「メンズ・ブレックファスト、そして母と娘」2012年4月18日(水)

イースターの後に、シカゴの長女家族、国防省の仕事でアフガニスタンに行っている次女が、それぞれ休暇をとって、ダラス郊外の長男宅に集うことになり、私たちも二日間ドライブをして、1年半ぶりに家族全員が集合しました。その数日前に長男家族の2歳8ヶ月の男の子が大腿骨の骨折をしてギブスをはめているので、みんなで世話をしながら、毎日のように遊園地と公園に行き、家族写真を撮って楽しい時をいただきました。

5人の子どもたちも仲良く遊んでいましたので、大人たちもゆっくり語り合うことができました。それでも長男の発案もあって、長女の夫と私を含めて、3人でメンズ・ブレックファストの時と持ちました。長男の仕事場の近くのゆったりとしたレストランで、それぞれの思いを語り合うことができました。

私たち夫婦が妻の引退宣教師の両親の世話を同居しながらしていることから、親の生き方、特に母親の価値観や、人生観が妻を初め4人の娘たちに、善し悪しの関係なしに、深くというのは一般的な言い方なのですが、どうにもならないほど複雑にもつれて影響していることを、私なりに観察したところを話しました。長男も長女の夫もそれぞれ一人ずつ娘がいることもあってか、関心を引いたようでしばし会話が続きました。

妻を含めた4人の娘たちの母親に対する反応はみな違います。その違いが母親の面倒をみるときにそれぞれ出てきます。そのある面は信仰とか、宣教師とかは関係なしに、母親自身がそのまた家族の中から受け継いでいるものがあって、善し悪し関係なしに、結構複雑な面を呈しています。今度はそれが、妻と長女・次女の間でも受け継がれているのをみます。普段離れているときよりも、家族が一緒になって行動しているので身近な感じで話ができます。

そんな話をメンズ・ブレックファストの時にすることになるとは思っていなかったのですが、よく考えればそれぞれ家族持ちとして、もう一つの避けられない現実です。父親と息子ということで当然大きな課題を抱えているのですが、母親と娘という、どうにも複雑で幾重にもより糸が混線しているような関わりに、妻を通して、妻と母親、妻と娘たちという現実に直面させられているのです。長男も長女の夫も、それぞれの娘が10代になったら母親とどのような関係になるのだろうかと、想像心を働かせていました。

聖書ではナオミとルツのように嫁・姑の麗しい関係は出ているのですが、直接の母と娘の関係は取り上げられていないようです。ただ父系社会でしたので、父親を代表して子との関わりという意味で、すでに避けられないかたちで出ているとも言えます。母の咎も、その娘たちに3代から4代にわたって受け継がれています。しかも何とも込み入ったかたちで受け継がれています。

3月14日付で「和解の旅」という記事を書きました。母親を1年以上前に亡くされた女性が、一ヶ月が経っても読んでいますと昨日レスポンスを下さいました。すでに亡くなっている母親との和解の旅を始めたというのです。亡くなってすべてが終わったと思っていたが、ご自分の娘さんとの問題を通して自分の母親との格闘を思い出したようで、今はイエス様が間に入ってとりなしの祈りをしてくれていると記しています。

すでに父親のことは本に書いているのですが、長男が今度は男性として、夫として、母親と娘のことを書いたらばと勧めてくれたのですが、それは抜け出せない泥沼に引き込まれるようで、躊躇してしまいます。ただどの女性たちも、男性が父親との確執のようなものを持っているように、母親との間でどうにもならないほど絡み合った糸のもつれを持っているのが分かります。福音はそこにまで届いていくものですが、父と子の間もそうなのですが、取り扱われないで、そのまま咎を引き継いでいます。この面に関して福音は多くの場合に無視されています。

上沼昌雄記

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「神の御子の復活」2012年4月2日(月)

ローマ書の初めで、パウロが福音を定義しています。「御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(1:3,4)すなわち、復活が、ダビデの子孫であるイエスを神の御子と認めることになったと、パウロは言うのです。同じダビデの子孫として生まれたパウロが、復活を認めているユダヤ人の考えのなかで、その復活が具体的にイエスにおいてなされたことで、ユダヤ人が待ち望んでいたメシア、神の御子であると認めたのです。取りも直さず、それが、パウロが語った福音なのです。

多分この箇所が中心になっていて、「神の御子の復活」というタイトルの本を書いている人がいます。イギリスの新約学者で、歴史家でもあるN.T. Wrightで、The Resurrection of the Son of God という800ページ以上にわたる大著です。受難週とイースターを控えて、思い切ってこの本を紐解いています。「多分」というのは、とても全部を読み切ることは無理だからです。ただこれだけのページを割いて、キリストの復活のことに集中していることに敬意を覚えます。すべてを把握することは短期間では無理なのですが、ページをめくりながら、何となくこの著者の息吹が伝わってきます。意気込みみたいなものが、限られたページしか開いていないのですが、飛び出してきます。

N.T. ライトをあえて歴史家と記したのは、イエスの復活の記事を歴史家として綿密に調べ上げ、イエスの復活を歴史的事実と結論づけているからです。「歴史」の意味を歴史的に、すなわち、啓蒙思想下での歴史観とも比較しながら捉え直そうともしているのです。その歴史感覚は当然現代を理解する驚異的な手がかりにもなっています。なんと言っても、ライト自身がどこかで言っているのですが、紀元一世紀のユダヤ思想の歴史家なのです。すなわち、ダビデの子孫として生まれていることが、同時のユダヤ教と異教の世界でどのような意味があり、そのなかで「復活」がどのようなインパクトを持ってくるのかを、また歴史家として提示しているのです。800ページという大著が狭く感じるほどです。

当然パウロにとって、ダビデの子孫として生まれたイエスが復活したと言うことが、どのようなインパクトを与えたのか、特に第一コリント15章を中心に200ページにわたって取り扱っています。その関わりのローマ書に関しての記述を拾い読みしても、パウロの福音理解がその初めで示されているように、復活が大きな意味をもっていることが分かります。その辺をライトは丁寧に紐解いていきます。当時のユダヤ人にとって、当然パウロにとって、それは旧約から続いている、創造と、契約と、神の国と、神殿という基本的な考えに深く結びついているからです。その結びつきを離れて簡単に復活を、クリスチャンが死んだら天国に行ける切符のようにとることに注意を与えています。それはギリシャ的な思考に影響された西洋の教会の理解であると歴史的にみているからです。また、十字架と義認論を中心にして福音を捉える西洋の教会の救済論にも偏りをみています。十字架と復活、さらに当然、受肉と十字架と復活を一つのまとまりを持った救済のわざとみていくことで、初めて聖書全体の神の救済のわざが浮かび上がってくるからです。

クリスマスが単に救い主の誕生のお祝いに終わらないように、イースターも単に救い主の復活のお祝いで終わらないのです。十字架と義認論が前面に出てきているために、クリスマスもイースターもその場限りになってしまいます。人は義認論だけでは行き詰まってしまいます。神の御子が、人としてダビデの子孫として生まれ、私たちの全人類のために十字架にかかり、三日目に死人のうちよりよみがえってくださったことで、アダム以来、肉の弱さのゆえにできなくなってきたことを、創造者であり、アブラハムの神がしてくださったのです。律法が成就され、契約が満たされる道が開かれたのです。ユダヤ人であるパウロが、神の約束の成就と、神の国の新しい希望と新天新地の望みに生きる力をいただいたのです。それがローマ書にも貫かれているパウロ自身をも生かした福音です。

この800ページの大著は10年前の2002年に書かれたのですが、ライトのうちに同じ望みが力になっていることが分かります。オックスホード大学などでの教授の後に、英国国教会のビショップとして奉仕をし、今は著作と講演活動に励んでいます。その力の源泉が分かります。もう一度新しい視点で聖書を捉え直していく情熱に満ちています。受難週とイースターを迎えるなかで、この大著に触れる機会をいただき、2000年以上前の神の御子の復活を、さらにその前の天地創造以来の関わりで思い巡らす手がかりをいただいています。

上沼昌雄記