「老いること」2012年1月2日(月)

主にある友へ、新しい年が始まりました。2012年はどのような年になるのでしょうか。神の宮を思いながら共に歩みたく願っています。よろしくお願いいたします。祝福をお祈りいたします。上沼昌雄 2012/01/03

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新しい年の初めにはあまりふさわしいテーマではないのですが、クリスマスに89歳の義父の入院もあり、老いていく親たちの現状に直面させられながら、「老いること」に思いが向いています。誰もがあたら新しい年とともに、年を重ねていきます。90歳近い両親の面倒をしているこちら側も、60代の後半になりかかっています。老いることが友人たちとの共通の話題にもなってきています。

「他者」をその思索の中心に据えているユダヤ人哲学者のレヴィナスが、「老い」をその他者の不可逆的現象として取り上げています。自己の確立を究極の目的にしてきた2千年の西洋の哲学の行く詰まりをホロコーストで経験して、批判的に辿り着いたのが「他者」です。タルムードの学者でもあるレヴィナスにとって、他者の他者のその向こうは神なのですが、その神の創造のすべてのものも「他者」として性格を基本的に持っています。

朝日も夕陽も、風も太陽も、食べ物も飲み物も、この体もこの顔も、皆与えられたものです。自分で獲得したものではありません。西洋のメンタリティーは自分で世界を獲得できるかのような幻想を与えます。またそうすべきかのように教えます。聖書からこれがクリスチャンのあるべき姿と言って、そのあるべき姿を自分で獲得できるかのような幻想を与えます。

レヴィナスは他者性の特徴として時間をもみています。次の瞬間には何が起こるか分からないのが時間です。過去の時間も記憶のなかでは夢のように思いがけないかたちで迫ってきます。シンクロナイズしたものが時間ではなくて、いつも隙間やズレを持って迫ってくるのが時間です。今の延長線上に時間はないのです。今自分がクリスチャンとして獲得したものも時間のなかでは恒久ではないのです。差異と変化が伴っています。時間は避けることのできない、手に負えないのです。意に反して向こうから来るのです。老いることはまさに意に反していることです。

この意に反している老いを、自分中心にみたら、どうしても辛い、悲しいことになります。レヴィナスは逆に、ここに人生そのものが自分のためにあるのではないとみるのです。すなわち、身代わりとしての人生です。老いることは誰かが次を生きるためです。中島みゆきが歌っているように、辿り着けない目標に向かって人生のバトンを次に譲っていくのです。クリスチャンとしてあるべきところに到達して、それを守ることを次の人に求めることではないのです。人生そのものが、いまだ到達できない約束の地を求めているのです。そのための身代わりであり、そのための老いです。

そのようにみてくると旧約聖書で系図が大切にされているのが分かります。約束の地への旅の担い手としての自分なのです。その責任が次に委ねられていることを老いのなかで確認するのです。西洋の個人主義ではこの繋がりがどうしても薄くなります。ユダヤ人クリスチャンであるパウロにとっては、この繋がりはしっかりと保たれています。「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であり」(ロマ書8:17)、「今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

昨年は5人目の孫が与えられました。 自分の信仰形態の継承が目的ではありません。それだけであれば老いることは辛いことです。そうならないことで絶望するだけです。与えられていることは、 神の家族としてのバトンを、どれがどのようなことであっても、主の来臨まで次に委ねていくことです。老いることは自分を放棄することです。自分のための人生でないことを確認することです。この地上のことがすべてでないことを指し示すことです。待ち望む世界が先にあることを確認することです。そう思うと年を取ることも少しは楽しくなりそうです。

上沼昌雄記

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“「老いること」2012年1月2日(月)” への 2 件のフィードバック

  1. 新年があけました。今年はどんな年になるのでしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。

    マスメディアが、大企業の社長か゛2012年がどんな年にしたいか、どんな年になるのかを報じています。

    今までは、もう少しは経済が上向きになるだろうとか、いや不景気がつづくとかそういうことが多かったのです。

    でも今年は「どうなるかわからない」という言葉をいつもより多く聴きました。

    「いまを大切に生きる」そんな空気が漂っています。
    過去を見据えながら今を精一杯生きる雰囲気をありがたいと思っています。

    自衛官の弟とゆっくり話すときが与えられました。
    「おとうさんにお父さんが死んだらこれからどういうふうに
    子どもたちに生きてほしいか
    家やお墓をどうしたいのかを
    書くノートを渡した」といっています。

    父は自然に
    おとなしくそれを受け取ったようです。

    母が突然なくなって残された家族が「死」と言うことに向き合うようになりました。

    わたしはよりいっそういのちが有限であっというまに人生は終わってしまうと感じるようになりました。今日一日を精一杯生きようとする気持ちが少しずつ大きくなりました。

    弟は郷里の福岡で自死遺族の会に参加して、そこで出会った
    人たちの言葉で少し落ち着きをとりもどしているようです。弟の家族の
    雰囲気がやわらかくなっていることに感謝しました。

    死に向き合う中で
    家族一人一人が生きている時間に感謝し
    後の世代に何かいいものを残したいと思うようになっているような気がします。

    母の遺産のような気がしています。

  2. 吉川恭子さん

    それこそどうなるか分かりませんが、それでも神の民として、いのちを引き受け、継承をしていくのが責任なのでしょう。吉川さんご一家の上に豊かな導きをお祈りいたします。

    本年もよろしくお願いいたします。

    上沼 2012/01/09

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