「聖書的礼拝・聖書的聖書研究?」2011年12月19日(月)

昨日は妻の両親の教会の朝9時の礼拝に出席して後、思うことがあって、一人でチャック・スミスのカルバリーチャペルの11時15分からの第3礼拝に出席しました。どちらも聖書的な礼拝、クリスマスをめざしているのですが、その何とも言えない違いがどこから来ているのか、確認したくなったのです。

その時間になるとチャック・スミスが講壇に立って、歓迎の挨拶をして、最初の賛美を力強くリードして、祈りを導きます。ただこれだけで礼拝が一気にしまります。84歳になる彼の声は力強く、賛美も澄み切って、天に届くようです。そしてメッセージまで自席に退いています。その間の賛美も豪華なもので、一流のミュージシャンの織りなすものですが、決してエンターテイメントではありません。主を讃えるという思いが貫かれています。見事としか言えません。

献金の時に男性ソロで歌われた賛美にはっとさせられました。シカゴの中村佐知さんのブログで、神学モノローグ「パウロの観たクリスマス」を読んで思い出した歌があると言って紹介してくれたのが、Mary, Did You Know…?です。まさにそれが歌われていたのです。調べてネットで聞いていたので、気づいたときに驚かされ、感動しました。このクリスマスの時に、御子が私たちのために苦しみを受けるために生まれたと、マリアと共に告白するのです。

そのまま出てきたチャック・スミスは、実は日曜の夕拝で学び続けているエレミヤ書21章8節の「いのちの道と死の道」を引用して、メッセージのテキストであるヨハネ福音書の10章の「良い牧者」に結びつけて、いのちに至る道を解き明かしていきました。その晩の学びがエレミヤ書21-25章ということで、一昨年秋田の教会でしたエレミヤ書の学びを思い出して、何とも聞いてみたくなりました。

それで妻を誘って夜7時からの聖書研究に参加しました。2000席以上ある会堂の3分の1近くの出席者です。その聖書研究は、何と短いコメントを挟んで21章から25章までをチャック・スミス自身が読んでいくだけと言えば言える、それだけの学びです。一言ももれなく全部読むのです。所々で説明を入れるのです。単調になってしまうのではと思うのですが、聖書朗読も説明もチャック・スミスは何とも楽しそうにしているのです。その語調は変わらないのです。ただ読んでいるのではなく、それ自体がメッセージになっています。5つの章全部を、説明を加えながら1時間かけて読むのです。周りを見回してみると、会衆はまさにエレミヤ書の真ん中に導かれているようです。

帰りの車の中で妻と話しながら、互いに不思議な感覚に包まれていました。そのエレミヤ書の5つの章の流れが生き生きと残っているのです。それでいて新しい発見があるのです。チャック・スミスの説明はその記憶を助けてくれます。楽しそうに説明し読んでいる彼の声がいつまでも心に残っています。チャック・スミスはただ、創世記から黙示録までをこのように今に至るまで何度も繰り返しているだけです。彼の聖書理解には全面的に納得できないものがありますが、そんなことを越えて神を讃え、みことばに耳を傾ける豊かな時をいただきました。

上沼昌雄記

「パウロの観たクリスマス」2011年12月15日(木)

神学モノローグ

両親の住まいから数ブロック離れた街路樹に、数年前から、この時期になるとイルミネーションが取り付けられて、家々のクリスマス・デコレーションとあわせて、このシーズンの雰囲気をもり立てている。その範囲が年々広がってきて両親の家の近くの街路樹にも取り付けられ、窓からも見えるようになった。そんなことが地元の新聞に報道されて、毎晩のように見物人が訪れている。教会では先週の土曜の夜に2時間近いクリスマス・コンサートを催していた。正装した聖歌隊に、近くのカレッジの合唱団も加わって、聞き慣れた降誕祭の曲を見事に歌い上げていた。

年をとったためにへそ曲がりになったのか、元々そうなのか、ともかくパウロのユダヤ性を考えるようになって、はて、あのパウロがこのクリスマスを観たとしたらどんな思いになっただろうかと、そんな問いかけが繰り返し出てきた。確かにルカ福音書に書かれているように、御子の誕生を喜ぶことは聖書の示しているとおりである。その降誕祭が西洋のキリスト教会で大きな意味をもってきた。まったく同じようにパウロも理解していたと勝手に思ってしまう。果たしてそうなのだろうかと考えてしまう。

パウロのキリスト理解の枠はローマ書の初めに良く出ている。「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、、、公に神の御子として示された方」(1章4節)、これが福音であるという。この枠はピリピ書の2章のいわゆる「キリストの謙卑」と言われるところでも明確に表されている。キリストは、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、、、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われた」(7,8節)こと、それに報いるように「神は、キリストを高く上げて」(9節)くださった。

すなわち、受肉と十字架と復活がしっかりと結びついている。切り離されていない。降誕節だけが突出してはない。しかも、復活で神の子として公に示されたというのは、パウロ自身の体験にも深く結びついている。その始まりがダビデの子孫として生まれキリストである。まさにユダヤ人であることに根付いている。自分と同じ民である。そのキリストが復活を通すことで神のこと公に示された。この受肉と復活、その中に十字架をみるという枠がパウロの中でいつも生きている。

この枠がしっかりとしているので、その先を引き延ばして、そのキリストがピリピ書では「神のみ姿にあられる方」(2章6節)と言い、コロサイ書では、「万物は御子にあって造られた」(1章16節)とまで言い、1コリント15章では、いわゆる第二のアダムとして捉えている。すなわち、ダビデの子孫として生まれ方が、第二のアダムとして遣わされたと観ていく。 第一のアダムのゆえになしえなかったことを神はご自分の御子を通してなされたと捉える。 ローマ書8章3節のパウロの受肉論の神髄である。 何とも強靱な思考である。

同じことがコロサイ書でも繰り返されている。「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」(1章22節)パウロにおいて受肉と十字架はすぐそばである。すなわち、ダビデの子孫として生まれたキリストは、私たちのために十字架にかかるためであった。十字架の死を受肉のすぐ向こうに見ている。それゆえに、受肉はなんと言っても厳粛なことである。

取りも直さず、受肉はまさに自分の罪のためである。自分の罪であり、全人類の罪である。私たちの身代わりとなるために生まれたのである。その意味では、御子の誕生は喜んでいられない悲壮なものである。十字架をすぐそこに見ているので降誕だけを切り離して喜んでいるわけに行かない。しかし、その十字架の死の向こうに勝利を観ている。そこで初めて受肉の目的が完成する。喜びをようやく覚える。

2千年の西洋の教会で捉えられてきたものが主導になって、その上で聖書を見ていく。それが聖書のすべてだと思ってしまう。避けられないと言えば避けられない。それでも、そうでない面がある。教会があまりにも西洋的な思考に動かされてきたためなのではないだろうか。聖書のなかのユダヤ的な面を真剣に捉えたら見落としてきたものが多くあることに気づく。街路樹に輝くクリスマス・イルミネーションを観て、教会のクリスマス・コンサートの場に居合わせて、パウロは居心地の悪さを感じていた。

上沼昌雄記

「踏みつけられている妻について」2011年12月9日(金)

11月29日付の「足蹴にされている/踏みつけられている」の記事に関して、踏みつけられていると訴えられている夫から以下の文章をいただきました。如何様にでも使ってくださいと言うことですので、ほとんどそのまま掲載いたします。 <私自身は未だに「踏みつけている」ことの内容を充分に理解できません。特に言動においては「そんなひどいことを言ったけ?」という感じです。「それが踏みつけている証拠!」と言われそうですが。 ただ、ずっと「彼女の人生って、いったい何なのだろうか。」と考え続けています。特にふたりだけの生活になってから、それを強く意識するようになりました。彼女は私から見て、多くの才能を持っていると思います。文章も話術も私よりは秀でています。加えて、病弱であったことで身につけた独特の処生観があります。死の崖っぷちを経験したことで、不思議な度胸も持ち合わせています。「私の妻であることに終わらず、何か彼女なりの生き方ができれば。」と思ってきました。「君独自のミニストリーを見つけたらいいよ。」と言ったこともあります。 しかし、彼女は「あなたのミニストリーを離れては、自分のミニストリーを考えることができない。」と言います。そして、私は日を追うにつれてそのことが深く心に入って来るようになりました。「夫の妻」「牧師の妻」であるよりも「自分自身」でありたいと思いつつ、それらは分かちがたく彼女の生活に入り込んでいる。そして、妻は夫の「自分探し」にずっと振り回されて行く。「彼女の人格」と言った時に、そのことが深く関係しているように思います。>  そしてしばらくして次のような体験を記してくれました。 <さて、あれ以来「踏みつけられている妻」について、色々考えています。そこで、あらためて彼女に「どんな時に、踏みつけられているって感じるの?」と聞いてみました。彼女の挙げた例は次のようなものでした。 「私がCDを聴きながら夕食の準備をしている。そこに、あなたが『ただいま』と帰って来て、テレビをつける。すると私は『ああ、テレビが見たいんだな』と思い、黙ってCDのスイッチを切る。別にどうしても聴きたいわけではないから、それで少しも構わない。でも、よく考えてみると、私がCDを聴いていることに気づいて、『テレビ、つけてもいい?』という一言があってもいいんじゃない。それなら、『どうぞ、どうぞ!』って、もっと気持ちよくスイッチが切れるはずなのに。怒ってるわけじゃないし、自分でも『どうでもよいこと』と思うけれど、そんな時、やっぱりどこかで『私』の存在が無視されているような気がするの。」 こう言われて、私も少し分かったような気がします。粗暴な言動に傷ついているわけでもないし、先日ちょっと申し上げた「彼女自身のミニストリー、生き方」というような大問題でもなく、日常の、男性が気づかないで終わっている些細な事柄が心に引っ掛かっているのかもしれません。そして、その「些細」な事柄も、どこかで「彼女の生き方」に深く結びついているのかもしれません。 昨日も一緒に出かけました。結構あたたかな午後でした。途中で銀行に立ち寄り、彼女は車の中で私を待つことになりました。車内が充分暖まっているようでしたので、私は「無意識」にエンジンを切り外に出ました。出てしまった後で、「ああ、これか!」と思ったのです。こんな時に、「エンジン、切っておいてもいい?」と一言聞けばいいんだよな。そう思いつつも、あえて車に戻って確かめようとはしませんでした。どうやら、これからも「あなたは私を踏みつけている!」と言われ続けるような気がします。> 上沼昌雄・責任編集

「最近ようやく自縛から解放されました」2011年12月5日(月)

先週久しぶりに荒井先生とみくにローズビル店で会いました。午後1時に到着したのですが、まだ結構な人が食べていました。昼時を会社の仲間と食べている人たちも、商談に使っているような人たちもいました。そのような雰囲気を持っています。ジャパニーズ・マフィアとハッピー・ロールをいただき、それに刺身の盛り合わせと天ぷらが付いてきました。

時候の挨拶も日本の奉仕の報告もするまもなく、開口一番に荒井先生が「最近ようやく自縛から解放されました」と言いました。あまりの突然であったので「自縛」というのは、「自分を縛っているもの?」と確認をすることになりました。日本の教会とご自分の属していた団体の規則や教えにずっと縛られてきたというのです。それからようやく解放されてきたというのです。

出鼻をくじかれた感じになりました。日本での奉仕を終えて、その自縛されている状態というか、またそれがもたらす弊害について話をしてみたいと思っていたのです。教会関係者の自死のこと、神学校卒業生の独善的な発言と行為に怒りを思えているという告白、そういう人たちが一番内面の問題を抱え込んでいるという指摘、自己充足的な説教と牧会に驚いたこと、と結構な意見を聞くことになりました。以前は思っていてもそれほど外には出なかったことが、ここに来て破れができて、出てきているかのようです。

このことはしかし、自分のなかでの自縛にもなっています。教えられたようにしなければ仲間はずれになるようなことに恐れを覚えていたのです。教えられたことが正しいようであっても、そのままでは自分たちの首を絞めることが分かっていても、そしてそれを指摘していても、自分自身がなかなかそこから抜け出せないでいるのです。荒井先生が「最近ようやく」と言われたので、さらに確認をすることにもなりました。私より数年先にアメリカに来ているのですが、やはり最近になってと言うのです。それで私もまだ縛られているような気がしますと伝えました。

このようにそれぞれ別々にアメリカに導かれて、このように知り合うことになったのも不思議ですねという話から、もしそのまま日本にいたらどうなったでしょうねと言う話なりました。我慢してやっていたでしょうねとなりました。どの社会でもどの教会でもどのような集まりでも、そこにお互いを縛り付けるものが出てきます。遠藤周作の『沈黙』で取り扱われているような、信仰を根無し草にしてしまうようなどろどろした沼のような雰囲気が支配していきます。呪いのように覆ってきます。

そしてそれは大変な闘いです。御霊による自由を獲得するためには血が流される必要があります。しかしそんな闘いを前に、すでにどろどろした雰囲気に流されて、自分たちの枠を作り、それで人を縛り、自分を縛っていくのです。御霊による自由は肉の思いに反するものです。肉の思いは、知らないうちにその場の雰囲気と絡まって、重くへばり付いたような空気を作り出してきます。そして抜け出すことができなくなります。

「自分を取り戻すことができました。」会話の最後のほうで荒井先生が言われました。聖書を読むのが楽しくなりました。時には読まないときもあります。それでも読むときはその意味が以前よりはっきり分かるようになりました。聖書以外の本も教会の「読書会」で読むようになりました。牧会も人生も楽しくなりましたと、うれしそうに話していました。

上沼昌雄記

「足蹴にされている/踏みつけられている」2011年11月29日(火)

10月10日付で「私は結婚して以来怒っていました」を書きました。いくつかのレスポンスをいただきました。厳しい、しかし、心温まる夫婦の現実を書いてくださった方がいます。いまの時点ではまだお分かちできないのが残念です。ただその記事が引き金になったようか感じで、別の二組の夫婦の間で、奥様たちがすでに「足蹴にされている」「踏みつけられている」と言うことを、かなりシリアスに、あるいは多少かわいらしく言っていたことを日本にいる間に知ることになりました。このことを書いてみたいと思ったのですが、どのようにまとめたらよいのか戸惑っていました。それでも書いておく必要があるのだろうと思わされていました。

「足蹴にされている」と言われたのは、現実にそこにあることが起こって、奥様がどうにも我慢できなくて、結婚して以来足蹴にされてきたことをシリアスにご主人に伝えたようです。私の到着を持っていたかのようにご主人はその経緯を語ってくれました。隠さないでよく話してくれたと感心をしました。同時に子どもさんたちにもどのように思うかと問い合わせたと言うことです。

と言うほど隠さない、隠せない夫婦というか、家族なのです。今回はいつもとは異なってお嬢さん夫婦も同席している食卓でこの話題が出てきました。奥様は足蹴にされているから足蹴にされていると言っただけだといい、ご主人はそう思われても仕方がないと半分認めているようであり、そんなことは絶対にないと何とか奥様の分かってもらいたいようでもありました。その内容よりも、お嬢さん夫婦がそこにいながらも、私の前でこれほど自由に語り合えていることに驚いたのでした。

このご夫妻のことをよく知っている別の地域の牧師ご夫妻に話をしたら、その牧師が妻は「踏みつけられている」と言っていると、すでにその夫婦の間での確認事項のように言われました。その上で私のいるところで、牧師は奥様に「俺は何を踏みつけているのか」と問いかけるのです。奥様はお笑いなが「踏みつけられているから踏みつけられているの」と禅問答のような答えをしていました。「だってそうだもん」と、はぐらかしているようで、見事にその事実を伝えているのです。

帰りの車の中でその牧師が確認するように、妻は人格が踏みつけられていると言ったと伝えてくれました。先のご主人の時と同じように、そんなことはないという思いが伝わってくるのですが、そうなのかなという自省の思いも伝わってきます。そして互いに確認したのですが、それぞれの奥さんたちもそういっても家事のことで手抜きをしているわけでもなく、夫婦であることを否定しているわけでもないのです。ただそういうことがすでにこの二組の夫婦の間では懸案事項として出てきているのです。

足蹴にされている/踏みつけられている、その内容は異なっているのか同じなのか、それはその二組の夫婦で確認していただければよいのです。またそこには他人には分からない大変なことも含まれています。真剣なことです。ただこの話を聞いて以来、そういうことがすでに夫婦の間で話されていることに、何か思いを越えた新鮮な風が吹いているような感じをいただいてきました。そのように思っている奥さんたちは結構多くいるのかも知れないけれど、決して表には出て来ないで深く沈潜したままで、うずくっているのです。それが表に出ているのは夫婦の自由、それ以上に御霊の自由があるからなのだと思えてきました。

かつてジェームズ・フーストン師が日本からの留学生を観察して、「日本の霊的覚醒は女性の解放から始まる」と言われていたことを思い出します。足蹴にされている/踏みつけられている、そのように言わせてしまう夫のどうにもならない罪深さはあるのですが、同時にそのように奥様たちが自由に言えるようにしているご主人たちも桁違いに偉いものです。そのように思っていても奥様たちは決して出さないのです。出しても大丈夫という状況にはならないのです。それが出てくる、実際に出てきている、それはまさに御霊の自由なのです。大変難しいことです。しかし最も大切なことです。そのように思えてきたらようやく文章に書くことができました。

上沼昌雄記