への2件のフィードバック

  1. 『闇に置かれた人々』を読ませていただきました。
    一枚の絵画が描き出す聖書の深み、レンブラントの読みの深み、表現の深み、絵画とは神様のメッセージそのものなのだとおもい感動しています。
    アートバイブルを探し出して、レンブラントの『放蕩息子の帰還』をそっと眺めています。
    静かな光の中に浮き彫りになった、父と息子。息子は服も靴もぼろぼろでありながら、その表情は安らかに眠る赤子の眠り顔のようです。安心して目を静かにつむっています。
    父の手は一方はごつごつしています。一方は母のようなやさしい手です。ほっとした顔で息子を抱いています。
    でもまってまって待ち望んだその苦労が表情の奥ににじみ出ているようです。
    その向こう側にいるのが、上沼先生のおっしゃる闇の人でしょうか。暗いなか、薄暗い中にいます。でもじっと光を見つめています。なんともいえない表情です。でも光の方からは近いようで遠い、遠いようで近い、そんな感じがします。その距離の中になんともいえない真っ暗な闇があります。
    私たちはいつも光に守られています。守られていながら後一歩で気づかないのかも知れません。闇にとらわれ、光を望みながら闇にとどまってしまっているのかも知れません。
    もったいないことです。

    自分の中のこのようなユダヤ人を見ながら、でも、なにかこんな自分にいつも神様の方から近づいて恵みをくださって、困難の中で日々支えられていることをありがたい、ありがたいと思っています。

    1. 吉川恭子様 
      レスポンスをよみながら、レンブラントの版画とエッチングを観に行ったときのことを思い出しています。ある時点で中心人物ではなくて、闇というか陰というか、背後に置かれている人に目が向いていきました。そんな人物を大切に描いているレンブラントの心に感動しました。そのような人物を実際に見ていたのでしょうし、それは同時にレンブラントの心そのものなだろうと思わされました。それが吉川さんの心のも通じているのだと思います。そんなことをお分かちできることを感謝しています。
      上沼昌雄

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中