「うーん、教会!!」2012年2月27日(月)

久しぶりにというか、珍しくというか、山の教会の礼拝に2週続けて出席ました。新しい顔ぶれが集っています。というより向こうから見れば、私たちの方が初めての出席者に写るでしょう。そのような新しい顔ぶれが定着し、さらに新しい人を連れて来ているようです。しかし、どのような背景を持たれている人たちなのか知るよしもありません。

教会のある山のなかは、ある部分はサクラメントのベットタウンで、そのような人たちが住んでいます。ある部分はヒッピーの生き残りとか、ベトナム戦争の帰還兵が住んでいると言われます。いずれサンフランシスコ湾に流れ込む二つの支流の分水嶺の上に隔離された感じの町です。皆それぞれ何か曰くがあってこの山の町に住んでいる感じです。人生の大きな傷が大きな自然のなかで静かに癒されることをじっと待っているようです。その過去には触れないで、時間が癒してくれることを待っているかのようです。

牧師夫婦はサンフランシスコ近辺に住んでいます。2時間はかけて毎週説教に来ています。そういう状況であるという上でさらに牧師として招聘したのです。それだけの意味があると、何度か説教を聞くうちに教会員が気づいたのです。今日はガラテヤ書5章から、肉の思いと御霊の思いの相克について語りました。これは自分のことですと前置きして語り出しました。身近な親戚の人たちに対しての肉の思いに支配されていると言うのです。教会内にも人間関係でぎくしゃくすることがあるようなのですが、自分の葛藤として、自分に対する試練として率直に語るのです。

その説教だけで、後は牧師が地元に住んでいなくても、いつも声をかけてくれなくても、教会員が充分満たされていることが分かります。その説教だけで養われるだけの準備をし、それだけの情熱をかけていることが分かります。出席者はその一言も漏らさないように耳を傾けるのです。しっかりと訴えるものがあります。

そのような説教に人びとが少しずつ反応をしてきているようです。長い間隠されていた傷がどこかで触れられてきているのでしょうか。こちらも遠慮して話しかけないこともあって分からないのですが、それぞれが何か曰くがあって長く隠れて生活してきた人たちが足を向けてきているかのようです。どこかで内側に長くおおっていたもの、膿のように抱えていたものに触れられてきて、礼拝に足を運んでいるかのようです。何か出来上がったというか、整っている教会には居心地が悪くて参加できないような人たちが、少しずつ顔を出してきているかのようです。この教会でなければとてもではないが礼拝に参加できないと思われる人が徐々に集ってきています。

そのような人たちを、実はあのチャック・スミスの大きな教会の夕べの聖書研究会でも見てきたことを思い出しました。男性たちのなかには願ったわけでもなくて独り身になってしまったような人が、そのことで裁かれるようなことがなく、礼拝堂での夕べの聖書研究で聖書を開き、メッセージに耳を傾けているのです。ここでなければ自分はいられないという思いが何となしに伝わってきます。そのような人はとてもいられそうもない整った教会を、アメリカでも日本でも見ます。それなりに整っていて、居心地が良いのですが、そこは、そのような整った人たちだけがいられる場なのです。

この山の町にもいくつか教会があります。私たちの教会は結構歴史がありますが、今は2時間かけて通ってくるだけの牧師です。それでも説教を通して、今までどこにも行けなかったような人たちが、何とか居場所を見つけることができる教会になってきているようです。何かに惹かれるものがあって説教に耳を傾けに来ているようです。それだけの説教をしています。それだけで教会が動くのです。それに応える人たちが、全く思いがけないところから起こされているかのようです。教会とは?!、と唸らされます。

上沼昌雄記

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「破れ口を作る神、膿を出させる神」2012年2月22日(水)

エルサレムの羊の門の近くにあるベテスダの池で、イエスが38年間病にあった人を癒された話は、ヨハネ5章の初めに記されていて、有名な箇所です。それが安息日であったために、ユダヤ人がイエスを殺そうとすることにもなったのです。

今回の日本での関わりで、病床洗礼を受けられたご婦人をその関わりの人と一緒に訪問をしました。私の関わりはそれだけだったのですが、関わっておられる方々とその家族のために毎晩のように祈りました。その後日談の報告をいただきました。そこに病があり、兄弟間の確執があり、暴力があり、お金があり、信仰があり、迫害がありました。しかし、信仰を持たれている娘さんの信仰と、関わっている人たちの信仰の祈りが、その家族を覆っていたおおいを一気に破って、想像もしなかった方向に事態が展開したようです。

それは警察沙汰を通すことであったのですが、38年間その家で覆われていたものが一気に表に出され、その家から取り除かれたというのです。38年間家族が抱え込み、処理できないでそのまま耐えてきたことが、一気に吹き出してきて、一時的であったとしてもなくなることで、家族にようやく平穏なときが訪れたのです。

そんな報告をいただいて、神様は決して放っておくことのない神様で、「破れ口を作る神、膿を出させる神」ですと返事をしました。この言い回しに「吹き出してしまいました」と書いてこられ、さらなる後日談を記してくれました。その病床洗礼を受けられたご婦人は無事に退院をして、入院中のCT写真を持ってきてみたら、癌と言うよりも腫瘍の可能性が強いと言うことで、それを聞いた娘さんは「家からも、腹からも濃を全部吐き出さなければならない」と笑いながら言ったということです。

この娘さんの信仰が、さらに関わっている人たちの信仰を動かし、それが公の機関にまで届き、警察まで動かすことで、38年間の膿を吐き出させることになりました。それは厳しいことなのですが、どこかでそのままにしておくことができなかったのです。そのままにして覆いを掛け、それがその家の、その人たちの生き方と人生にまでなってしまうのですが、そこに信仰の祈りが介入するときには、神は放っては置かないのです。破れ口を作り、膿を出させるのです。

その関わりの働きにはベテスダの名前を付けられています。「ユーモアに富んだ神様」とも言われます。しかし、あのベテスダの池で癒された人を通して、イエスの存在はさらに隠されないことになったのです。警察沙汰まで通して膿を出された神は、このことでさらに放っては置かないのです。どのようなことが次に起こるのか、その意味では楽しみでもあります。厳しいのですが、楽しみでもあります。38年間も溜まっていたものが吐き出されるのは厳しいです。同時に出たことで、次に何が起こるのかは神の手にあることです。放っておかない神の責任範囲です。「破れ口を作る神、膿を出させる神」の責任範囲です。

上沼昌雄記

「ラディカル」2012年2月13日(月)

先週末に三鷹のティームセンターに三晩宿泊しました。ホストご夫妻とはいろいろな関わりで長い間の知り合いです。ブレックファストだけ出してくれます。最初の朝、そのご主人が今アメリカで読まれている Radical と言う本を知っているかと聞いてきました。ニューオーリンズのハリケーンの被害を経験し、アジアの迫害のなかの教会のことも経験している牧師が書いたもので、いわゆるアメリカンドリームからの信仰の解放を語っているようです。その意味でラディカルな提言のようです。

その本のことは知らなかったのですが、私も内容が大変ラディカルな本を読んでいますと言って、旧約からの流れのなかで新約を捉え、クリスチャンであることを捉え直そうとしているもので、Simply Christianというタイトルのものだと言いました。それはN.T. ライトのものかと言ってきました。自分も何かを読んだことがあるというのです。タイトルは穏やかですが、内容はまさに旧約と新約を一つの神の計画の流れと捉え、ラディカルのもとの radix が「根っこ、根幹」を意味しているように、聖書の根幹に沿っているもので、大変ラディカルなものですと説明をしました。

二日目の朝には日系四世で日本への宣教の重荷を持っている青年が加わりました。ホストのご主人が再度 Radical の本のことを持ち出してきました。その本のレビューをネットで読みました。Simply Christianの本を、『心の刷新を求めて』のダラス・ウイラードの編集の本のなかで、N.T. ライト自身が紹介しているのを知って、日本に来る前に手に入れて、読み続けています。そのような話のなかで、その日系四世の青年はバイオラ大学、タルボット神学校を卒業していて今教会で奉仕をしているのですが、福音派のなかでのN.T. ライトとダラス・ウイラードの受容の様子を話してくれました。特にバイオラ大学でのダラス・ウイラードの影響は大と言うことです。N.T. ライトも浸透してきていると言うことです。

Simply Christianを奉仕の合間に、旅の途中で読み続けています。神の創造と契約の更新としてのキリストの十字架と復活による贖いと回復と、神の家族へ加えられるクリスチャンのこの地での特権と役割を、ブリティッシュ・イングリッシュで淡々と語っていきます。文章が所々韻を踏んでいるのです。うなずき、うなり、納得し、感嘆しながら読んでいます。旧約からの流れに沿ったものでまさに聖書の根っこにそのままくっついているのです。その意味はまさにラディカルなのです。それでいて新鮮なのです。2千年の西洋の枠に引き寄せられ過ぎて、聖書の根っこから離れてしまった聖書理解をもう一度その根っこに引き戻すものです。何ともラディカルであり、新鮮です。

大阪のある牧師とこんな本が翻訳されたらいいですねと話し合ってきました。これほど英語圏で読まれていながら日本語のものはないのです。 日本人の間でもN.T. ライトを読んでいる人が徐々に増えてきています。 同時にどのような反応が出るのか興味深いものです。 それこそが聖書の言っていることではないかという叫びのようなものが出てきます。 納得する面が多くあります。

アマゾンのレビューで、もうクリスチャンをやめようかと思っていた人が、Simply Christianを読んで、クリスチャンであることの新しい意味合いを再確認して、信仰に戻ったと記しています。そんな意味合いが読んでいてよく分かります。クリスチャンであることの特権と責任をしっかりと受け止めていきたいと思います。聖書の根っこに、神の計画の根幹にしっかりと繋がっていたいと思います。その意味でまさにラディカルでありたいと願います。

上沼昌雄記

「怒る妻たち」2012年2月8日(水)

昨年の秋の日本での旅で、「結婚以来怒っていました」「足蹴にされる、踏み

つけられている」というテーマで書きました。年が明けてこの寒波に襲われてい
る日本で、そのテーマが出てきたご夫妻を逆に訪ねています。それも先週雪に閉
じ込められたことで「踏みつけられている妻」のことで、迎えに来てくれたご夫
妻と続きを話すことができました。次の訪問地で「足蹴にされている」という発
言が出てきたときのことを思い起こすことになりました。

そしてそのような会話を導くことになった「結婚以来怒っていました」と言わ
れたご夫妻を最後に訪ねることになりました。その言葉が出てきたときの思いを
語ってくれました。それはそうなっている自分に怒っているという意味合いであ
ることを語ってくれました。そのことを記事に書いたときに、一人の牧師からす
ぐにレスポンスをいただきました。思い当たることがあって「今回のテーマは、
私にとって最も大事なテーマなので、ちょっと書きます」と言って、以下の文面
を送ってくれました。どのようなタイミングで出したらよいのか様子を見ていま
した。このご夫妻も読んでくださって、喜んでくれました。本人たちの了解をい
ただいていますので、お分かちできればと思います。

「私は、牧会上での失敗の後、妻と毎晩、夕食後、外を歩いて会話をしまし
た。妻がそれを望みました。子供の前で喧嘩はできないので、外を歩くしかな
かったのです。妻に責められ、私が必死に妻の痛みを聞き、うなずき、あやま
り、というパタンを毎晩繰り返し、20分~30分間歩きました。もっと長時間
になることもありました。私にとっては辛い時間でした。妻にとっては、生きて
いくために、どうしても必要な時間でした。内容は、どうしても同じ話題になり
ます。何度も責められます。

夕食後に妻と外を歩くことが、1ヶ月間続きました。今までの結婚生活にはな
かった、交わりのスタイルでした。それが、1年続き、3年続き、5年たった
頃、新しい任地への移動となりました。こちらの来ても、ほとんど毎晩、妻と共
に歩いています。気づいたら10年になりました。

今は、幸せな結婚になれたと、妻はとても喜んでいます。何が、鍵だったのか
と最近分かりました。一緒にウォーキングしたことです。一緒に歩くということ
は、<妻だけと向き合う>ということを意味しています。

妻との人格的な交わりは、質に到達する前に、量が必要だと分かりました。ま
た、妻と向き合うことは、継続しなければならない、という事にも気づきまし
た。一度や二度の心の深いつながりだけでは、心の通じ合う交わりは維持できま
せんでした。大事なことは、続けること。ディボーションのように、続けること
に意味があると分かりました。

すべてを失い、最も大事なものを得ました。それで良かったと今は心から言え
ます。つまり、男として、牧師としての成果や業績よりも妻と心が通じ合える関
係でいられる事のほうが価値あることだと分かりました。外的な奉仕や仕事は、
必ずスペアがあります。他の人でもできます。でも、夫の代わりは世界に誰もい
ないと気づきました。妻との関係が変えられたことによって私と主との関係が、
徐々にですが、本質的な部分が変わり始めているように思えます。

ですから、今は幸せです。妻ほど素敵な人はいません。妻を心から尊敬してい
ます。妻なしには、私は存在しません。妻なしに、私の働きもありません。これ
からも、妻と歩き続けます。」

上沼昌雄記

「隔絶された時間、隔絶された場所」2012年2月3日(金)

昨日の朝は猛吹雪でした。新雪が30センチ以上は積もっていました。新幹線で東京に出られるかなと思いながら、JR東日本のネットでは「平常通り」と言うことで、8時過ぎに隠れ家の主に送っていただきました。普段は20分ほどで行くのですが、大雪で渋滞していて1時間近くかかってしまいました。

駅ではその前の東京行きの新幹線が止まっていて、それに乗せてくれました。4時間待たされて動き出したのですが、この列車は山形止まりで運転を取りやめると言うことと、その先も今日は終日運休にしますと言うことになりました。山形まで行っても戻ってくる足がないことが分かりました。それで次の「さくらんぼ東根」という駅で急遽降りました。隠れ家のご夫妻がアレンジしてくれて、教会の牧師が迎えに来てくれることになりました。

東京に向かう目的は、『村上春樹を読みつくす』の著者の共同通信編集委員の小山鉄郎氏を訪ねることでした。村上春樹のデビューの時から今に至るまで何度もインタビューをしてきたことを下にして書かれたものです。批評家のように自分の枠があってそこの村上春樹を引き入れて論じているものではなく、村上春樹に寄り添って書いているもので、文芸的優しさというか、温かみを覚えるものです。

新幹線の車両のなかは温かく、数人しか乗っていないこともあって、静かに3度目になると思いますが、『村上春樹を読みつくす』を読んでみました。さながら新幹線の書斎となりました。著者が村上春樹に寄り添いながら、小説家としての村上春樹が意識していないで書いているところを、上手に結びつけているようで、さらに村上春樹が浮かび上がってくる感じがします。しかもそこに無理がなく、その結びの糸が、本人が意識していなかったとしても、当然意図していたものであるかのように浮かび上がってきます。不思議な納得をいただきます。

世界的に読まれていながら、それでも濃厚に漂っている「日本」「日本人」を村上春樹のなかに丁寧に解きほぐしています。特に『平家物語』『雨月物語』『方丈記』の3つの古典に情緒的にどことなく共通の感覚が、デビュー当初から村上春樹のうちに漂っているというのです。それを「時間に対する感覚」とみています。「つまり絶対的な時間(それは歴史的な時間でもある)を時間として冷静に意識し把握しながらも、己の体内に別種の時間を作り出すという二重作業である。それはいわば隔絶された時間であり、それに呼応するように隔絶された場所がそこに浮かび上がってくる。」(83.84頁)現実と非現実の接点、向こう側とこちら側の合わせ鏡、異界への入り口、歴史と記憶という著者が繰り返し取り上げているテーマに結びついてきます。

この「隔絶された時間」、それはそのままレヴィナスの主要テーマである「時間の隔時性」に関わってきそうです。時間の他者性をみているレヴィナスにとって、向こうからくる時間は隔絶されたものです。単なる延長ではないのです。共時ではなく隔時であることで、他者は驚きであり、いのちでもあるのです。その他者のその先にユダヤ人哲学者であるレヴィナスはメシア、メシア待望をみています。拙書『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』でレヴィナスと村上春樹を同時に取り上げたことが結びついてきます。

立ち止まっている新幹線の列車の隔絶された場所、5時間かけてすぐ隣の駅までようやくたどり着く隔絶された時間、日常が寸断されて思いがけない時間と場所を経験することで別の世界が開かれてきます。ともかく小山鉄郎氏に今日はお伺いできない旨の電話を入れました。迎えに来てくれた牧師宅で昨年来の「踏みつける、踏みつけられている夫婦」の話の続きすることになりました。「踏みつけられている」という言い表すことで開かれてくる世界 、いただいた結構のレスポンスに対してのこの夫婦の反応と、ともかく思いがけない話題に、東京に向かう予定で出たその日の暮れに導かれました。

上沼昌雄記