「大村先生の世界」2011年7月18日(月)

神学モノローグ

前回のこの欄で「外の思考」について書いた。自分のなかの思いを整理し、記しておく必要を感じて書いた。それに対して、沖縄で長く伝道・牧会をされてこられた宮村武夫先生がレスポンスをくださった。 <いつも変わらぬ、興味深いメールを受け取りました。感謝します。特に文献。ここで取り上げられている課題は、聖書解釈史におけるスピノザの立場との関係で、私なりに注目してきました。> スピノザに注目してこられた宮村先生の視点に驚嘆した。

それに対して以下のような返事を書いた。<勝手に書いています記事を読んでくださり感謝いたします。先生のスピノザに関しての2回のコメントに同慶の至りです。何か小さくまとまり得ないスピノザの世界の背後を知る思いです。マラーノとの関係で、全く関係がないと思われるベーメが取り上げられていて、これは大村先生の世界にも通じることなので、余計関心があります。そんな思想に惹かれる自分の心を振り返っています。> それに対して、宮村先生が再度書いてくださった。<「大村先生の世界」との表現に好感を持ちます。世代を超えた継承の欠乏に、寂しさを覚え、あきれていますので。>

宮村先生の後半の言葉は分かるような気がするが、あえて「大村先生の世界」と言ってくださったことで、それ以来、さて大村先生の世界をどのように言い表すことがふさわしいのか、考えさせられてしまった。簡単には言い表しきれない深みと広がりを持っていて、全体像に迫ることはとても無理である。それでも、ミニストリーの20周年の記念誌の編集を始めているなかで、先生をお訪ねする度に考えさせられた会話を記した記事を読み返すことになって、思わされていることがある。

2004年7月26日のこの欄「神学の認識論」で、以下のように書いた。<いままでの会話で明確にされた視点がある。哲学的にはプロテスタントは認識論であり、カトリックは存在論である。プロテスタントの精神は、知ることの主体、すなわち、認識の主体を神の光で批判的に再考していくことである。その意味では近世哲学はプロテスタント精神の遺産である。プロテスタントの哲学者である大村先生の立脚点である。知れ得ないことの限界を悟り、知り得ることの恵み生きることである。「キリスト以外は知るまい」と言い得る姿勢である。存在の類比と存在の推論でキリスト以外をも取り入れていくカトリックと決別している。大学で哲学を専攻し、その後神学に曲がりなりに関わっていて大村先生の視点にようやく納得できる。その分、自分が関わってきた神学に認識論があるだろうか疑問を持った。その疑問をお伝えした。返事は、「神学者で認識論をやっている人がいたら教えて」と言うものであった。唸らされた。>

プロテスタントは認識論であると言っても、「神学者で認識論をやっている人がいたら教えて」と言われて、どんなに福音的、聖書的と言っても、結局カトリックと同じように、出来上がった自分たちの聖書理解と神学の護教に回っているに過ぎない現状を知らされる。自分たちのあり方を、その聖書理解を問い直す作業は上手に取り除かれている。取り除かれているというか、そのすべを知らない。厳しい自己吟味の手だてを持っていない。

その時に書いた自分なりの理解は今でも同じである。<プロテスタントの、しかも福音主義といわれる神学書でも、神学を取り扱っている自分の理性を批判的に再考しているものはない。聖書の文字の推論で神学を構築している。構築している理性の再考はない。聖書がそこまで語っていないことを論理で結論づけている。その結果それぞれの教派の神学が出来上がっている。それぞれの教派の前提の違いから、神学の強調点の違いがでてきている。その上で聖書を解釈して、異なった理解を排除している。全部を包み込んで大がかりにしているのがカトリックである。>

護教的な聖書理解ではなくて、絶えず自分の視点を聖書によって批判的に確認していく姿勢は、大村先生が今に至るまで聖書研究を実施していることにも伺える。昨年100歳の大村先生に全く失礼というか、それでも聞いてみたかったので、あえてお伺いしたことがある。それは大村先生が、今に至るまでホームにメンバーが訪ねてきて、ヘーゲル研究会と聖書研究会を続けているからである。

<全く失礼と思ったのですが、今回の会話の流れのなかで思い切って聞いてみました。先生にとってはヘーゲルと聖書は同等なのでしょうかと。そうでないことは分かっていたのですが、聞いてみたかったのです。しばらく沈黙されて、ヘーゲルは哲学の文献に過ぎないと、それだけを当然のように言われました。分かっていることをなぜ聞くのかという思いをもたれたかも知れません。それでもその一言で、ヘーゲルをはるかに超えている聖書の位置づけを大村先生のなかで知ることになりました。ヘーゲルの哲学大系がどうであっても、それは人間の思考の産物に過ぎないのです。おそらく先生のなかにはヘーゲルの言っていることは隅々にまで研究されている上で、なおそれを超えた聖書の神のことばとして位置づけているのです。それは同席された小泉氏にも私にもそのまま納得のいくことです。>(ウイークリー瞑想「聖書の権威?」2010/11/16)

失礼な質問であったが、聞いてよかった。大村先生の世界というか、姿勢がよく分かった。同時に聖書を最上級に置いていながら、ヘーゲルとは明確に区別していることで、カトリックのように哲学をもスコラ神学のなかに組み込むことを拒否していることが分かる。まさにプロテスタントの認識論である。神のことばと哲学が統合されることはない。明確に切れている。切れているので、哲学を哲学として学ぶことができる。ヘーゲルにおける神学の影響も自由に探求できる。神のことばにはキリストを知ることで、初めて関わりうることである。キリスト以外を知ることをしないでも済む。それはしかし、哲学を知っているので言えることでもある。

大村先生がヘーゲルの話をされるときには、必ずと言っていいほどヤコブ・ベーメの話をされる。ヘーゲルの『大論理学』がベーメに萌芽があるというのである。この5月に伺ったときにもその話になった。先生の『ベーメ小論』で詳しく論じられている。ベーメはその神理解の深さから、宗教改革後に出来上がったルーテル教会から破門された。いわゆる「外の思考」を強いられた人である。それでいながら、スピノザと同じように、後の哲学に深く影響している。ルーテル教会は出来上がった概念の護教に回っていたのであるが、ベーメはそのなかで神との関わりを深く思索した。後年の『キリストへの道』は現在にも通じる深い霊的な書物である。

聖書を最上級に置いていながら、大村先生はベーメのことまで深く研究されている。このベーメのことがマラーノとの関係で取り上げられている。「外の思考」として共通性があるというのである。前回大村先生に「ベーメは不思議な人ですね」と言ったら、「上沼さん、そのテーマで文章を書きなさい」と言われた。書けるかどうかは分からなが、書く自由はいただいている。大村先生がそうであるように、聖書を最上級に置いていて、なおベーメのことに触れることができる。まさに、キリスト者の自由である。

責任を伴う自由である。神のことばと世界を理解しようとする自分の視点を常に吟味していく責任である。その責任を負っているので、逆に自由に関わることができる。それは宮村先生も持たれているものである。それでスピノザのことにも心が開かれているのである。「大村先生の世界」を確認しながら、キリスト者の自由と責任を共有している。

上沼昌雄記

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“「大村先生の世界」2011年7月18日(月)” への 4 件のフィードバック

  1. 上沼先生!お久しぶりです。

    現在、メールアドレスがないので、直接にメールすることが出来ません。
    それでスターバックス内にある無線LANでコメントを送信し入れさせてもらいます。
    ご無礼とは思いますが、ご理解ください。

    それにしても大村先生は後輩の私たちにとっては厄介な存在です。
    以前、上沼先生から頂いたメールに書かれていた大村先生の言葉が今でも脳裏に引っかかってます。
    「日本にはポストモダーンはない、、何故ならモダーン自体が存在しないからだ、、」
    ポストモダーンの立ち位置である事をある程度信じてきた方としては、大変に戸惑って狼狽しかけたついでに検証を余儀なくさせられた思いです。
    しかし、大村先生はウルトラモダーンです。
    言ってる本人が否定してもなおかつ、モダーンだと思うのです。
    それで前回、丸の内のデイーン&デルカでお会いした時に持参していた『ヒッチコックxジジェク』を何度も読み返してます。
    クリスチャンで『ヒッチコックxジジェク』なんて本を読む人は少ないでしょう。
    あのジジェクのモダーンさは日本に存在しないのでしょう。
    アルフレッド・ヒッチコックという素材を使い、モダーンの限界ぎりぎりまで持って行く解釈を読んで、大村教授の言われている言葉を大分理解出来ました。
    あそこまで、徹底したモダーンな思想がないことが、大村先生いうところの「日本にはポストモダーンはない、、何故ならモダーン自体が存在しないからだ、、」を言い当ててます。なるほどね!であります。

    「護教的な聖書理解ではなくて、絶えず自分の視点を聖書によって批判的に確認していく姿勢は、大村先生が今に至るまで聖書研究を実施していることにも伺える。」
    大村先生ご自身はモダーンだろうがポストモダーンだろうが、”そんなの関係ね〜〜〜!”なのでしょう。
    「ヘーゲルは哲学の文献に過ぎないと、それだけを当然のように言われました。」
    私の狭義的な考えとは裏腹に、超越したお言葉は、、、、、まさにデイープインパクトです。
    爆弾を投下されて壊滅的な私にも主の救いがあるように祈って下さい。

    現在、マラーノ思想にどっぷりと浸かってらっしゃるようですが、今度、日本に来た時にジュルジュ・バタイユの『聖なる神』の初版を差し上げます。これはバタイユ思想の総決算、『聖なる神』の無削除完訳版で生田耕作最後の翻訳バージョンです。
    「私は哲学者ではない、狂人かそれとも聖者だ!」20世紀世界を震撼さた破天荒の思想家バタイユは爆弾を投下しながら書く。
    この爆弾のあとに無傷で立ち直れる者、それは・・・・・・「創造主」を除いて他にはいない。とするだけの力説があります。
    バタイユも外の思考者なのです。
    それで外の思考者としてヨナとレヴィナスを書いた文章を送ります。
    ヨナ書の見解について私が正しいのかどうかは、どうでも良いことです。
    しかし、こうしたヨナ書への見解があっても良いとの考えでいます。
    これはある一つの外の思考でもあるからです。
    言葉の手前にあるものなのかもしれません。
    普段の聖職者じゃ考えも付かない事でしょうが、レヴィナスの実直な最終稿を翻訳していて考えたことです。
    護教論的聖書理解ではないことで、ヨナを援護しながらヨナとレヴィナスの絶対知性を信頼して僕も書いています。

      「外の思考、神の代弁者の装置、絶対知性としてのヨナとレヴィナス」

    ヨナ書も、ヨブ記も読んでいたのだけでは伝わらない分からない部分はある。
    神の言葉はそのままでは絶対に人間には理解できない。
    僕らが普通に使っている理論性や説得力や挙証といったもので神が思考したりするというのはあり得ない。
    ヨナには特殊な資質があった。
    神の言葉を分かりやすく変換する能力があった。
    ある種の特殊なコードを変換する能力の長けていたから使命を授かり、異教徒の街ニネベヘ向かう事を余儀なくされる。
    「善行を行えば、報償が与えられ、悪行を行えば罰が与えられる」というようなシンプルな勧善懲悪の神であれば、幼児のロジック、幼児的の語りを持って理解させる事は出来るかもしれない。
    しかし、それでは、「成人の神」を教える事は出来ない。
    「成人」とは被造物としての自覚を持つ存在のことなのだ!
    ヨナはそれを教えにニネベに向かう。

    ヨナ書は暗号である。
    神からの暗号である。
    変換された解読が必要であるからヨナのイマジネーションが必要とされた。
    たった数ページのヨナ書は暗号化されて僕らに伝わるが、あのシンプルな物語にして隠された複雑なコードの解読者はいない。
    それで多くの牧師も信徒も勧善懲悪的を神にしてしまう、道徳性を駆使した信仰に頼りたがる。
    神はどうやって、その理解も共感も絶した考想を人間に理解させることに成功したのか?
    エマニエル・レヴィナスの言葉を借りれば「神の威徳と全能にふさわしい存在」
    神が人間を創造したのだとすれば、人間は神の威徳と全能にふさわしい存在でなければならない。
    「神の威徳と全能にふさわしい存在」とはどのようなものか?
    再度、レヴィナスは言う、「神の支援抜きで、地上に公正で平和な社会を構築しうるもの」である。
    レヴィナスの言葉を受け止めたものは、過去のヨナである。
    レヴィナスはホロコースト後、生き残ったユダヤ人に対し、「あなた方はいったいどのような幼児的な神をこれまで信じてきたのか?善行をしたものには報償を与え、過ちをおかしたものを罰し、あるいは赦し、その善行ゆえに人間たちを永遠の幼児として扱うものを神として信じてきたのか?と問いている。
    だから、成人の信仰は神が世界を負託できるものたることを自らの責務として引き受ける人間の出現によって証しされるのである。

    ユダヤ人大量虐殺の最中、神はユダヤ人を見捨てたわけじゃない、神はユダヤ人をヨナと同じ様に信じたのだ!
    ホロコーストのおける神の沈黙をレヴィナスは「神の被造物に対する絶対的な信頼」と読み替えた。
    レヴィナスは命がけの跳躍という論理アバクロシーに置き換え、広く深く世界のユダヤ人に浸透して行った。
    僕の恩師である上沼昌雄師はレヴィナスについてこう語っている。
    「デリダから見るとレヴィナスはまだ暴力性を持っていることになるのでしょう。」
    たしかにレヴィナスは暴力性があるのだが、これはナチスドイツに対する超自我への報復ともとれる。
    そして、同胞のユダヤ人に喝を与える為の暴力性ともいえる。
    実際、ナチスドイツは1933年5月にフロイトを初めとする多くの思想家の本を焼却した。
    この反動なのだろう、、神の支援抜きで、地上に公正で平和な社会を構築しうるものとしての暴力性はある。
    恩師はまた、「ロゴス中心性を脱し切れていないと見えるのでしょう。解体が不徹底なのでしょう。」と付け加えたが、これは致し方ない事で超自我に対抗する手段の欠点だとも伺える。
    レヴィナスは死の直前まで、哲学的著述に関わっていた。
    そのレヴィナスの未完の原稿のコピーが手元にある。
    内容の主題は「私には言いたい事がある」というものだった。
    一般には出回ってない未完成の原稿を現在、僕が翻訳しているが、レヴィナスは「どうしたって言葉が届くはずのない人」
    「とりあえず言葉を聴く気のない人」に向かってなお語りを止めないこととしている。
    そのような無謀な営みを駆動しているのは、「わたしにはどうしても言いたい事がある」という強い思いである。
    難解な見地についての書物であるにもかかわらず、レヴィナスは直に言いたい事を言葉に託し届けようとしていた。
    言葉が届くとはどういうことか?
    わかりやすく書くということではない、論理的に書くとうい事でもない、修辞をこらすことでも、韻律が美しいということでもない。
    言葉が届くはずのないほど遠い人に、なお言葉を届かせるべく、身をよじるようにして書いている、語っている。
    この書を翻訳していて、僕はヨナが何を語ったのかを突然、推測した。
    ヨナ書は解釈性を持ち込ませない様に書かれている。
    ヨナがニネベの王に何を言ったかは聖書に書いてはいないが、レヴィナス同様に「私には言いたい事がある」とした強い思いが込められているのだろう、2章にも4章にも「わたしにはどうしても言いたい事がある」として述べている。
    レヴィナスの翻訳に苦労していると、ヨナに伝えた神のコードが読めて来た様な錯覚も受けた。
    もしヨナ書に解釈性が持ち込まれる様に書かれていたら、ヨナがニネベの王に言ったことが明確に書かれていたらヨナ書は意味を無くす。人間が知的枠組みを組み立てる事でヨナ書は成立するようになされている。
    そんなヨナ、レヴィナスの次にくるものが、構築して行かなくてはならぬ使命なのだろう。
    神の沈黙に余計な言葉をはさみ、服従させるようなやりかたで信仰を仰ぐファンダメンタリズムな牧師ではレヴィナスもヨナもそして神の暗号も僕は解読は出来ないと信じている。スリックデヴィル(口先だけの悪魔)のような説教では限界が何時か訪れることを彼らは知る由もないのだろう。

    ヨナがタルシシュに逃亡を企てた時にはまだ、神与えしのコードの解読はヨナ自身になされてはいなかった。
    ヨナの独りよがりな部分が強くでていた。
    ヨナは独りよがりで、強情ぱりだった。
    多くの牧師や神学者がヨナを嫌い軽視するは、こうしたヨナの性格がわざわいしているのだろう。
    それだけで、ヨナを捉えてしまい、彼の資質を見ないまま葬り去っている。
    ヨナの性格と資質は相反している。
    しかし、神はヨナの資質を見て知っていた。知っていたからこそ、使命を与えた。
    嵐の海に身を投じ大魚の胃袋に呑み込まれ、何度もの試練を経てヨナは知的枠組みを再構築して神から授かったコードの解読に成功する。あの試練の最中にでも、ヨナは知的枠組みを再構築するすることを忘れなかったのだ!
    だから、異教徒のニネベの住民を説得できたと考える。
    レヴィナス同様、私にはいいたい事があるとすれば、ヨナを軽視する多くの聖職者及び品行方正な信徒は逃亡を企てる卑怯者のヨナとだけしか捉えてはいない。それでヨナを軽視している割には、ヨナの偉業には達していない。
    大きな教会を建てる野望と、信徒を多く集める事に、、または権威と名誉に集中してしまったおかげで、神与えしコードの解読には手つかずのまま信仰がなされて行く。多くの牧師は嘆く、教会に人が集まらないと、、福音が伝わらないという。
    しかし、その嘆きは初期のヨナの独りよがりな部分と似たり寄ったりなのである。
    試練の最中、知的枠組みを何度も再構築して、神与えしコードの読解に成功するヨナという人間を見てはいない。
    ヨナのように試練の中で知的枠組みを解体し再度組み直してゆく術を彼らは知らない、知ろうともしない。
    ヨナの知的枠組みを再構築させるアヴァンギャルドでエクスペリメンタルな部分は、おおいに僕を刺激して来る。
    僕はレヴィナスの「私には、どうしてもいいたいことがある」を借りていいたかった。

    実際、私も嵐の中で教会という船に乗り込んで、くじ引きしたら当たってしまい、「だれのせいで、このわざわいがわたしたちにふりかかったのかを知ろうとした」(ヨナ書1章 7節)と同じく、はずれくじを引いてしまい、「二度と教会に来るな!」「おまえは、キリストを汚した」と言われて以来、ヨナのように海に投げ出されずに済んで教会は失ったものの試練の中で知的枠組みを何度も再構築してきた。
    聖書から端を発し、西洋哲学にのめり込み、ユダヤ人問題からホロコーストを研究して、フランスの思想にたどり着きコレージュド・フランスのフーコーの講義を何度も読み解きては、思考を巡らす。教会では教えないもの、普通のクリスチャンでは探りを入りしない範疇まで、外の思考にまで手を伸ばして行く。
    カナダのリージェンシー大学精霊神学部を創立したジェームズ・フーストン教授は文学比喩を使い聖書に書いてある事をあたらに探りを入れた。
    ヨナと同じ様な知的枠組みの再構築である。
    そんな僕の知的枠組みの構成やロジックはヨナと同じに試練の中で育って行った。
    だからかもしれない、ヨナにシンパシーを感じるのは、、。
    試練の中でヨナ自身が持った怒りはヨナ自身の考察を変えさせ、新たなロジックの構築に彼は結びつけた。

    神がその名にふさわしい威徳と全能を備えたものであるなら、必ずや支援抜きで、地上に公正で平和な社会を構築しうるものをレヴィナスはユダヤ人に解いた。
    まったくもってヨナの説得力である。
    ホロコーストにおける神の沈黙も暗号であり、我らは生涯かけて解読しなくてはならない。
    人間は神からのコード解読が不可能だと判断すると、道徳的価値を見いだして自己の知的限界については反省的になることをせず、他者に成り済ます。自由な発想とフレシキブルな考察が聖書解読に必要なのにせず、神から批判されればされるほど、知的な枠組みを根底から作り替えようとはしない。
    ヨナのストーリーの中にはヨナの反省があった。
    大魚の胃袋の中で、またはとうごまの木に隠れたときにヨナは自身の知的枠組みを根底からもう一度作り替えようとする考察があったと僕は勝手に考える。
    ヨナ書の面白いところは、ヨナが何度もの試練を経て挫折を繰り返しながら知的枠組みを再構築する所である。
    現代の宗教にはそうした再構築する試みが失われ怠惰で安易に神に依存している傾向が見られる。
    要するに、幼児的なロジックでしか、信仰を支えられていない。
    これはある意味、フロイトが提唱した心理的な性の発達段階/第三段階の性感帯:男根期の欠点である、肛門から子供が生まれると考えるロジックとなんら変わりのない幼児的な考えである。
    だからヨナ書が読めてなく、ヨナに対する洞察がない解釈で聖書の教えを成り立たせてしまっている。
    神の言葉に聞き従う事しか出来ていないからレヴィナスの「わたしには言いたい事がある」に肉迫してなく説得力が欠損している説教を聖職者は繰り返すのだろう。ニネベの王は、ヨナの助言を最終的には理解してはいなかった。
    ぼろ布を纏い、灰の上に座り聞き従うことでしか示さない。要するにヨナのような考察は皆無。
    ヨナは最終的に神がニネベの街にどういう判断を下し神権限をどう発揮するかを、ニネベの東に立てた掘建て小屋で見守ることになるが、神はヨナの完成された知的枠組みを口封じしてしまう。それにヨナは憤る。
    4章における最終節で神はヨナをやさしく叱責しながらなだめる。
    右も左もわきまえぬとし、12万人のニネベの住人を総括している。
    分かりやすくいえば、「あいつらに何を言っても駄目!その程度なのだから、、おまえの足下にも及ばない、、。」として神はヨナに伝えた。
    神の言葉に聞き従ったが、幼児的ロジックのままのニネベの住人である。
    ヨナを大した事のない人間と捉えている人は、右も左もわきまえぬニネベの住人と何ら変わらないのである。

    「神がその名にふさわしい威徳と全能を備えたものであるなら、必ずや支援抜きで、地上に公正で平和な社会を構築しうるもの」というレヴィナスのロジックを僕は正しいと思う。
    ここで重要なのは、ヨナの知的枠組みを僕らも考えなくてはならぬということである。
    ヨナが考えた知的枠組みが全て聖書に書いてあったら、考察を巡らせる事なく理解はできるかもしれない。
    しかし、聖書は理解以上のものを要求してくる。
    聖書とは聞き従うことだけにあらず、神のコードを解読して、知的枠組みを構築することも要求して来る。
    ヨナ書とはそういう書なのである。
    右も左もわきまえない12万人の中の一人になるか?それとも試練の中で知的枠組みを構築するヨナのようになるかは、あなた次第なのである。神はまたもや、僕らに選択を迫って来る。
    ヨナ書を通し。

    ヨナのように知的枠組みを構築したレヴィナスはユダヤ人がホロコーストの中で死ぬに任せた事を理由として、信仰に背を向けた背教をなじった。
    レヴィナスはホロコーストの時間における「神の沈黙」を人間に対する絶対的な信頼に基ずいて、召命を負託された事と解釈することによって崩れ掛かったユダヤ人共同体を瀬戸際で支え、虚無的になりかけたユダヤ人たちを再び、律法の学習と戒律の尊守の静かな信仰生活に押し戻した。レヴィナスはヨナの説得性を持ってユダヤ人に解いた。
    レヴィナスが駆使したロジックは核心に触れていると僕は考える。
    そして神はヨナの知性を信頼していた。
    大魚の胃袋の中、ヨナは異教徒をどう説得するか、神与えしのコードの解読に考察を練ったと僕は考える。
    ヨナは「神の沈黙」の時間にそれなりのロジックを構築してニネベの住人へ伝え彼らの信仰生活を戻して行った。
    そうした事は、ホロコーストのユダヤ人に対しても同じであった。
    成人の神、幼児性のロジックの対比はヨブ記にも書かれていて、ヨブとヨブの友人の対話が、それにあたる。
    ヨブのロジックと友人のロジックはあまりに差異があり過ぎているから38章で神権限が起こる。
    神はただただ、ヨブを見ていて沈黙していた、あの時の神の沈黙は、信頼である。
    ホロコーストもユダヤ人に考えさせる為の沈黙と考える。
    そして僕らも神の沈黙を考えなくてはいけない。

                           フランス思想研究者   伊東禮輔

  2. 伊東さんへ
     「外の思考」「大村先生の世界」それぞれ自分のために書いたところがあるのですが、いくつかしっかりとしたレスポンスをいただいています。ご指摘のようにレヴィナスは「外の思考」をし続けた哲学者です。「私には言いたい事がある。」その響きは伝わってきます。その文章を何時か見せてください。
     大村先生の「日本にはモダンがないので、ポストモダンもない」という一言、私も唸らされました。モダンとはあのとぎすまされたような徹底的な自己吟味、プロテスタントの認識論、それは厳しいものです。「外の思考」のフランスの現代思想が今や中心になってきています。
     メールアドレスを早く回復してください。
     祈りつつ。上沼 2011/07/24

  3. 追伸

    上沼先生のブログを伝言板の様に使って申し訳ございません。
    まだ通信システムが不可能な状態なのでお許しください。
    ところで、我が家にはクロード・ランズマンの『ショアー』の完全版コンプリートボックスがあります。
    2時間半の短縮バージョンも存在するらしいですが、私のは9時間半のノーカット版です。
    正直、長いので入手してから三分の一の3時間しか見ていません。
    というか、、、証言される言葉の一つひとつに凄く重要な意味があるので、ノートの書き溜めながら見ている私は中々先に進めなく困ってます。
    あの証言の記録映像は体力がないと、受け止めるだけの感受性に空きがないと厄介なのです。
    ただ単に、悲しみを持って、哀れみを持って見るだけの映像の許容範囲を超えています。
    映像は9時間半ですが、あの映画を身体で受け止めるにはその何十倍もの時間を要するのでしょう。

    現在、逗子披露山に引っ越す計画です。
    以前にお知らせしたあの家も値段が下がり、購入範囲に入りましたが、今度は目と鼻の先に地下書庫のある家を見つけました。
    書庫が30帖ほどもあり蔵書がすべて入るので気に入ってます。
    引っ越ししたら、是非我が家の地下でクロード・ランズマンの『ショアー』をご覧になってください。
    強制収容所を体験したユダヤ人にはたちの悪いジョークですが、ユダヤ人な如く地下に監禁されて見るのも悪くはないでしょう。
    ヨナが魚の腹の中に、イエスが墓の中に、3日いたのですから、上沼先生も9時間半から3日間くらい幽閉されてみてください。
    3日間幽閉されても我が家の蔵書に退屈を覚える事は決してないと自信を持って言えますが、上沼先生を3日監禁したらルイーズさんに怒られそうで、、、、。
    そういう、私は教会に戻されました。導かれてます。
    現在は福音パブテスト派のアメリカ人宣教師ご夫妻の元で楽しく過ごせてます。
    術後の経過はまだ不安定ですが、教会に戻される経緯については長くなるのでここでは書きませんが、主の計画があったと確信してます。
    起こった事すべては偶然にしては出来過ぎてます。多分、奇跡に近いものです。
    牧師の奥様はルイーズさんと同じミッショナリーキッズで、ベイリー牧師はボブ&ヴァージニア・トラヴィスと同じヴァイオラ大学の出身です。
    礼拝中、ドリンクを飲むのを許されてますので、スターバックスのモカ・カフェを人数分買ってきては牧師と一緒に飲みながら礼拝しています。
    ヨナ的反抗者の私にもキリスト者の自由が幾分与えられたのでしょう。
    奇跡を起こされた主に感謝しております。

    1. 伊東さん
      教会に導かれていること、感謝です。
      『ショアー』は是非観たいものです。
      術後の回復が順調であることを願います。
      この秋にお会いできれば幸いです。
      祈りつつ。
      上沼 2011/07/28

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