「初夏の落ち葉拾い」2012年5月7日(月)

両親の家にはアボカドの木が二本あります。昨年から実をならせていたのですが、今年不作で、自分たちで食べるだけで終わっています。その2本の木が、すでに初夏を迎えているカリフォルニアで葉を落とし始めているのです。もう役割が終わって、からだを楽にして休みますので、よろしくと言っているかのように、一気にではなく、少しずつ葉を落としています。週末にはその落ち葉拾いをしました。

まもなく日本での奉仕の旅が始まります。新緑の5月です。みずみずしい自然の潤いです。それが初夏に向かう自然の姿であると体に染み込んでいます。ここでも散歩に出ると、バラを初め多くの花が咲き乱れています。ハニーサックル(スイガラス)が甘い匂いをあちことの庭先で漂わせています。それぞれの神の作品に時があります。アボカドはしばらく休んで、もしかして不用な葉だけを落として、また新しい実をならせるために生き返るのかも知れません。それでもこの時期に落ち葉拾いをさせられるこの木は、何の木なのだろうかと考えてしまいます。

4月の終わりに桜の好きな秋田の友人がメールをくれました。 「今年の桜は、例年より少し送れる見込みです。気温が中々上がらないからです。桜が好まれるのは、何もないところに突然美しく咲き乱れ、あっという間に散ってしまうからだとある有名な日本研究者が言ってました。日本人の気質にあっているのかも知れません。T牧師も、精一杯主に仕え、終末論に関する著作などでも知られて、結構大きな教会を作り上げた方ですが、このかたは、悪性リンパ腫で50歳代で召されました。亡くなる少し前に後任の牧師を任命して、その後は、自分の面影を一切なくして(メッセージの録音などの殆どを処分して)パット消えた見事な最後であったことを思い出しました。」

晴れ上がった空の下で落ち葉拾いをしながら、友人のこの言葉を思い出しました。そうすると、新緑の5月に葉を落として見事に散っていく人生もあるのだと自分に言い聞かせていました。充分ではないが、家族が自分たちで食べられるだけのアボカドを実らせ、使命をそれなりに果たしたので、これで終わりですといっているかのようです。同時にアボカドの人生とは言えないのですが、その生き方を振り返ってみました。アボカドの実は一度なると、枝に付いている限り腐ることもなくそのまま収穫されるのを持っています。こちらの食べ頃に合わせて採ることができます。それでも永遠に枝に付いているのではなく、秋に実を実らせて春には終わりを迎えます。そして多分葉を落として、次の収穫のための準備に入るのでしょう。そのために不用なものをそり落としているかのようです。そしてよく見ると、新しい葉を枝の上に方にしっかりと付けています。

アボカドの実を二つに割って、大きな種を取り除いて、そのくぼみにしょう油を少し差して食べると、マグロの味を楽しめます。日本からの一世の方々から聞いて、結構試しています。アボカドは日本食にしっかりと入っていて、カリフォルニア・ロールとして楽しめます。イエスがアボカドを見たら、これも自分の関わった創造の作品の一つだと言ってくれそうです。

上沼昌雄記

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「父と息子のリトリート」2012年5月1日(火)

しばらくぶりでチャック・スミスの教会の礼拝に出席しました。いつもと変わらず張りのある声でダニエル書3章から「第4の人」というテーマで、ご自分の今回の肺ガンの治療のことも含めて語ってくれました。治療の効果は出ているが、完全には取り除かれていなくて、続いての治療を医師たちが検討中であるという報告でした。礼拝堂の外にもスクリーンと椅子が置いてあって、気持ちよく晴れ上がった日でしたので、カリフォルニアの太陽の下でメッセージを聞きました。同時に考えさせられていることがありました。

それは、礼拝中の報告にもあり、ネットにも掲載されていて、しかも駐車場から見える建物にも垂れ幕で案内されていて、この教会独自の「父と息子のリトリート」が計画されていることです。前回の記事で、メンズ・ブレックファストで母親と娘のことを話すことになり、そこにも十戒で言われている父の(母の)咎を3代から4代にわたって受け継がせてしまう、罪の深さがありながら、「この面に関して福音は多くの場合に無視されています」とまとめました。無視しないで、お母様と和解の時を持った女性からの報告もいただきました。また、男性の視点でこの面に関しも書くように勧めてくれた方もおります。

この5月と6月には、「母の日」と「父の日」があります。コマーシャリズムの視点では「母の日」はそれなりに注目されていますが、「父の日」は頑張っている状態です。残念ながら教会もコマーシャリズムに乗ってしまっています。父と母への感謝な気持ちを表す時となっても、父の、母の、すなわち、親の咎を断ち切るための取り扱いも、礼拝も、ほとんどと言っていいほどなされていません。チャック・スミスの教会で父親と息子のリトリートが計画されることに、この教会の奥の深さを思わされました。

男性だけの集会であったプロミス・キーパーズで一番印象的であったのは、夫婦のことではなく、父親と息子の取り扱いの集会でした。拙書『父よ、父たちよ』で記した通りです。チャック・スミスのカルバリー・チャペルはプロミス・キーパーズにはどちらかというと否定的でしたが、大切なところはしっかりと取り入れているのです。それだけの深さがあるのです。太陽の下でメッセージを聞きながらそんなことに関心をしていました。

今回「母の日」が終わった週に日本に入り、「父の日」を大阪のある教会で一緒にして戻ってくる予定です。その教会の牧師は数年前の宇治の牧師のセミナーで「父親」のテーマを取り上げたときに、ご自分のお父様のことを語ってくれました。そのストーリーは何時かまとめられて本になることを願っていますが、その牧師と共演で何かができればと願っています。その何かは、父親として咎を受け継がせてしまう代わりに、恵みを届ける者にどのように変えられるのかと言うことです。

5月半ばに日本に入ってすぐに、8回目になりますが、宇治で牧師セミナーが予定されています。今回のテーマは「私のうめき、パウロのうめき、御霊のうめきーーローマ書研究の一つの試み」です。ローマ書8章が中心です。そこにはイエスの御霊によって、神を「アバ、父」と呼び、からだの贖われることを待ち望んでいるうめきとして、「子とされること」が記されています。パウロにとって、律法を与えてくれた神を「アバ、父」と呼び、その「子とされること」で救いの完成を見ているところがあります。ローマ書の初めで「福音とは」と言って「それは御子に関することです」と言い張るパウロは、その福音を自分のなかの父親との関わりにも取り入れています。

「母の日」と「父の日」にできることがあります。感謝だけでなく、赦しの福音、和解の福音を届けることです。母親として、父親として、娘さんたちに、息子たちに、手紙を書いたり、電話をしたり、メールをしたりして、謝るべきことがあれば謝り、伝えたいことがあれば伝え、ともかく何かをすることができます。それはすでに亡くなられている母親、父親に対してもできます。そうすることで世代に渡る歩みに少しでも恵みを届けることになります。教会としても、少しでも工夫をすれば何かができます。宇治の牧師セミナーでもローマ書8章の「うめき」を取り上げながら、何ができるのか具体的に話し合ってみたいところです。

上沼昌雄記