「DV」2012年3月26日(月)

こちらのテレビ番組で、Dr. Phil というカンセリングをそのまま聴衆の前で行っているのを見せるものがあります。まさにDr. フィルが、難しいというか複雑な問題を持った人たちとステージで語り合いながら、問題点を明確にし、方向を示していくもので、結構人気があるようです。この一、二週間の間で、二つのケースを取り扱っているのを観ることになりました。他人事のようなのですが、ここの女性たちが観ているのに加わってみたのです。

二つとも Domestic Violence DV, 家庭内暴力のケースです。一つは夫が妻と子どもに暴力を振るってきたケースで、もう一つは妻が夫とその母親に暴力を振るってきたケースです。最初のケースは背筋が寒くなる思いがし、後のケースはただ悲しい思いがしました。思い出す度にその感情がよみがえってきます。それにしても、確かにどちらも極端な面もあるのですが、それを隠さないでテレビにまで出してくると言うのは、文化の比較をしようがないので分からないのですが、やはりアメリカなのでしょうか。しかし、見えないところでは日本でも深く浸透いるように思えて仕方がありません。

最初のケースで、Dr. フィルが何とか夫の心の中に入ろうとしているのですが、上手にというか巧みに逃れて、妻のせいにしているのが分かります。もちろんその妻もそんな夫の暴力を許してしまう面があるのですが、そこに冷徹に入っていくこの男性に多少手こずっているようでした。しかし、この男性が、妻の連れ子のお嬢さんに手を出し、それもそのお嬢さんのせいにしていたときには、Dr. フィルもかなりあからさまに怒りを出してこの男性を非難していました。

そんなやり取りを観ながら、スコット・ペックの『平気でうそをつく人たち』の本を思い出していました。決して自分の虚偽を認めないで、すべてを他人のせいにしてしまう邪悪さ、自分の虚偽を認めるぐらいなら死んだほうがましだと思う傲慢さ、そんな冷徹さをこの男性のうちに感じて、背筋が寒くなったのです。スコット・ペックは、そこに悪の根源のようなものを認めています。そのような人はどこにでもいて、どこででも出会う人だと言います。教会でも、牧師のなかでも。

最近よく取り上げているイギリスの新約学者のN.T. ライトが、実は2006年に「Evil and the Justice of God 悪と神の義」という本を書いていて、そこでもスコット・ペックのこの本が取り上げられています。神の義はどうなっているのだろうかと、鋭い問いを投げかけ、イエスの神の国の福音との関わりで、真剣に取り上げています。もしかして、表面上は教会に行っている家庭内でも起こっていることだからです。

二番目のケースは、この女性のどうにもならない怒りが夫に向けられ、その母親にまで向けられてしまったのですが、Dr. フィルは優しく巧みに、この女性の家庭環境、すなわちその両親の間のことにまで触れていくのです。そして紛うことなく、その父親が母親に暴力を振るってきたのです。当然その子である、この女性にも暴力を振るっていたのです。同席していたこの女性の母親に、Dr. フィルは遠慮なく聞いていきます。あなたはどちらの側に立っていたのかと。当然この女性は母親にも深い怒りを持っていたのです。

そして、ただ夫にその怒りを向ける以外なかったのです。加害者であるこの女性は被害者でもあるのです。何とも悲しい思いにさせらます。それでも、Dr. フィルはこの女性に、もしあなたがこの悪の連鎖を断ち切らなければ、あなたの子どもたちが同じことをし、同じことを受けることになる、どうしますかと優しく促すのです。当然それは厳しいことです。離婚のことにまで遠慮なく触れていきます。このような番組はまさにアメリカ的なのでしょうが、問題は日本でも深く潜伏しています。ほんの一部だけが表面化しているだけです。しかも私たちの内部でも起こっています。そのままにしておくことはできません。

すでに十戒で言われている、父の咎を3代4代まで受け継がせてしまう罪の性質を断ち切る作業が求められます。今までの生涯に積み重なってきたことで、大変な決断が求められることですが、それをしなければ悪はさらに増大し、浸透していくのです。まさにキリストの愛と赦しで、悪の連鎖を断ち切る厳しい務めが求められます。イエスが主の祈りで赦しを語り、実際に自分を十字架にかけた人たちの赦しを父なる神に願ったのです。この赦しの福音を浸透させていく責任があります。たじろぐと同時に、厳粛な思いにさせられます。

上沼昌雄記

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“「DV」2012年3月26日(月)” への 4 件のフィードバック

  1. このエッセイを読みながら、うーんとうなされました。
    すんでのところで、「恭子、神様にそれでいいのか。」と呼び止められた感じがあります。

    父の伝道に関わって、限界を感じています。娘が父を伝道していく中で、父が話を聴いてもらえる、うめきを聴いてもらえるそのうれしさをいただきながら、
    誰がそうさせてくださっているのかは認めません。

    私に甘え、私を妻だ、母親だ、無制限に甘えられる対象だと錯覚しているところに来ています。
    私は妻ではありません。母親でもありません。

    こちら側がそういうしっかりとした境界線を持って相手に関わる覚悟がなければまさしく罪人が罪人を導くと言うことになってしまいます。
    を厳しく自分に求められています。

    やはり男性の伝道は男性にお願いしなければならないのだろうか

    1. このレスポンスに吉川さんのしっかりと独立した人としての姿を感じます。親でも子どもでも、互いに独立した人格を持つものとして関わり、育てていくことは結構難しいものです。依存になったり、独占になったり、家族関係もそうすることでいろいろなものを引き継いでしまいます。それを断ち切るのは大変難しいことです。吉川さんご自身が独立した一人の人としてお父様に接して行かれることを祈っています。末松先生ご夫妻から助言をいただきながら、お父様への伝道が進むことを祈っています。上沼

  2. そういうことを祈りながら
    この伝道の旅を振り返っています。

    伝道とはやはり祈りと交わりのチームワークの中でおこなうことだと思います。
    こちらが未熟であればあるほど、助けをもとめていっていいと思います。

    父の伝道にあたっては、末松先生御夫妻、福岡の井之上先生御夫妻
    に相談しながら進めていこうと思います。

    上沼先生のエッセイの深みに感謝しています。

  3. 二ヶ月がたってもう一度この『DV』というエッセイを読んでいます。

    決して虚偽を認めないでそれを人のせいにし続け居直る邪悪さ、自分の虚偽を認めるくらいなら死んだほうがましだと思う傲慢さ。。。

    幼児性ということを考えています。他者に関わりながら、自分では今まで気づかなかった自分の心の幼児性に気づかされています。

    どこまでいっても駄々っ子のように自分の虚偽を何かにすりかえて自分を防衛しようとする心のように思っています。

    そのような幼さをいつまでも手放さず、いつまでたってもすがること、赦してもらうこと、大人としての自立も責任も育てようとしない
    自分の心の領域に気づいています。神様が光を当ててくれています。

    それは大変痛くつらい手術です。

    それでも逃げても逃げても逃げ切れないとわかっています。わたしが成長するには、責任を果たす大人になるには自分の中の幼児性、闇と向き合うことをひきうけることだと思っています。

    ゆっくりゆっくりその作業をやっています。

    チャックスミスが
    顔をしかめて罪による滅びか、神との交わりによる罪の滅びかと迫力に満ちたメッセージを聴衆に、また私に語ってくださっています。

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