「パウロのユダヤ性」2011年9月1日(木)

 ユダヤ人であるパウロのユダヤ性というのは変なことですが、それでも何かこのことを全くというか長い間無視してきたような思いをしています。パウロを捉えるこちら側の視点で書かれたパウロ像があって、それがパウロであるかのように思っていたのだと思います。こちら側というのは大まかには2千年の西洋の視点で、そこで描かれたパウロを受け継いでいるだけのように思えてきたのです。パウロのユダヤ性・ヘブライ性はきれいに落とされて、いわゆるギリシャ性・ヘレニズム性だけが無理に取り付けられているだけかも知れないのです。

 レヴィナスというユダヤ人哲学者の『全体性と無限』(岩波文庫)の本論の初めがアブラハムの約束の地への旅立ちであり、その終わりがメシア待望であることに、ユダヤ性の哲学性を見せられました。以来、パウル・シェラーン、エドモン・ジャベツ、ジャック・デリダのものを読み、さらにマラーノのことを知り、その関係の本を読んできました。西洋をユダヤ性から読み直すことの可能性というか、必要性を知らされます。まさに影の歴史、敗者の歴史、流浪の歴史と言えるのかも知れません。キリスト教を基にした光の歴史、勝者の歴史、定着の歴史ではないのです。

 聖書をその通りに読んでいればそのようには取れないのですが、イエスを十字架にかけたのはユダヤ人であるという理由で、キリスト教会からのユダヤ人迫害の始まり、十字軍によるユダヤ人圧迫、15世紀にカトリック教会によるマラーノへの異端審問と火刑、ルターの「ユダヤ人と彼らの嘘」という文章、さらにその文章がヒットラーに用いられたと言うこと、ホロコースト下での教会の無為性と続いています。歴史は勝者の側でしか書かれなのですが、今ようやく長く闇に隠れていたものが顔を出してきているようです。

 パウロのユダヤ性を前面に取り上げてみたらどのように読めるのだろうかと思いながら、妻とローマ人への手紙を読んでいます。ローマにいる人びとと言っているのですが、ユダヤ人を初めギリシャ人にもと繰り返しています。ユダヤ人だけに当てられているようでありながら、ユダヤ人のかたくなさと罪深さを遠慮なく暴き、律法と割礼の大切さを言っていながら、それを越えて信仰による義を説いています。そこにはユダヤ人であるがゆえに見えてくるものがあるようです。ユダヤ性のゆえに、メシアであるキリストの意味づけが浮かび上がってくるようです。決してユダヤ人として受けたものを切り捨ててはいないのです。むしろその実現、成就としてみています。

 ルターによって律法と福音という二元的な見方が強くなって、律法に関わることをすべて否定してしまうのと同時にパウロのユダヤ性も切り捨てているのでしょうか。それが西洋の歴史観の根幹にもなっているというのは言い過ぎなのでしょうか。もしそのような歴史観で聖書を捉えているとするならば、どんなに聖書的と言っても、型にはめられた聖書観と言えないでしょうか。そのような問いを持って新約聖書を読み直しているのが、イギリスの新約学者であるN.T.ライトと言えるのでしょうか。

 パウロのユダヤ性とは、それでも簡単にユダヤ人の回復とか、イスラエル国家の回復とかには結びつかない、もっと大きな歴史観を感じます。唯一神と、選びの思想と、律法と、メシア待望と、計り知れない豊かな信仰と思想の民の歩みのなかで、キリスト者を迫害しているときにダマスコで出会った復活のキリストとのことを、アラビヤに退いて3年間思い巡らしていたパウロの息づかいがあります。ガイドブックがあって理解したのでも、牧師や神学校の先生がいて教えられたのでもなく、ユダヤ人であり、律法学者である知識を総動員して、あの復活の主を受け入れ、捉え直す作業を必死の思いでしていたのではないでしょうか。その息づかいに触れたくなります。そんな息づかいをパウロの手紙を読みながら少しでも感じたら、今までとは多少異なった聖書の世界が開けてきそうです。

上沼昌雄記

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“「パウロのユダヤ性」2011年9月1日(木)” への 4 件のフィードバック

  1. 『パウロのユダヤ性』を読ませていただきました。
    パウロが必死でユダヤ人である自分、律法を重んじてきた自分でありながら、福音に向き合う、ユダヤ人であること、ユダヤ人を愛していることを否定せずに、それでもユダヤ人の罪に向き合いながら、うめくように格闘している姿を思い浮かべます。

    少しローマ章を開きました。
    「わたしには大きな悲しみがあり、わたしの心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞
    肉による同国人のために、このわたしがキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」ローマ9 2~3

    こころが切り裂かれるような同胞愛がにじみ出ています。

    この夏、突然
    なくなった母の初盆が九州・福岡の実家でありました。
    うめくように祈り続けた母の救いでしたが、現実は実に厳しく当時は
    泣き崩れました。
    母の命日は2月18日でしたが一ヶ月もしないうちに、あの大震災がおきました。

    母が亡くなったことで母が生きた戦中戦後の家族の歴史をたどることとなりました。
    父と一ヶ月近く夏を過ごすことで、父の生きた家族の歴史も肉声で聞くことができました。家族の歴史は日本の歴史であり、日本の罪の歴史であり、日本の傷の歴史です。言葉で言い表していくことも困難な傷があります。
    そんな家族の歴史をたどることで、自分の心の中にうずくまっていた両親への反抗のこころ、憎しみのこころに向き合い、向き合うことでゆっくりと光がさしてきました。

    両親を赦す、その両親も赦す、近代の日本の時代を赦す、その中で赦しがたい
    罪に向き合いながら、自分もその罪を繰り返してしまう者として、自分をとりなしながら、新しく家族を創造していく、神様に助けられながら家族をつくっていく、地域を創っていく、日本を創っていく、立て続けに起こる災害で傷つき、なき悲しんでいる日本をとりなしていく‥そんなことを思いました。
    これで終わりではなく死ぬまで続く作業だと思います。

    パウロのうめきは私のうめき
    そんなことを思って、上沼先生御夫妻のローマ章の旅に思いをはせています

    吉川恭子

    1. 吉川恭子さん
      吉川さんがご自分の日本性に向き合っているのが分かります。自分自身の日本性を思うと、限りなくグレイになります。私たちは自分の日本性に向き合いながら聖書に向かい続けていくだけなのでしょう。そうすると、私のうめきがパウロのうめきとなって返ってくるような気がします。
      続いてお元気でいてください。
      上沼昌雄

  2. 「Mikuni Kaizen」 と「村上春樹、また」のブログを楽しく読ませて頂きました。
    荒井先生とその周囲に主の導きがありご発展されたのでしょう、祝福されてきた実感が書面上から伝わります。
     
    そして私は、、、、、。

    何時から、こんな話しが教会内で出てきたのかは忘れてしまいましたが、僕の通う教会ではいま、湘南逗子に新たな教会を建立し移転する話しで持ち切りであります。
    とんでもない、ぶっ飛んだ話しを持ち込んだ当事者は私であって購入予定の披露山の家の下見に訪れて、不動産会社の担当が希少価値の高い海沿いの土地を提示してきた事に端を発し
    た。
    そもそも今通う教会は開拓伝道で本家とは分離した存在なので、会員数は牧師夫妻と、兄弟親子(母親、息子夫婦に子供が2人)で礼拝に来ない人数名で成り立っている。
    基本的に僕を含め、通常は8名のサイズ。
    逗子に移り住む少しの期間でも礼拝して正餐の義にあやかりたく訪れた。
    本家の教会では牧師の兄弟が逗子に居る事をふまえ湘南での開拓伝道への少しの希望があった。
    教会の賃貸契約の問題など、雑談の中で話しが膨らみ現実味をおびてくる。
    そしてある日突然、理想な土地が急遽目の前に現れる。
    土地のロケーションは最高で、270度海に囲まれている。
    画像を提示できないのですが、バイザシーでオープンな土地。
    画像を見ただけで、誰もがうらやむ環境である事は変わりない。
    その230坪の土地に180度全面ガラス張りの教会を建てる計画を実行しようと画策している。
    湘南逗子の134号線を車で、鎌倉方面に移動した人は多分知っているでしょう、以前、湘南名物のイエロー・サブマリン・サンドウイッチの2階建てバスがあった場所です。
    そこに本気で教会を建立する気でいるのです。
    現在、不動産屋を通してのオファーが我ら他に2件あり値段で競り合ってます。
    それで、今後の教会運営及び運営資金を確保する為に、1階をスターバックスの店舗に貸し出し、2階の吹き抜けまで教会にするかをスターバックスの日本法人社長角田氏を交え交渉にあたる準備を進めています。アメリカ本土のスターバックスの社長はクリスチャンであるからしてこの計画に同意してくれると半ば確信している。
    アメリカのスターバックスは店舗内でボブ・デイランを初めとする多くのミュージシャンの未発表限定CDも販売しているからその柔軟性を利用して本を置き、世界初のスターバックス・ブックカフェをオープンできるのではないかと構想を練っています。
    当然、来日された上沼先生にもゲスト牧師として説教を頼むつもりでありカフェモカ飲み放題をお約束します。
    これがプランAで、海岸沿いの土地が値段的な問題で折り合いがつかない場合、すぐ側に売りに出ているかなり規模の大きいデザイナーハウスを教会組織に献物して牧師の住居兼教会にする予定でいます。プランはCまであり臨機応変に神の計画に従事する所存です。

    教会の外にはサーフボードを立てかけるストッカーを設置して、シャワーブースもある作りで、海から上がってきたサーファーが外で説教を聞けるようにベンチを設ける設計を建築家と話し合っています。要するに、湘南でのサーファー的伝道とカフェ文化の融合的な教会建立もしくはビーチカルチャーへの聖書を持った参入という新しい試み。
    資金調達と教会のデザインは私の担当。それに牧師のサポートも担当してサーフィンの指導も受け持つ。
    教会の運営と維持管理は同じ教会に通う兄弟が担当にあたり牧師、兄弟、そして私の三者三つどもえな体制固持で計画遂行。
    荒井先生の様に主の導きがあらん事を願うのですが、正直「なんでこうなるの?」と神の計画にいささか驚きを隠せないのであります。
    主の計画がある事は、色々な面から見ても事実と思わざるを得なくてトントン拍子に話しは進んで行くのは、精霊の動きが活発化しているからなのでしょう。
    牧師、兄弟共々感じています。諸問題は沢山あり、現在の宣教牧師を今の教会からどう移動させるか?
    宣教団の反対があれば、場合によっては宣教師を独立させる方向にも考えているのです。

    今の教会はビルの2階にあってデスクワークなスタイルで礼拝を行なっています。
    ドリンクが自由なので、スターバックスのカップが数個デスクに散りばりコスコで買ってきたタコスチップスを食べながら聖書研究を行なっているというお固く神聖を重視する教会からみたら不謹慎極まりない勉強会。
    牧師のベイリー先生は最近、息子ベンジー君からのプレゼントで村上春樹の英訳版『What I Take About When I Take About Running 』を読んで、春樹氏がクリスチャンだと信じて疑わない変な外人です。アメリカ人が村上春樹を読むと、どうも村上春樹はクリスチャンに見えるのでしょう?
    過去、ピーターキャットの主人と接してきた私には、正直どうも不思議な狭間に置かれているのです。
    村上春樹がクリスチャンでないことは修正して、現在ベイリー牧師を礼拝以外でセッションを重ね村上春樹を教えてます。
    今度東大駒場の教室で行なわれる村上春樹についてのデイスカッションに双方で参加して村上春樹中毒のする予定でもあります。
    牧師の妻ジュディーはゴシップマガジン『People』の熱心な愛読者であり、MKのくせして少女時代に堅苦しい親の信仰に逆らいカトリック教会に通った経歴を持つ強者。
    ありがちな牧師の妻と言うものでは計りきれない自由な大胆さがあります。
    そんなワタシは礼拝前にジェラルド・クラーク版の『カポーティ』とジジェクが書いたヘーゲルVsドウルーズ理論『身体なき器官』を読んで背後からヘーゲル的オカマを掘るという文章に感化されながら新たな研究心に熱をあげているという始末!
    今度、上沼先生にお会いした時に、このジジェクの『身体なき器官』の哲学構想をお話しします。
    正直、ぶっ飛んでます。
    大村教授が専門とされているヘーゲルとワタシの専門であるドウルーズを駆使してドウルーズのオカマをヘーゲル的に掘るとの解釈は正直アヴァンギャルドの極みです。
    教会教義主義な、もしくは頭の固い牧師じゃ100年かかっても理解も解釈も出来ないという柔軟で複雑なもので、文中に登場する多くの思想家やデイヴィッド・リンチの映画『マルホーランドドライヴ』からの引用、もしくはドウルーズの書いたヒッチコック理論(アルフレッド・ヒッチコックが英国教会の聖書解釈から引用した映画『めまい』でドウルーズなりの多くが私を哲学的”めまい”に誘ってくれてます。この著書があることを私は知りませんでした、新たな発見、その1)
    それで、お固い連中など放置して先に進む事になりました。
    現在翻訳中のレヴィナスの未完成の原稿を日本語に置き換える作業はあと2年を要します。

    そして牧師家族と、兄弟の一家族はこの計画に対し乗り気で湘南移住を真剣に考えてくれていて打ち解けるのにさほど時間は掛かりませんでした。
    牧師の頭の柔らかさ、教会の柔軟性、信徒の積極的な行動、主のわけのわからん計画が今の僕を殺さずに生かせてくれているように感じているのです。
    以前、通っていたナチの強制収容所みたいな、すぐに人を断罪して恩義せがましい教会とは段違いで楽しいのであります。
    今回、ユダヤ性について書いておられますが、非常に重要かつ、日本人には難しい理解なのでしょう。
    上沼先生の『ユダヤ性』という文章を読んでいて僕が過去にポール・オースターの『空腹の技法』を通し、沢山のユダヤ人作家からホロコーストを研究しハンナ・アレーントで学び視界が広がってユダヤ性にすんなり入って行けた事はそう考えると示唆だったのかもしれません。
    今はスラヴィオ・ジジェクの『身体なき器官』を読んで尚更アヴァンギャルドな方向へと導かれております。
    ベイリー牧師がヴァイオラ大学にあてて博士学論文を書き、その傍らでデスクもらい難解なレヴィナスを訳し、コーヒータイムには村上春樹とフランス現代思想を語りユダヤ性に付いて論議するのはまさに僕の望んでいた通りだったのです。
    「主はわかってらっしゃる。」
    僕を知らない方々は何の事か理解に苦しむでしょうが、僕のクリスチャンとしての過酷な経緯を知っている上沼先生はこれが主の計画の一部だと理解できるでしょう。
    苦難と試練はこの為にあったのかもしれません。
    聖書研究を始め、普通の教会ではしない教えないユダヤ性等、僕専門の現代フランス思想と多くの文学者、哲学者らの書物を開示できる教会建立を目指す所存です。
    信徒へユダヤ性を理解して頂く為にランズマンの『ショアー』の上映会も行いたいとしております。
    柔軟かつアヴァンギャルドな教会でありたいと考えています。
    今度、日本にルイーズさんとお越し下さい、海が望める寝室と沢山の書物と川端康成が愛した鎌倉名物の”ひろみ”のおいしい天婦羅をごちそういたします。

    で、かのオスカー・ワイルドは言った。
    「野心は失敗の元である。」
    それに添いて、僕らは教会建立に野心を入れない事としたのです。
    大きな教会でない、沢山の信徒でご満悦じゃない教会教義主義的な律法を押し付けないフリースタイルな教会にしてカフェモカを海を見ながらがぶ飲みしたいとするのであります。
    ベイリー宣教師と同意して下さる兄弟で、お固くない教会を与えられた事は神に感謝ですが、いったい主は何をさせたいのでしょう?
    モーセみたいな威厳もなけりゃ、神聖も持ち合わせてない私に何をさせたいのかは知りませんが、教会建立なんて大それたことは不向きなのですが、”やれ!”といっている様に動かされている毎日です。

    果たしてこの計画に神がどのようにして下さるのかは、神のみぞ知るところなのですが、これを読んだ多くのクリスチャンが幸運を祈ってくれることを望んでおります。
    さてどうなることやら、、。嘘のような本当の話しでした。

    フランス現代思想研究者  伊東禮輔

    1. 伊東禮輔さん
      お元気そうで感謝です。夢のような話ですが深い導きのうちに進んでいるようで、祈りつつ様子を伺っています。何時かまたお会いできることを願います。まもなく日本です。
      祈りつつ。上沼 2011/09/20

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