「外の思考」2011年6月28日(水)

この冬の日本の旅で、小岸昭著の『隠れユダヤ教徒と隠れキリシ
タン』と『離散するユダヤ人』を手に入れることになり、15
世紀にスペインで強制的にカトリックに改宗させられたマラーノ
(豚)と呼ばれるユダヤ人のことを知ることになった。2月
9日のこの欄で記した。何とも興味を惹かれることなので5月
に日本に入る前に、山形村山市の友人の坂本牧師にお願いして、同
著の『マラーノの系譜』と『スペインを追われたユダヤ人』を古本
で取り寄せいていただいた。一気に読んでしまったが、その後は奉
仕の移動で振り返ることができなった。日本を離れる前に四谷のサ
ンパウロ社に立ち寄った。そこで徳永恂・小岸昭共著の『インド・
ユダヤ人の光と闇』を見つけた。カトリックの本屋さんにこれが置
いてあるのは、カトリックの奥の深さなのであろう。

アメリカの地に戻って多少落ち着いてから、これらの本をもう一
度読み直した。改宗してもカトリックの異端審問に脅え、結局はス
ペインから世界中に流浪するマラーノを、著者の小岸昭氏は、執拗
にと言えるほどに追いかける。それがどこかで現代のドイツ文学に
まで影響していることを追跡している。著書はどれも、その追跡の
ために世界中を旅し、15世紀から現代まだでの歴史が織りな
されている。しかもそれは、表の歴史でなく、裏の歴史なので、読
者として付いていくのも、迷路に入るようで、忍耐が求められると
同時に、何とも興味深い旅をさせられる。

迷路とは、カトリックに改宗していながら、密かにユダヤ教を守
り、同時にカトリックの異端審問に脅え、さらに長い歴史のなかで
ユダヤ教からも外れ者のように見なされる、二重に疎外された意識
の迷路である。ユダヤ教徒であることを隠し通して生き抜かなけれ
ばならない意識の迷路である。小岸昭氏はその二重の隠れた意識
を、イサーク・ルリアとカバラ神秘思想に、スピノザの思想に、
トーマス・マンの『魔の山』に、ハインリッヒ・ハイネの詩に、そ
してカフカの小説のなかに見ていく。その探求はさらに、ホルヘ
ス・ルイズ・ボルヘスからエリアス・カネッティにまで及んでいる。

著者の飽くことのない探求に惹かれる。著者をここまで動かして
いる動機のようなものを知りたくなった。『スペインを追われたユ
ダヤ人』の「後書きにかえて」で次の文章に出会った。[確か
に、古代から現代まで絶えず繰り返してきた、ユダヤ人の流浪運動
の根底に、現代の私のテーマである「外の思考」とでも言うべきも
のが、存在するように思われる。この思考は、荒野に放逐されて死
滅する犠牲者ないし避難民の役を自ら引き受けるユダヤ人の、一見
自己破壊的に見える衝動と関連しているが、それはしかし、視点を
変えてみれば、どのような破局的状況のなかでも「生き残ること」
への人間の希望と確信でもあるだろう。]

カトリックに改宗しても異端審問の脅え、いつでも「外」に置か
れているだけでなく、本来のユダヤ教からも長い間に離れてしまっ
ているために「外」の置かれている、この二重の「外」を生き延び
ているマラーノの「外の思考」が、西洋の「内」だけに向いていた
世界に新しい空気を吹き込んでいるだけでなく、人間の運命とまで
言えると見ているようである。カフカの『審判』は、異端審問に脅
えているユダヤ人であり、現代の法社会で外れることを恐れる姿で
もある。『城』は、そこに招かれていながら、決して到達できない
でいつも「外」にいる現代人の姿でもある。

「内の思考」で理想的な社会をめざしてきた西洋のシステムの独断
性、閉塞性、暴力性が、20世紀にホロコーストを代表するよ
うに出てきた。ホロコーストのあとの思想として、「他者」を視点
にレヴィナスの哲学が出てきた。アメリカでは、サクセス・ストー
リーで一時風靡されたガラス張りの教会が破産を来した。内を固め
ることで社会も教会も安全な港を築いてきたつもりであるが、内側
から崩壊を初め、外からの力で破滅をしていく。

「外の思考」は、内側から排除されているようであるが、どのよう
な状況でも生き延びるすべを身に着けている。初めから故郷を捨て
ているので、内に戻ることはない。その先にメシアの到来と真の故
郷を求めている。ユダヤ思想のすごさである。キリスト教は、しか
し、キリストを内側の中心に据えることで思想を固め、社会を築い
てきた。それは聖書の思想と言うより、西洋の思想なのであろう。
自己吟味が求められる。

キリストは、ユダヤ人律法学者からも、ローマの役人からも、群衆
からものけ者にされて、十字架の道を歩んだ。しかもその十字架
は、「門の外」「宿営の外」(ヘブル13:
11,12)であった。「ですから、私たちは、キリストのはず
かしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありま
せんか。」(13:13)と、ヘブル人への手紙の著者が
言っている聖書の生き方に帰るときなのであろう。

上沼昌雄記

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