「病院の待合室」2012年3月22日(木)

義父の40日間の高圧酸素治療が昨日無事に終わりました。後半は私が1時間近くドライブして連れて行くのが仕事になりました。カプセルに入っているのが2時間ですのでその前後3時間近く待合室で過ごすことになります。といってもそこにいつでもいるわけでなく、カフェテリアで過ごすこともあります。実はここは、妻が6年前に入院したセブンスデー・アドベンティストの病院です。日本では東京の荻窪にある衛生病院がその一つです。私たちのふたりの娘はそこで生まれました。

ここは隣に医学部がありますので、この関係の中心的な存在のようです。LAから南東に下ってこの先は砂漠地帯になる手前にリバーサイドという町がありますが、その隣のローマ・リンダという、この大学と病院とその関係の信者の町ともいえるところです。病院の入り口の壁には、医師の後ろに立っているイエスの絵が描かれています。キリストにある救いを総合的に捉えています。菜食主義で健康に深く配慮しています。というか体と心を切り離しては観ていないことが分かります。ただカフェテリアで困るのは、レギュラーコーヒーを置いていないことです。

2年前に父はこの病院で前立腺の治療を受けています。その治療のためには全国から患者さんが来ていて、その家族とも滞在できる施設も併設されています。その治療で前立腺は完治したようなのですが、その場所からの出血が出てくるようになって昨年のクリスマスには家の近くの病院に入院しました。そこはカトリックの総合病院です。そんなことが2度ほど続いたので、妻が調べて、その主治医の許可ももらって、ローマ・リンダのセブンスデーの高圧酸素治療をこの1月から始めたのです。素人理解ですが、酸素を体中に時間をかけて染み込ませることで、体の内部の傷をいやしていく治療で、父の体も以前より回復しているようです。頭脳もより明瞭になっています。

この部門の専門医も何人かいて、父の治療の可能性を認めて受け入れてくれたのです。その部門にはNephrology/Wound/Infectious Diseaseとタイトルが付いています。担当医も技術者も、患者を一人の人格としてみています。私は今回は運転手に徹したのですが、医師とのアポイントの時には母も妻も一緒に来て、医師との会話を楽しんでいたようです。それはほんのちょっとしたことなのですが、患者も家族もホッとできることで、こちらの心をも委ねることができるのです。それは、妻が入院しているときにも感じました。忙しい医師や看護師や技術者たちなのですが、その心は患者さんとその家族に向けられています。他者への深い配慮です。

その配慮はイエスがこの地に下られ、人びとの間で向けられたものです。病人をいやされたのも、山上の説教をされたのも、湖の上を歩かれたのも、神の国のたとえを話されたのも、この地に新しい創造が始まったことを示すためでした。それは神の私たちへの変わらない配慮です。その意味で、イエスのいやしは今でも現代の医療技術とともになされています。イエスの時代だけで終わったと取ることはできないのです。イエスは、きのうもきょうも、とこしえに真の救い主でいやし主です。

先のカトリックの病院もよく配慮されています。それでもどこかで体と心は別々に取り扱われている感じは否めません。ローマ・リンダのセブンスデーの病院では、体を取り扱うことは心を取り扱うことでもあると見ているようです。それだけ心の面を特別に配慮しているような雰囲気はないのです。しかし不思議に、取り扱われているように感じるのです。神がイエスを遣わし、イエス自身も自分の使命として受け入れていたことは、そのようなものだったのでしょう。毎日3時間近くも待つことが苦にならなかったことも、父の高圧酸素治療が終わって何かミスしているような感じになっているのも、そういうことなのかも知れません。

上沼昌雄記

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「「病院の待合室」2012年3月22日(木)」への2件のフィードバック

  1. 「患者を一人の人格として扱う」ということの豊かさが伝わってきました。
    患者はもちろん痛む者です。そしてその患者のすぐそばにいる家族も同時に不安と戦いながら痛む者ですね。
    上沼先生が素敵な病院でいただいた天からの豊かさがこちら日本にもつたわってきました。お義父様のお体と心の守りを祈っています。

    こちらは約十日間のふるさと福岡の旅が終わりました。
    最初は心の弱った父を見舞う動機で始まりました。母を突然、予想もしない形で失った父が、一周忌を終えて、激しく動揺するようになっていました。
    自責の念が強く出ていたので、帰ることになりました。

    これまた予想もしなかったのですが、自然と「伝道の旅」になっていました。

    自分もまた罪責感に苦しみながら主の恵みを受け取りながら歩んでいました。

    父がずいぶんこの一年で心のうめきを話すようになってきたので
    今回も二人でいると自然とうめきを葛藤を話してくれました。

    男性ならではの苦闘というものがあると思いました。そしてまたそのうめきに耳を傾ければ傾けるほど、父が母を深く必要としていること、人間というものはたった一人で生きることが難しい存在であることが深くつたわってきました。

    父がいろいろ話してくれるので、「人格を持った父」に出会っています。
    それは非常に新しい発見で、自分としてはこれまでがこれまでだっただけに少
    し戸惑う感じもあります。

    それでもやっぱり家族の再生のはじまりをうれしく思い、神様に深く感謝しています。

    1. 吉川さんへ、
      家族の再生の旅を始められたこと、時間がかかりますが、その価値があります。誰もが負っていますが、キリストにある赦しと愛のゆえに、その荷を負うことができます。そのために生かされているとも言えます。焦らず、ゆっくりとということでしょうか。
      お父様のうちに神様が語りかけてくださると信じています。
      吉川さんの日々の歩みも守られますように。
      上沼 2012/04/01

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