「ア・プリオリとしての啓示」2011年10月28日(金)

6週間の日本の旅の中間点で故郷前橋に立ち寄りました。前橋在住でかつて大村晴雄先生のゼミにご一緒させていただいた元群馬大学教授の小泉一太郎氏と一昨日、宇都宮に101歳になられた大村先生をお訪ねしました。5月にお会いしてから骨折をされ、寝たきりと言うことで心配をしていましたが、顔つやも良く、食欲もあるということで安心をしました。ベットを45度ぐらいに起こして対応してくださいました。

すでに目は見えないのですが、耳元でしっかりと話せば通じます。お話しも注意して聞けば聞き届けられます。イラク戦争に行った息子のことを覚えていてくださったり、日本ではどこまで行くのかと聞いてくださったり、友人で一度先生を訪ねた方のことを尋ねてくださったり、小泉氏の奥様の手製のおまんじゅうを美味しそうに召し上がったり、その様子はいつもとは変わらないものです。

ひとまず話が終わって、大変興味があったので、大村先生に聞いてみました。毎日ベットにいて退屈しないですかと。にこりと笑って、ヘルパーさんによく聞かれるが、退屈しないというのです。昔勉強して覚えている文章を思い出して、そこのことを思い巡らしていると、新しい発見をするというのです。いまは「ア・プリオリ」のことを考えているとうれしそうに言います。考えることが仕事だからと当然のように付け加えます。

それはカントのいうア・プリオリのことでしょうかと伺いましたら、おもむろに「上沼君、それはヨハネ福音書のはじめの<初めにことばありき>に結びつくのかね」と、真顔で聞いてこられました。一瞬返答に困ったのですが、「先生はそのように考えられているのですか」と聞きましたら、「そのように考えている」と言う返事でした。

ア・プリオリ、経験する前にすでに与えられているもの、哲学者を悩ますテーマ、しかしよく考えてみるとすでに経験する前に所与として与えられているもので人も世界も成り立っていること、あまりに当たり前で見逃しているもの、それゆえに哲学者が見逃さないで考えている課題、そんなテーマをベットに横になりながら思い巡らして、退屈することはないという大村先生の姿勢にただ圧倒されるだけです。

そのア・プリオリをヨハネ福音書のはじめの「ことば」に結びつけてみる大村先生の研ぎ澄まされた信仰を感じます。代々の哲学者が考え抜いたア・プリオリは、すでにことばであるキリストのうちに、キリストを通して所与として与えられているという、信仰の卓越性です。理性とは隔絶しているようで、理性を生かす信仰の超越的先行性です。もう一度目が見えるようになって、いままでしてきた聖書研究会をしたいと言われます。イザヤ書を数年来学んでおられます。

ア・プリオリと言われて、カントのことですかと伺ったのですが、大村先生はキリストを通しての神の啓示の世界を観ているのです。それは先生も含めて誰もが考えついたものではなくて、ただ神から与えられたものです。信仰と経験以前に与えられているものです。私たちの向こうにあって神が示された奥義の啓示です。まさにア・プリオリとしての啓示に大村先生は思いを向けています。厳粛なことです。

いつものようにお祈りをさせていただきました。その終わりに大村先生は「アーメン、アーメン」と声を振り絞って鳴り響くように神に語りかけました。信仰者としての最大限の応答をされました。その響きは天に届き、心にしっかりと染み込んでいます。

上沼昌雄記

「お寺に掲げられている十字架」2011年10月18日(火)

 2年ほど前に最上川沿いで、温泉に入って地元の農民作家の方と昼食していたときに、この最上川沿いでキリシタン宣教師が迫害のなかを逃げて酒田に下り、日本海を通って、北海道に入り、さらに樺太を通って、シベリヤ経由で本国に帰った話をしてくれました。佐野原というところにそのキリシタンの史跡があるというのです。日本への宣教師家族と結婚した個人的な理由もあって興味を注がれました。戦後の昭和27年にバチカンから米沢の教会に地名などの問い合わせがあって分かったというのです。

 それでこの5月にはその米沢の教会を訪ね、神父さんに問い合わせたのですが、一度火災にあって資料もなく、そのことについては聞いたこともないという、多少素っ気ない返事でした。米沢の市立図書館の担当者も親切に調べてくれましたが、そのことを記している真壁仁という山形の詩人の記述以外に、その元を確認することができませんでした。蔵王の山形芸工大学に真壁仁研究会というのがあって、問い合わせたのですが、真壁仁がどこでそのことを知ったのか分かりませんと言うことでした。

 先週末から最上川の隠れ家の周りで展開している活動の一つとして、土曜の夜の男性集会、日曜の教会での礼拝に、この農民作家と彼を紹介してくれた東京のフリーランス・ライターの方が一緒に参加してくださいました。そしてこの農民作家の配慮で昨日、佐野原のキリシタン跡を訪ねることになりました。この白鷹町の郷土史研究家が十字架に見える灯籠や、切支丹処刑後と言われる供養塔や、切支丹屋敷跡を見せてくださいました。それらはしかし、伝承として言い伝えられているだけで物的な証拠はないのです。

 最後に切支丹が宗門改めをした文章が掲げられているという真言宗の称名寺というお寺に連れて行ってくれました。すでに住職さんと連絡が付いているようで、自由に観てくださいということでした。その文章の起請文がそのまま掲げられていましたが、その脇に10センチほどの海外で鋳造されたという十字架が掲げられていました。頭部には「ナザレの町で生まれたユダヤの王イエス Iesus Nazareus Rex Iudaeorum」の頭文字 INRI が記されています。お寺に掲げられている十字架です。紛れもない物的証拠です。しかも称名寺の案内書にはその十字架の写真が掲げられているのです。フリーランス・ライターの方は前日の夜に一緒に読んだロマ書10章18節の「その声は全地に響き渡り」そのままだと感激していました。

 そしてこの住職さんの説明に真壁仁が言っていることと同じ、宣教師が逃げて、戦後にバチカンから米沢の教会に問い合わせがあって分かったということがあって、それはどのようにして分かったのでしょうかとお伺いしましたら、ここでは何ですからといわれて、居間に招いてくださいました。話を総合すると前の住職さんの時に、真壁仁が訪ねてきてその話を聞いていたようです。前の住職さんはすでに亡くなられていて、それ以上分からないのですが、多分地元ではその話は確かなこととして伝わっていたのでしょう。

 一度は行き詰まってしまったことなのですが、地元に伺ってその話の事実性に感触として近づいた感じがしています。農民作家とフリーランス・ライターの方が知恵を出してくださり、その昭和27年の山形新聞とその宣教師のイエズス会本部とバチカン大使館に当たってみようとなりました。どうなるか分からないのですが、400年前にただ宣教師が迫害を逃れて信じられない逃避行をしてバチカンまで戻ったということに、少しでも近づくことができればと願っているのです。そんな歴史がこの日本で確かに起こったこととして確認したいのです。それだけなのですが、それは自分のなかの何かの存在証明を証したいからなのだろうと思います。

上沼昌雄記

「私は結婚して以来怒っていました」2011年10月10日(月)

過ぎる水曜日に雨の成田に降り立ちました。夕闇迫る東京を経由して、そのまま雨上がりの大阪にたどり着きました。新大阪まで車で出迎えてくださり、大阪の隠れ家にしてくださいという友人宅に夜遅く入りました。もったいないほどの広々とした寝室で旅の荷をほどきました。

次の朝時差ぼけがありながらも、晴れ上がった秋の空のなかを新幹線で名古屋に出て、そこから中央線の特急で二駅の多治見を経由して、ローカル線で岐阜の可児に降り立ちました。駅で日向ぼっこをしながら可児黙想の家の主の来るのを待っていました。あの垣根の脇のコスモスに出会えるのを楽しみにしていました。垣根の向こうの空き地に到着したときにすでに二組の牧師夫婦が来ていました。その車の先に気持ちよさそうに風に揺れているコスモスが待っていてくれました。ここに心を置いてゆっくりしてくださいと言っているようです。

四組の牧師ご夫妻と、牧会上のことでも教会のことでもなくて、夫婦としてただ自分たちのことを語り合い、それを皆で分かち合う、それだけをしました。前日の雨が嘘のように晴れ上がった秋空の下で、手入れの届いたお庭と、黙想の家を提供してくださった牧師ご夫妻の心のこもったおもてなしで、それぞれ心がゆるめられたようで、隠すことなく真実の分かち合いが出てきました。牧会上のこと、人のこと、それは結構良く話をしているのですが、自分たちのことは避けているのです。いつも妻に言われます。四組の牧師夫婦たちも似たような課題を抱えています。

教会員の話は聞いていても、妻の話は聞いていないのです。妻も話すことをあきらめていることもあるのです。それ以上に本心を話すことを互いに恐れています。何が出てくるのか分からないからです。出てきたら責任をとらないと行けないのです。厳しいことです。しかしそれは神とのかかわり、祈りにも通じています。

9名が膝をつき合わせながら、これ以上ないと言うほどの新鮮な刺身で巻き寿司をいただきました。行き届いた黙想の家の牧師ご夫妻の配慮と犠牲にただ頭が下がる思いです。それを使命としっかりと受け止めておられます。夕食の片付けを奥様たちがしている間、男性だけが残されてしまった状況もあって、自然に畳の部屋に移動して男性集会となりました。片付けを終わったご婦人たちも自然に2階にあがられて女性集会となったようです。

翌日の午前は分かち合ってくださった夫婦にどんな質問もして良いという時を持ちました。コメントは一切しないで質問だけです。質問をするほうも似た思いや経験がありますので、遠慮なしに深みに入っていきます。真実の吐露を経験することになりました。昼食後、栗拾いをしてそれぞれ帰路につきました。このご夫妻と名古屋市内の東海神学塾に伺い、チャペルの奉仕をさせていただきました。そしてそのままこのご夫妻の教会に戻ってその晩も泊めていただきました。

次の日の朝、祈りが終わって朝食をいただくときに、すでに10年近く前このご夫妻との交わりが再開した初めの頃に、この奥様が「私は結婚して以来怒っていました」と言ったのを覚えていますよねと、おもむろに話し出しました。良く覚えている出来事でした。その前に行かれたセミナーで思いを語るように言われて、出てきた言葉なのです。そのご主人は皆の前で突然そんなことをいわれ、天地が動くほどのショックを受けていました。その時はその理由を奥様もあまり語ることをされませんでした。その背景を何と10年近く経って、語り出したのです。普段はむしろ寡黙な奥様なのですが、語り出すととてもしっかりと語ってくださいます。

その怒りの中身についてはすでにご夫妻の間で解決しています。それは大きな祝福を私たちにももたらしています。その恵みに預かっています。ただその言葉が静まりのセミナーでどうして出てきたのか、その背景を語ってくれたのです。それはご主人も初めて聞くことでした。そのご主人に説明するように、そして私を信頼して、この時とばかりに話してくれたのです。10年ほど前にこのことがお二人の間で出てきて、一時は険悪な状態になりそうなその時の情景を思い出しながら、そしてこちらを信頼してくれて語ってくださったことに、何とも言えない重みを感じます。その重みは、このご夫婦がしっかりと受け止めている、生きていくための責任でもあります。

上沼昌雄記