「反復、記憶、和解」2011年6月20日(月)

今回の日本の奉仕のなかで、反復と記憶と和解を経験させられた
ことがあります。5月21日(土)が東久留米
の久留米キリスト教会の50周年でした。当初は大がかりの記
念会を考えていたようですが、震災のことがあって、会堂での記念
礼拝となりました。この時に参加できただけでなく、次の日の聖日
礼拝での奉仕を許されました。記念礼拝も3回の聖日礼拝も、
それぞれ会堂に人が溢れるほどでした。1986年から3年
間奉仕をさせていただいたときの方々と、そしてなりよりも教会の
設立から奉仕され、フィラデルフィアに引退されているブレア先生
と一緒になることができました。

日曜の夕方にはなんと、現牧師の森本先生とブレア先生と一緒
に、近くの温泉で湯船につかりながら楽しい一時をいただきまし
た。そしてさらに、月曜の朝の早朝祈祷会でそれぞれが思いを語る
ことになり、ブレア先生の隣に座っていましたので、何か20
年以上前に一緒にこの教会で奉仕をさせていただいた時のことを思
い出しました。それで、ブレア先生にも聞こえるように、Repetition,
Remembrance, and Reconciliation という三つの単語でまとめてみ
ました。思いがけないで出てきたことなのですが、すでに22
年以上前のことなのですが、3年間ブレア先生と一緒に奉仕さ
せていただいた時のことを、自分のなかで整理することになりました。

Repetition すなわち、繰り返し、反復とは、会堂でブレア
先生の隣に座っていることで、前の小さな会堂の3階の礼拝で
ブレア先生の隣に座っていたことを、今繰り返しているからで
す。Remembrance とは、同じような場面を繰り返すことで、
当時の記憶が鮮明に浮かんでくるのです。特にその礼拝の際だった
霊的な雰囲気を思い出します。3回の礼拝でそれぞれ司会者も
奏楽者も参加者も異なっているのですが、前奏から賛美、祈祷、聖
書朗読、メッセージと無駄なく、しかも威厳を持ってなされてい
く、その場に居合わせたことを思い出します。その伝統は今でも守
られていて、3回の礼拝であっても、教会が一つとされている
秘訣になっています。

Reconciliation とは、和解ですが、そんなすばらしい礼拝
がなされている教会で、不十分な奉仕しかできなかった自分との和
解です。誰かとの和解ではないのです。3年間で切り上げてア
メリカに家族と移住することになることで、教会に迷惑をかけたこ
とも含めて、自分で納得できないでいたことがありながら、教会が
続いて祝福のなかにあることで、自分を受け入れることができたの
です。こちらの至らなさがありながら、神はそれとは関わりなしに
教会を導いているのです。その3年間は今でも自分のなかで生
きています。特に毎週の霊的に豊かな礼拝は、ミニストリーで各地
の礼拝に関わる視点になっています。

この反復、記憶、和解という三つの用語は、その後も自分のなか
で何度もよみがえってきます。自分がかつて経験したことが記憶と
してどこかに残っているのですが、同じような場面を繰り返すこと
で鮮明に浮かび上がってきます。以前から記憶は神の所有物のよう
に思っているのですが、その記憶の否定的な面も神が関わることで
肯定的なものに変わるのです。それは聖書で繰り返し神の民が思い
起こしていた記憶です。ノアの洪水も、出エジプトも、バビロン捕
囚も、罪のことがありながら、神の哀れみを思い起こす契機となっ
ているのです。同じように自分にとって否定的な記憶をも、神はど
こかで肯定的なものに変えてくださるのです。そこに自分との和解
が生まれてきます。記憶の不思議な豊かさです。神の手の内に自分
の記憶は納められているからです。

そんなことで久留米キリスト教会を去って、アメリカに移って始
めた今のミニストリーが、実はこの6月4日に20
年を迎えました。自分でも驚いているのですが、どのように記念し
たらよいのか分からないでいました。ただ久留米キリスト教会の
50周年記念で反復・記憶・和解を経験して、この20年間の歩
みを一緒に歩んでくださった方々の記憶を分かち合える場を作れば
よいのだと分かりました。ミニストリーに関わってくださった記憶
が、その方の内で今でも何かを生かすことになっていれば、ミニス
トリーの存在理由になります。

上沼昌雄記

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「「反復、記憶、和解」2011年6月20日(月)」への2件のフィードバック

  1. 『反復、記憶、和解』を読んでいます。
    先生が二十年前に、なにか納得できない形で久留米キリスト教会を去った。二十年ぶりにブレア先生の横にすわった。いろいろと変化があるのにそこで二十年前と同じ霊の空気を味わった。そのことで御自分と和解した。不十分だったと感じる御自分と和解した。二十年の時がたってそこに座ってみて和解した。

    先生が和解にいたるにはい長い時間が流れている。そこに二十年の時間が流れている。言い表せない思いが流れている。でも神様はそのひとつひとつをご存知である。なんとも表になかなか出すことのできない思いをはるかに見てくださっている。

    教会に末松先生が座っています。末松先生の長いご家族の証を奥様の直子さんから聞きます。静かに聴いています。
    末松先生とお父様の長い長い和解の物語です。ひとつひとつ事細かに語られたわけではありません。全部を知っているわけではありません。でも先生ご夫妻のそばにいながら、ときどき家族の苦闘と神様の恵みを見せていただいています。
    「末松の父のお骨の一部がみつかった。」そのことだけです。でもそのことを聴いたときに、ほっとして喜んでいる先生の表情に
    御家族の長い苦闘と和解を見せていただいたようなそんなときが夏の初めにありました。

    私も今日も家族の歴史の中にいます。神様の手のひらのうえで守られています。
    きょうも悲劇で終わらない家族の歴史が刻まれていきます。
    そんなことを感謝しています。
    お元気でいてください。

    1. 吉川恭子さん
      コメントを読みながら、情景が浮かんできます。時間を超え、場所を越え、神の霊に動かされているような思いです。
      暑い中、吉川さんもお元気でいてください。
      祈りつつ。上沼 2011/07/24

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