「最近ようやく自縛から解放されました」2011年12月5日(月)

先週久しぶりに荒井先生とみくにローズビル店で会いました。午後1時に到着したのですが、まだ結構な人が食べていました。昼時を会社の仲間と食べている人たちも、商談に使っているような人たちもいました。そのような雰囲気を持っています。ジャパニーズ・マフィアとハッピー・ロールをいただき、それに刺身の盛り合わせと天ぷらが付いてきました。

時候の挨拶も日本の奉仕の報告もするまもなく、開口一番に荒井先生が「最近ようやく自縛から解放されました」と言いました。あまりの突然であったので「自縛」というのは、「自分を縛っているもの?」と確認をすることになりました。日本の教会とご自分の属していた団体の規則や教えにずっと縛られてきたというのです。それからようやく解放されてきたというのです。

出鼻をくじかれた感じになりました。日本での奉仕を終えて、その自縛されている状態というか、またそれがもたらす弊害について話をしてみたいと思っていたのです。教会関係者の自死のこと、神学校卒業生の独善的な発言と行為に怒りを思えているという告白、そういう人たちが一番内面の問題を抱え込んでいるという指摘、自己充足的な説教と牧会に驚いたこと、と結構な意見を聞くことになりました。以前は思っていてもそれほど外には出なかったことが、ここに来て破れができて、出てきているかのようです。

このことはしかし、自分のなかでの自縛にもなっています。教えられたようにしなければ仲間はずれになるようなことに恐れを覚えていたのです。教えられたことが正しいようであっても、そのままでは自分たちの首を絞めることが分かっていても、そしてそれを指摘していても、自分自身がなかなかそこから抜け出せないでいるのです。荒井先生が「最近ようやく」と言われたので、さらに確認をすることにもなりました。私より数年先にアメリカに来ているのですが、やはり最近になってと言うのです。それで私もまだ縛られているような気がしますと伝えました。

このようにそれぞれ別々にアメリカに導かれて、このように知り合うことになったのも不思議ですねという話から、もしそのまま日本にいたらどうなったでしょうねと言う話なりました。我慢してやっていたでしょうねとなりました。どの社会でもどの教会でもどのような集まりでも、そこにお互いを縛り付けるものが出てきます。遠藤周作の『沈黙』で取り扱われているような、信仰を根無し草にしてしまうようなどろどろした沼のような雰囲気が支配していきます。呪いのように覆ってきます。

そしてそれは大変な闘いです。御霊による自由を獲得するためには血が流される必要があります。しかしそんな闘いを前に、すでにどろどろした雰囲気に流されて、自分たちの枠を作り、それで人を縛り、自分を縛っていくのです。御霊による自由は肉の思いに反するものです。肉の思いは、知らないうちにその場の雰囲気と絡まって、重くへばり付いたような空気を作り出してきます。そして抜け出すことができなくなります。

「自分を取り戻すことができました。」会話の最後のほうで荒井先生が言われました。聖書を読むのが楽しくなりました。時には読まないときもあります。それでも読むときはその意味が以前よりはっきり分かるようになりました。聖書以外の本も教会の「読書会」で読むようになりました。牧会も人生も楽しくなりましたと、うれしそうに話していました。

上沼昌雄記

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