「和解の旅」2012年3月14日(水)

一人の神学者が、ニューヨークの国連本部の国際朝食祈祷会で「和解」のテーマで話を始めた。その初めに、ホロコストの生き残りのユダヤ人詩人パウル・ツェランの「死のフーガ」を引用した。強制収容所のことを歌ったもので、アウシュヴィッツの後には詩はあり得ないというアドルノの言葉を覆すことになった詩である。

夜明けの黒いミルクぼくらはそれを晩にのむ

ぼくらはそれを昼にのむ朝にのむぼくらはそれを夜にのむ

ぼくらはのむそしてのむ

ぼくらは宙に墓をほるそこは寝るのにせまくない

ひとりの男が家にすむその男は蛇どもとたわむれるその男は書く

その男は書く暗くなるとドイツにあてておまえの金色の髪マルガレーテ

かれはそう書くそして家のまえに出るすると星がきらめいているかれは口笛を吹き犬どもをよびよせる

かれは口笛を吹きユダヤ人たちをそとへよびだす地面に墓をほらせる

かれはぼくらに命じる奏でろさあダンスの曲だ

ユダヤ人に自分たちのダンスの曲を奏でさせながら、自分たちのために穴を掘らせることを命じるドイツ人の男とその愛人の金色の髪のマルガレーテ、詩はその焼かれていく死体の灰をかぶった灰色の髪ズラミートを登場させ、そのふたりの女性の対比で終わる。マルガレーテはゲーテの『ファウスト』に登場する女性であり、ズラミートは旧約聖書の雅歌に登場する「シュラムの女」(6:13)である。

この神学者は相反するふたりの女性を対比させることで、あり得ないと思われる「和解」を語り出す。自身クロアティア人として、セルヴィア人との間で繰り返された1992年から95年の民族独立の紛争で弟を失う経験を通して、不可能と思われる「和解」が、キリストの死と復活によって、なの現在において不可避であると語る。しかし彼の話は、同時多発テロで中断された。9/11の朝のことであった。

 レヴィナスをして、ホロコストで神義論の終焉を宣言させたあとに、なお「和解」が可能なのであろうか。民族の粛正を経験した後に、なお「和解」が可能なのであろうか。この神学者は、そのためにこそ、キリストが私たちのために十字架にかかり、よみがえられたためではないかと言う。紛争の後の1996年に『排斥と受容 Exclusion & Embrace』という本を書いて、そのメッセージが伝わってきた。前回紹介したN.T.ライトの『悪と神の義 Evil and the Justice of God』で紹介されて知ることになった。そのライトは悪に対する神の勝利は、私たちの「赦し」の行為のうちにさらに実現されるためであると、あの綿密な聖書研究の結論のように言う。

 何か自分のなかで長い間し残してきたこと、触れないでそのままにしてきたこと、クリスチャンとして、奉仕者として、ミニストリーを導く者として、袂を分かつことになったこと、排斥し、排斥されたこと、顔も見たくないと思う人、生涯架けて恨みを晴らしたいと思うこと、そのまま闇に葬っておきたいこと、何故に信仰を持っているのか問われること、そんなことがそのまま触れられないで、うちに積み重ねられたままであることに気づく。

キリストが私のために死んでよみがえられ、そこに罪と悪と死に対する勝利が示されているとすると、通らなければならない「和解の旅」が待っているようである。それ抜きでは、クリスチャンである意味はないかのようである。パウロが「和解の務め」(2コリント5:18)と言って、引き受け、受け継いだものである。どれだけ真剣に捉えるかに、教会とキリスト教の存続がかかっているというのは、言い過ぎだろうか。

上沼昌雄記

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“「和解の旅」2012年3月14日(水)” への 3 件のフィードバック

  1. 「和解の旅」を読んでいます。一ヶ月たって読んでいます。
    「和解」という言葉に引かれて読んでいます。一ヶ月前に読むことができなかったものが今はとても近くに感じています。

    母の死の後にも和解は必要だろうかと言うこちら側のテーマで読んでいます。
    答えはイエスです。

    死の後に何もかも終わったと思いました。
    この後には漆黒の闇しか残っていない、そのようにしか考えられないときがずっと流れています。

    しかし、この春娘とのかかわりの格闘を通して
    自分の精神的な危機を迎えて、それでも、そこを通っているからわかる
    福音を今感じています。

    古い自分が自分を巣食っています。
    すぐには脱ぎ捨てられないことがわかっています。

    それでもだんだんと自分の中の古い自分に
    気づくようになりました。

    古い自分が自分の家庭から、世の価値観から来ていると分かっています。
    そして新しい自分が神様によってそだってきているのを感じています。そして古いものとの闘いが始まっています。

    その新しい自分を造って下さったのは神様であるし、古い自分と新しい自分の間に入って、十字架にかかり、とりなしいのって下さっているのがイエス様だと感じています。

    イエス様は私と母の間に入って今もとりなし祈っていてくださる
    と信じています。

    母の死後に始まっている母との和解です。母を見る目が変わってきています。

    1. 吉川さんへ、
      亡くなられたお母様との和解の旅、大きな、思いがけない出会いと発見といやしがあるのだと思います。御霊ご自身が切なるうめきをもってとりなしてもいてくれると信じています。
      コメントを心より感謝しています。
      祈りつつ。上沼

  2. すでに名古屋地方は夏を思わせる暑さとなっています。

    「母と娘の和解」ということで、先生が受け止めて下さっていること、お返事とお祈りをアメリカから送ってくださっていることを、主からの愛として、心の励みと慰めを感じています。

    この朝、少し心に浮かんできたことを下書きしました。
    送らせていただきます。

    母と娘の和解というテーマで娘との格闘を通して私の心の闇に隠れておられる主が私の心の闇に一筋の光を照らしています。

    闇が光によって照らされています。

    母を見つめ、母を受け入れ、母を赦し、母と和解するということが
    娘を見つめ、娘を受け入れ、娘を赦し、娘と和解するということにつながっていきます。

    わたしが神様の前に一個の人格として認められているので、母を一個
    の人格とみなし、娘の一個の人格とみなしていけるようなって行きます。

    人格と自覚の関係には支配がありません。尊重があり、自立があり、豊かな交わりがあり、信頼があります。

    私は母と私の和解、娘と私の和解の途上にあります。

    母と私の間にイエス様がおられ、私と娘の間にイエス様がおられます。
    イエス様がおられることで、闇が無作為に三代、四代と引き継がれることがやわらげられていくのです。

    いまはその使命を負っています。

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