「父と息子のリトリート」2012年5月1日(火)

しばらくぶりでチャック・スミスの教会の礼拝に出席しました。いつもと変わらず張りのある声でダニエル書3章から「第4の人」というテーマで、ご自分の今回の肺ガンの治療のことも含めて語ってくれました。治療の効果は出ているが、完全には取り除かれていなくて、続いての治療を医師たちが検討中であるという報告でした。礼拝堂の外にもスクリーンと椅子が置いてあって、気持ちよく晴れ上がった日でしたので、カリフォルニアの太陽の下でメッセージを聞きました。同時に考えさせられていることがありました。

それは、礼拝中の報告にもあり、ネットにも掲載されていて、しかも駐車場から見える建物にも垂れ幕で案内されていて、この教会独自の「父と息子のリトリート」が計画されていることです。前回の記事で、メンズ・ブレックファストで母親と娘のことを話すことになり、そこにも十戒で言われている父の(母の)咎を3代から4代にわたって受け継がせてしまう、罪の深さがありながら、「この面に関して福音は多くの場合に無視されています」とまとめました。無視しないで、お母様と和解の時を持った女性からの報告もいただきました。また、男性の視点でこの面に関しも書くように勧めてくれた方もおります。

この5月と6月には、「母の日」と「父の日」があります。コマーシャリズムの視点では「母の日」はそれなりに注目されていますが、「父の日」は頑張っている状態です。残念ながら教会もコマーシャリズムに乗ってしまっています。父と母への感謝な気持ちを表す時となっても、父の、母の、すなわち、親の咎を断ち切るための取り扱いも、礼拝も、ほとんどと言っていいほどなされていません。チャック・スミスの教会で父親と息子のリトリートが計画されることに、この教会の奥の深さを思わされました。

男性だけの集会であったプロミス・キーパーズで一番印象的であったのは、夫婦のことではなく、父親と息子の取り扱いの集会でした。拙書『父よ、父たちよ』で記した通りです。チャック・スミスのカルバリー・チャペルはプロミス・キーパーズにはどちらかというと否定的でしたが、大切なところはしっかりと取り入れているのです。それだけの深さがあるのです。太陽の下でメッセージを聞きながらそんなことに関心をしていました。

今回「母の日」が終わった週に日本に入り、「父の日」を大阪のある教会で一緒にして戻ってくる予定です。その教会の牧師は数年前の宇治の牧師のセミナーで「父親」のテーマを取り上げたときに、ご自分のお父様のことを語ってくれました。そのストーリーは何時かまとめられて本になることを願っていますが、その牧師と共演で何かができればと願っています。その何かは、父親として咎を受け継がせてしまう代わりに、恵みを届ける者にどのように変えられるのかと言うことです。

5月半ばに日本に入ってすぐに、8回目になりますが、宇治で牧師セミナーが予定されています。今回のテーマは「私のうめき、パウロのうめき、御霊のうめきーーローマ書研究の一つの試み」です。ローマ書8章が中心です。そこにはイエスの御霊によって、神を「アバ、父」と呼び、からだの贖われることを待ち望んでいるうめきとして、「子とされること」が記されています。パウロにとって、律法を与えてくれた神を「アバ、父」と呼び、その「子とされること」で救いの完成を見ているところがあります。ローマ書の初めで「福音とは」と言って「それは御子に関することです」と言い張るパウロは、その福音を自分のなかの父親との関わりにも取り入れています。

「母の日」と「父の日」にできることがあります。感謝だけでなく、赦しの福音、和解の福音を届けることです。母親として、父親として、娘さんたちに、息子たちに、手紙を書いたり、電話をしたり、メールをしたりして、謝るべきことがあれば謝り、伝えたいことがあれば伝え、ともかく何かをすることができます。それはすでに亡くなられている母親、父親に対してもできます。そうすることで世代に渡る歩みに少しでも恵みを届けることになります。教会としても、少しでも工夫をすれば何かができます。宇治の牧師セミナーでもローマ書8章の「うめき」を取り上げながら、何ができるのか具体的に話し合ってみたいところです。

上沼昌雄記

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「「父と息子のリトリート」2012年5月1日(火)」への3件のフィードバック

  1. 「父と息子のリトリート」を読ませていただきました。
    さわやかな風がこころにふきぬけました。
    父と子の中のぬぐいきれていない何かに時間をとってリトリートというかたちで
    向き合おうという時でしょうか。
    チャックスミス先生の視点の豊かさ、上沼先生の視点の深みを感じました。

    五月の連休は家族の時を持ちました。遠くに行く予定を変更して、電車で数十分の少し海と山を感じる豊橋という街に滞在してゆっくり過ごしました。

    そこであるドラマを家族で一緒に見ました。梅ちゃん先生という朝ドラです。厳格な父が出てきます。

    そのことがきっかけで、「父親」をテーマに夫の心に傾ける時間が与えられました。息子である夫と父の物語、父と祖母の物語をゆっくり明かしてくれました。それは思いもかけない恵みでした。

    その物語を聴きながら、「父親としての夫」に対して私自身が長く理解に苦しんでいたところに光がさして参りました。受け入れがたい父を持ちながら、その父を受け入れ、赦している夫に深い尊敬の念を抱くこととなりました。

    息子としての夫の姿を通して、娘としての私自身を見つめています。至らなさが見えてきました。私も和解の作業を続けていく必要を、夫との交わりで気づかせてもらいました。

    それはまだ心の奥深くで「母を赦せていない自分」の発見でした。もうずいぶん赦してきたなと思っていたのですが、夫を通してさらにその奥の井戸掘りが続いています。

    いままで母親としての自分の不完全さを夫に指摘されては、いろいろ言い訳をして「それは私の母親のせいだ」と言い返してきた自分のことを思い出しました。ああずれていると感じています。

    思いもかけない豊かな交わりです。自分の闇を照らされて痛いことですけれども、本当に今、夫の忠告をありがたいと感じ、痛烈だと感じ、ああずれていると感じています。神様の光です。

    母との和解はこれからも続きます。

    夫も父を見つめる作業を娘を通して続けています。
    夫はいいます。「父を赦しているけれども、父の姿をそのままにして娘と向き合ってはいけない。格闘している。」

    私も母の咎を受け継ぎながらも、恵みを継承するものとして、召されている、そして格闘しています。

    父として母としてわたしたちが娘を育んでいくことは、想像以上に大変なことだねと確認しながら、でも赤裸々に自分の家系を見つめることで恵みを受けています。

    夫はここ数ヶ月、本当によく自分を見つめ娘に向き合ってきました。
    娘が父と共にいることを喜ぶようになりました。

    上沼先生のこのたびの大阪、宇治での御奉仕の祝福を心から祈っています。
    きっと素敵な恵みと和解がひろがっていくに違いないとなんだか先取りして喜んでいます。

    アメリカ往復の無事、御家族の無事、またチャックスミス先生の無事を祈っています。

  2. 吉川恭子さん、連休にご家族で心豊か時を持たれたこと、何よりの恵みです。また家族、夫婦、親子の意味を実感するときでもあったことを知り、うれしくなります。聖書がそのような家族の絆を隠さないで書いていることに意味を感じます。絆には傷もあるのですが、恵みと届ける大切な手だてでもあるのでしょう。そんなことを吉川さんのレスポンスを読みながら思いました。続いての守りと祝福をお祈りいたします。上沼

    1. 先生のアメリカからの応答と我が家族への祈りにいつも励まされています。

      夫との父親をテーマにした交わりから、
      再び『父よ、父たちよ』を読みたくなりました。

      細切れの時間を使いながら、瞑想しています。
      第四章の後半、先生が御自宅を建てる場面、そして林道義『父性の復権』
      他者を大事にするレヴィナスの視点、三位一体の中で「忘れられた父なる神」
      をずっと読ませていただいています。

      p264からの「隠れた父なる神」の描写からには深い慰めを受けています。
      ゆっくり読ませていただいて、またレスポンスしたいと思っています。
      すばらしい書だと思っています。

      特に264^[\d@k

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