「初夏の落ち葉拾い」2012年5月7日(月)

両親の家にはアボカドの木が二本あります。昨年から実をならせていたのですが、今年不作で、自分たちで食べるだけで終わっています。その2本の木が、すでに初夏を迎えているカリフォルニアで葉を落とし始めているのです。もう役割が終わって、からだを楽にして休みますので、よろしくと言っているかのように、一気にではなく、少しずつ葉を落としています。週末にはその落ち葉拾いをしました。

まもなく日本での奉仕の旅が始まります。新緑の5月です。みずみずしい自然の潤いです。それが初夏に向かう自然の姿であると体に染み込んでいます。ここでも散歩に出ると、バラを初め多くの花が咲き乱れています。ハニーサックル(スイガラス)が甘い匂いをあちことの庭先で漂わせています。それぞれの神の作品に時があります。アボカドはしばらく休んで、もしかして不用な葉だけを落として、また新しい実をならせるために生き返るのかも知れません。それでもこの時期に落ち葉拾いをさせられるこの木は、何の木なのだろうかと考えてしまいます。

4月の終わりに桜の好きな秋田の友人がメールをくれました。 「今年の桜は、例年より少し送れる見込みです。気温が中々上がらないからです。桜が好まれるのは、何もないところに突然美しく咲き乱れ、あっという間に散ってしまうからだとある有名な日本研究者が言ってました。日本人の気質にあっているのかも知れません。T牧師も、精一杯主に仕え、終末論に関する著作などでも知られて、結構大きな教会を作り上げた方ですが、このかたは、悪性リンパ腫で50歳代で召されました。亡くなる少し前に後任の牧師を任命して、その後は、自分の面影を一切なくして(メッセージの録音などの殆どを処分して)パット消えた見事な最後であったことを思い出しました。」

晴れ上がった空の下で落ち葉拾いをしながら、友人のこの言葉を思い出しました。そうすると、新緑の5月に葉を落として見事に散っていく人生もあるのだと自分に言い聞かせていました。充分ではないが、家族が自分たちで食べられるだけのアボカドを実らせ、使命をそれなりに果たしたので、これで終わりですといっているかのようです。同時にアボカドの人生とは言えないのですが、その生き方を振り返ってみました。アボカドの実は一度なると、枝に付いている限り腐ることもなくそのまま収穫されるのを持っています。こちらの食べ頃に合わせて採ることができます。それでも永遠に枝に付いているのではなく、秋に実を実らせて春には終わりを迎えます。そして多分葉を落として、次の収穫のための準備に入るのでしょう。そのために不用なものをそり落としているかのようです。そしてよく見ると、新しい葉を枝の上に方にしっかりと付けています。

アボカドの実を二つに割って、大きな種を取り除いて、そのくぼみにしょう油を少し差して食べると、マグロの味を楽しめます。日本からの一世の方々から聞いて、結構試しています。アボカドは日本食にしっかりと入っていて、カリフォルニア・ロールとして楽しめます。イエスがアボカドを見たら、これも自分の関わった創造の作品の一つだと言ってくれそうです。

上沼昌雄記

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「「初夏の落ち葉拾い」2012年5月7日(月)」への6件のフィードバック

  1. 初夏の落葉拾いを読ませていただきました。

    御自分の説教テープさえも破棄されて天国にすーっと逝かれた先生、
    そんな潔い去り方ができる先生、桜のように花を咲かせ、桜のように次の世代にバトンを渡した先生のことを尊敬いたします。

    母の日を迎えました。実家に赤いカーネーションの花を送りました。
    ささやかなメッセージつきで送りました。天国への母の手紙です。
    上沼先生の先日のエッセイの延長線上で書くことができた手紙です。

    栄聖書教会の週の半ばのセルを楽しみにしています。
    末松先生を含めて二組の牧師御夫妻の参加があり、豊かなときでした。

    そこで「わたしは神様が見るように夫を尊敬していませんでした」
    という前置きで先日の朝ドラから始まった父親をめぐる夫婦の話をしました。

    すると、分かち合いが「夫婦喧嘩から気づかされた神様の前の自分の姿」というテーマに発展していきました。涙あり、笑いありのとても豊かな分かち合いとなりました。
    生きてきた歴史も違う、育ちも違う、それになんといっても性が違うために関心の方向が違う。。その夫婦の交わりには格闘があります。

    特に直子さんの素直なお話とそれを見つめる隆太郎先生のまなざしがいいなあと思いました。。

    先生の来日でまた光が日本にもたらされることを喜んでいます。

        

  2.   「世の中には難解な言葉でしか語れぬものがある」

     キッチンで、おからをダシ汁で煮込み、うの花をこしらえていた。
    こんにゃく、人参、油揚げを細かく切り、油で炒めてから大豆タンパク質が豊富な豆腐の搾りかすを大量に鍋に入れダシの水分が飛ぶまで入り炒める。
    けして上等な料理ではないが、うの花は手間ひまと多くの食材が必要な面倒くさい料理の一品である。
    調理している最中にキッチンの本棚から「暮らしの手帖」を取り出しパラパラとめくっては、グラビアに掲載されている料理の写真を眺め胃袋の活性化を即した。
    その「暮らしの手帖」53号に面白い記事を発見する。
    毎日新聞の解説委員、潮田道夫氏が日本におけるレヴィナス研究のひとり関西学院大学名誉教授の内田樹(たつる)の言葉を取り上げて「世の中には難解な言葉でしか語れぬものがある」の文章に同意を示していた。
    ジャーナリストの潮田氏は新聞記者教育で「やさしい言葉で語れぬものはない」と教育されてきたが、レヴィナスをして「世の中には難解な言葉でしか語れぬものがある」と発言した内田氏に賛成だとしている。
    僕もこの記事には多いに賛成で、出来上がったおからをつまみぐいしながら、研究課題が同じ(ユダヤ人問題、ホロコースト)内田樹氏に対しナパ・ヴァレー産のワインを呑み込みながら「いい事を言ってくれるじゃないか」と半ば酔いが回った頭で、真冬の最中この文章の構造を考えていた。

    「いろいろな学者の説は言葉巧みに組み立てているが、わかりにくい。説教じゃないといえ、凡人がわからないと説を論じても意味ないよ。マスターベーション。現実的じゃない。よく理解したつもりでも一晩寝たら、トイレに食事に時間に追われて元の自分に戻ってしまう。」と、どっかの同年代の親爺がサイトのブログで書いていた。
    なんともアマチュアリズムの自分勝手な独りよがりな意見である。
    多くのサイトで見かける一般論はこの程度であるからして、一晩寝ただけで忘れてしまうのであると思う。
    学問が分かりやすくあるべきとの意見は多いし良く聞かされる。
    そのようなパン論(一般論)には、最近ヘキヘキしていた。
    が、分かりやすくしていたのでは、どうしても到達できない事がある。
    「世の中には難解な言葉でしか語れぬものがある」な通り、本当に世の中には難解な言葉でしか語れぬものがある。
    難解な言葉でしか語れぬものがあるとしたって、駱駝が針の穴を通るほど難しくはない。

    そんな事を考えていたある日、夢を見る。
    荒涼した大地に強い西日が差していた。
    まだとうごまの木さえ生え揃わない大地をヨナと歩いていた。
    ヨナと歩きながら沢山の何かを話していた。
    何を話したのかは、夢から覚めた途端に忘れてしまったが、とても充実した夢だった。
    夢から目覚めたあとの感覚がとても素晴らしかった事だけは覚えている。
    一生のうちに何度も体験できることではない。
    起きた瞬間にうれしさがあり、同時に何とも言えない親しみがあり、無二の親友と出会ったかのようだった。
    その日一日を爽快に過ごせた事は確かだった。
    それは、気の許せる友人を得たという高揚感がまとわりついて、僕の気分を愉快にしてくれた。
    互いの言葉で打ち解ける親密な関係をしてヨナを受け入れる。
    教会に居ても、自分の居場所が無い場合だってある。
    人はよそよそしく自分本来を隠し、あくまで他者になりすまし教会でお行儀よくしている。
    そんな出来映えのよそよそしさに違和感を感じ、疎外感すら感じた事があった。
    「おまえら、十字架の前で格好つけすぎ!」である。
    そんなものとは別な質のものを夢が与えてくれた。

    それから数日が経ち、書斎でMacBookに文章を打ち込んでいたら、誰もいないはずの部屋に人の気配がした。
    床から積まれた本の隙間から、誰かがそっと僕を覗いている。
    まるで『1Q84』のリトル・ピープルがちょこまかといるかの様子で本の隙間から彼はこちらを見ていた。
    即座にヨナと感じた。遂に遊びの来たのかと思い、彼に目線を合わす事も無く、探す事もせず、勝手に書斎の中を遊ばせる。
    上沼先生は、僕がここ数年ヨナがニネベの街で何を言ったのか?ということを深く考え研究していることを知っている。
    聖書には書かれてない事を何度も何度も想像していた。
    それでヨナは僕がどういう人間なのか・そしてどのような本を読み、何を考えているのか知りたかったのだろうか?
    あれだけ夢の中で話し合ったので、遠慮なくヨナは訪れたのだろう。
    「何時でも来ていいよ!」とヨナに言葉を投げかけて、彼の動きに気を取られることもなく自由にさせて、また僕はMacBookに文章を打ち込む作業に着手する。

    「あなたの言っていることは、厳正な事実なのですか、それともただの仮説なのですか?」(1Q84 Book 2 P 273)と問われかねないが、、、、。
    ヨナは現実に現れ、リトル・ピープルが力を合わせ、線路を切り替える装置を動かしていたのと同じにヨナは我が家にある線路の切り替え装置を動かして、窓から月がふたつ浮かぶ夜空を見せてくれた。高速道路の路側帯にわざわざ車を止めて緊急非常口から出なくとも、我が家からは月が二つある光景が拝める。
    数万冊が蔵書されている我が家の書斎をヨナが訪れて異次元へと変えてくれた。
    主のいたずらか?はたまた、何かしらの示唆か啓示かはわからないが、ヨナが遣わされた事は僕の事実であり現実で、日常に注ぎ込まれた非日常である。

    上沼先生も月が二つあることの世界をなにかしら感じ味わっている。
    上沼先生という人も面白い人で、ある時期、マルテイン・ハイデッガーのことばかり書いていた時があった事を僕は記憶している。
    文章の内容を正確には思い出せないが、あの時期に届いたメールか、掲載前に送ってくるプログには哲学者マルティン・ハイデッガーの有名な反転の領域、もしくは修辞戦略である、同語反復的反転から深い洞察を制りだす(つくりだす)技法が盛り込まれて書かれていて唖然とした。
    同語反復的反転とは、真理の本質は本質の真理である(Das wesem der wahrheit ist die wahrheit des wesens)という書きかたの技術的なもので、それが突然出て来たりする。ご本人が意識しているのか意識していないのか、よくわからないが、ハイデッガーになりきって書いてらっしゃる。
    それで、ハイデッガー嫌いの私にも、「なるほどね!」と、うなずける文章だった。
    これが私的には凄く笑えた。
    文章を書くとは非常に難しく難儀が伴う。
    それらは作家、フランソワーズ・サガンの筆跡を読んで行くと良く理解できる。
    彼女は言葉がうまく出てこないときのように、入れ子式で細やかに、かつ功名に文章を作って行く。
    無駄のない簡素な文体でありながら、一つの文は長く、現代的な言葉(今)を感じさせる言葉の一つが、二つに交ざる。
    流れ落ちるように半ページに渡って続く一文は、特に複数の副詞が連なることで、読み手をはっとさせてくる。
    まさに厳密に言えば、どう考えても軽いものではなく、流れるような透明感があり徹底的にシンプルで無造作なという形容があてはまらない文体なのだ!(けして翻訳からでないフランス語原文からの解読)
    要するにサガンの文章というのは、音楽のような文体であり音符の並列のような精度なのである。
    サガンは作家としてプロなので、文章の制作過程における苦労の跡は見せたがらないが、これが同じ文章書きからすると苦労の継ぎ目が良くわかるのである。
    そんなことで僕は上沼先生のブログを内容と共に文体精度も拝見している。
    場合によっては上沼先生の書いた文書を一度、村上春樹の海辺のカフカのように、バロウズが考案したカットアップ手法を使い一度バラすことをする。
    そしてこの先生の頭の中を濃く解読して行く。
    それが積もりつもって、僕のPCのデーターには「上沼昌雄の頭の中」という文章が存在する。
    厳重非公開なのだが、毎年書き換えられている。
    公開するのは、僕か上沼師、昇天後と決めている。
    日本哲学界の大御所、大村師に聞いてはイケナイ事を平気で聞く暴挙を冒して、私の頭を混乱へと導いた21世紀初の愚問、「大村先生はヘーゲル哲学を聖書と同等と考えているのでしょうか?」は上沼師のおかしさを物語る。
    「なんで、あんな事をあえて大村先生に聞いたのですか?」の私の問いには、「いやっっ、、聞いてみたかった」と素直に答えてくれた。
    村上春樹に感化されたのか、段々とおかしくなる上沼師である。

    そんな上沼師からは自身のブログ掲載前に、いくつかの質問を投げかけてくる。
    我らの電子メールの往復書簡はかなりの数になっていた。
    それで「上沼先生には遠慮がある、だから好きな事が書かれてない!」と指摘した。
    最近は、上沼先生自身にある、多少の遠慮も取れて、パウロのユダヤ性だのマラーノだの、一般信徒じゃ突っ込んでいかない領域を平気で書くようになっていた。
    「先生!自由に書いちゃっていいんですよ!」と師に投げかけ、”世の中には難解な言葉でしか言い表せないものがある”な通りのままで書いて欲しいと投げかけた。

    そして去年の10月に新宿でお会いした時に、楽しい夕食を共にして、師から驚かされる言葉がでてきた。
    ヨナ書に対してある部分を想像して書いたと、上沼先生は僕に言ってきた。
    はっとさせられる驚嘆する事実。「それでいいんです。」と思わず口から言葉が出た。
    僕の頭の中に秘めた意見は「それって最高じゃないか!」である。
    それで、文章を完成させるに、どう2分割したら良いかと尋ねてきた。
    原稿を読んでいないので、方法論の即答は避けたが、半分は想像して書いた事に上沼先生はある意味、牧師の自縛を上手に解いたと考えた。
    荒井先生は自縛を解かれたそうで、僕としては「こういう先生って好きだな~~~!」とあの章を読んで、感嘆符を打ったが、上沼師に対しても荒井先生と同様に好意的な印象がさらに色濃くなっていった。
    上沼先生は、村上春樹を読み、文書を書くという事で、自己改革への道を錯綜しながらも突き進んできた。
    最近じゃ、かなり技巧的になってきてメタファーの導入がわざとらしくなく、すんなりしてきている。
    一時代に流行ったかのような牧師のありきたりの説教じゃなくなっている。
    神学者モーリス・ズンデルは100年続いた吐き気のするような教会の説教に終止符を打つように警告しているが、上沼師はそれに応えるように回答を出してきた。
    サガンのようなプロの文体じゃないのだが、読み手に媚は売られてなく、体系にも縛られず拘らず、キリスト者の自由を謳歌しだしてきているかの様子である。
    今回の「初夏の落ち葉拾い」には緩やかな隠喩があり比喩もある。それで、上沼先生が初夏の匂いと嗅ぎ取った、ハニー・サックル・ローズをジャズの名曲として
    この文章を打ち込みながら、iTuesで聴いている。
    多くのジャズ・ミュージシャンがトライした、ハニー・サックル・ローズはジャズ・スタンダードの名曲中の名曲。
    僕が好きなのはEva Cassidyのヴァージョンで、良くスイングする彼女の歌唱は、初夏の夜風に舞い耳に心地よい。
    今回、上沼師は母の日、父の日にまんまと乗っかった教会のコマーシャリズムを少し書いておられる。
    「親の咎を断ち切るための取り扱いも、礼拝も、ほとんどと言っていいほどなされていません。」
    親の咎を断ち切るまで、教会は辛辣には入って行かないのだろう。
    教会に”世の中には難解な言葉でしか語れぬものがある”な言葉は無縁なのだろうか?
    レヴィナスの書物は1行目から人を拒絶するが如く難しい。
    コマーシャリズムなど入る余地がないほど難解な覚悟を強いられる。
    教会がコマーシャリズムとアマチュアリズムに覆われて聖書がマニュアル化されぬように、牧師は聖書の難解性を十分に語らなくてはならぬと思う。
    潮田氏の記者教育における「やさしい言葉で語れぬものはない」も重要なのだが、潮田氏が気付いた”世の中には難解な言葉でしか語れぬものがある”はもっと重要だと僕は考える。上沼先生の最近の自由さはこの事に気付き始めている事の前触れか?

    村上春樹は過去に「飢えのないところに、文章は存在しない」(すばる 1982年 2月号 北海道におけるゲイ・タリーズ)と書いている。
    この言葉は、ニュージャーナリズムの旗手、ゲイ・タリーズの記者としての内なる飢えを正確に読み取っている。
    村上春樹はニュージャーナリズムに懐疑的なのだが、タリーズの記者としての優しさ、計算されたずるさ、そしてそれがばれてしまうところにタリーズの魅力があるという。はたしてニュージャーナリズムに”飢え”はあるのだろうかとしながらもタリーズに賞賛を贈る。
    ニュージャーナリズムとはベトナム戦争後、アメリカ社会を活性に導いたライター達を称して、作家トム・ウルフが名付けたもの。
    まあっ、はっきり言って精神的に硬派な連中ばかりが名をつらねる。
    女のシャイな真性を書かせたら最高のジョアン・デイデイオンだとか、常に難解な小説を書いては文壇に謎を残すトマス・ピンチョン、アメリカの逸脱した性の部分をカポーテイー以上に暴露したカート・ヴォネガット、ヒッピーの幻想をしてキリストの屍体をFBIに追われながらも持ち逃げして僕と同年代の連中にバカウケしたトム・ロビンズ、小説『スピード・ボート』で自身の辛辣な一面を書いたレナータ・アドラー、上沼先生のお嬢様が一時在籍したワシントン・ポストで名編集長を勤め部下のカール・バンスタイン&ボブ・ウッドワードにウオーターゲイトスキャンダルを叱責しながら暴露させたケネデイーのポン友ベンジャミン・ブラッドリー
    この連中と我らキリスト教徒を比べると僕らは軟弱の一言。
    言いたい事をはっきりと言って咎の部分にも図々しく入って行き、自身をさらけ出す。
    嘘もあり、容赦しない真実もある。
    精神も肉体も駆使して叩き上げたヘヴィーな連中ばかり、お行儀の良いクリスチャンとはひと味もふた味も違う連中ばかりを称している。
    それで村上春樹の「飢えのないところに文章は存在しない」を聖書的に言い換えれば「飢えのないところに、言葉は存在しない」になるのではないか?
    聖書の言葉は飢えのあるところに存在しているとさえ言えるだろう。
    飢えている癖して、自身の飢えを隠して探さず、聖書から盗用したきれいごとだけを語るクリスチャンに飽きれて、僕は自己活性をしガッツを求める為に教会をあとにした。そしてヨナとの辛辣で、親しみある遭遇。
    ヨナにも飢えはある。優しさがあり計算されたずるさがあり、それがばれてしまうところに彼の魅力がある。
    彼はさかなの胃袋の中で”飢え”をし体験して尚更飢えを探し求めた。
    この村上春樹の文書を読んでいて、僕はヨナがニュージャーナリズムであるかのごとくに彼を再認識した。
    あの時代にもニュージャーナリズムってあったのね!である。
    ヨナと僕はこの飢えの言葉の中にいて、双方が飢えた事で夢の中で激しく語り合い一致した。

    それで、満開の桜が散る中、僕はシャルル・ボードレール仏訳のエドガー・アラン・ポーを仏語で読む事となった。
    小学3年の図書の時間に児童文学として訳されたポーを読んだ過去から久しぶりに対面している。
    ボードレール仏訳のポーを読むきっかけとなったのは、ロマン派文学研究の第一人者にして日本の学界とも親交が深い、ブラウン大学名誉教授バートン・リーヴァイ・セント=アーマンド氏の貴重なコレクションが我が大学のメデイアセンターに寄贈された事に由来している。
    このコレクションには、ポー晩年の婚約者サラ・ヘレン・ホイットマンが切り取った文豪本人の髪の毛が含まれている。
    この遺髪はセント=アーマンド教授の来客用寝室の箪笥に保存されていたものだが、教授の甥がある日、まさしくその箪笥の前で、ほかならぬポー本人の亡霊が何かに怒りながらブツブツと呟いているのを目撃したという、曰く付きのものである。
    去年の9月20日付けの朝日新聞日曜版朝刊には、遺髪を収納するロケット・ペンダントのカラー写真がおかしな現象と共に掲載された。
    ポー本人の亡霊が、僕のベットの側で何かを語って欲しいと望み、仏訳原文のコピーを手元に置き、一部を握りしめたまま熟睡したが、ポーは僕の枕元に現れることはなかった。
    この文章を読んで、E・A ・ポーとキリスト教になんの関係があるのか?と思われる方は多い。
    特にクリスチャンは聖書や聖書関連の書物しか読まない傾向にある。
    それだけでいい気になっている人は多い。
    10年以上前に接したある神学校の生徒達なんて文学比喩から聖書解読を起こす事すら、多くの文学に意味のあることすら探そうと発見しようとせずに
    まさに、神学者ズンデルが盛んに言う100年も続いた吐き気のするような説教をありがたく頼っていた。
    海外には、リージェンシー大学精霊神学部の教授、ジェームス・フーストン氏がいるにもかかわらずである。
    上沼師が、村上春樹のことばかりを書いたおかげで、リヴァイバルジャパンの編集室にこれ以上村上春樹の事を掲載すれば購読をヤメるとの投書があったそうだ。私からすれば、今、村上春樹を語らなくてどうする?である。
    大体、今頃になってクリスチャンが村上春樹を語る事すら、遅れているのにである。
    しかし文学は未知の世界に到達できる強力な手段、ポーの書いた『群衆の人』を読むと、「おぞましき秘密」、あるいは、人間の良心が背負い込み「墓まで持っていくしかなくなる」重荷になぞられ、以下のように結ぶ、「かくして、あらゆる罪の正体は明かされぬままに終わる」ポーは『群衆の人』の小説本体の出だしで「ドイツには読まれる事を拒む本があるという、語られることを拒む秘密というのは、確かに存在する」と書いている。
    「読まれることを拒む本」と「読まれることを拒む心」を並べ書物と人間との類縁関係を提起しているのである。
    ポスト構造主義の代表格で精神分析論を展開するジャック・ラカンは1955年に発表した論考「『盗まれた手紙』についてのゼミナール」でポーを使い巧妙な論考を展開。
    ラカンともうひとりのポスト構造主義者ジャック・デリダとの論争を経て、アメリカはイエール学派の才女、バーブラ・ジョンソンの名論文「準処粋ーポー、ラカン、デリダ」(1978年)にしたって文学、哲学、神学の多くを絡めて優秀な学論を世に出した。
    最近じゃ、以前にこのブログで書いた、スラヴィオ・ジジェクの『身体なき器官』『ヒッチコックxジジェク』がサブカルチャーを使い神学論を解いている。はっきり言って、これらの本は現在の神学校の教えより100年は先を進んでいる。
    ポストモダーン文学のうちでもポール・オースター、ステイーブン・ミルハウザー、マーク・ダニエレブスキーなんてクリスチャンは殆ど読んだ事はないだろう。彼らを知らないこと自体すでに遅れているのである。
    変化を恐れる者、やさしい言葉で語れぬものはないとして、それらに甘んじているものは”世の中には難解な言葉でしか語れぬものがある”事など知らないのだろう。
    ありきたりではいけないのだ!
    何でも簡単に手に入り、なんでも簡単に食べれて、何でも簡単に出来る。
    僕らは言葉くらい、”世の中には難解な言葉でしか語れぬもの”を探さなくてはいけないのだろう。

    散りゆく桜の園には何故か幻想文学が似合うと思う。
    植物達がどうしてよいかわからぬ、まだ冬の様な気温の中、庭をしげしげと眺めていたら、夏に向けて楽園の様な庭を造ろうと考えた。
    その考えを過るように、ワズワース的な疑問が生じる。
    人間は何故?庭を造るのか?
    そこへ瞬時にヘルマン・ヘッセ的な回答が浮かんだ。
    きっと、アダムとエバの楽園の時代の記憶がそうさせているのだ!と考え、僕は夏に向けて楽園を作る事を神に誓う。
    ミルトンの失楽園じゃない、本当の楽園らしきを、、、、。
    CS・ルイスのファンタジーは得意ではないが、私の聖書における幻想はとどまる所を知らないのである。

                     フランス思想研究者    伊東禮輔

    参考文献
    暮らしの手帖 53号  自然への恐れを忘れない 潮田道夫
    雑誌『ユリイカ』1997年12月号 特集:バロウズのいない世界
    雑誌『ユリイカ』1989年6月号 総特集:村上春樹の世界
    1Q84 Book2/村上春樹
    雑誌『すばる』 1982年 2月号 北海道におけるゲイ・タリーズ/村上春樹
    エドガー・アラン・ポー/マリー・ロジェの謎(ハーヴァード版全集から)
    筆者不明/アナベル・リーの遺書(ハーヴァード大学ホートン図書文庫より)
    バートン・リーヴァイ・セント-=アーマンド/アメリカ版 死者の書 アルンハイムの地所
    アメリカン・ナルシス メルヴィルからミルハウザーまで/柴田元幸

  3. 久しぶりの伊東名調、あちこちが刺激されて、飛び出していきそうです。「世の中には難解な言葉でしか語り得ないものがある。」確かにレヴィナスは難解ですが、それでも惹きつけられます。アブラハムの旅出からメシア待望が彼の大きな枠です。まさにユダヤ人ですが、それゆえに、難しい人生を強いられているのです。難解になるのは当然です。また例のところでお会いできると良いですが。

  4. ポーは『群衆の人』で「自らを読み取られることを拒む書物が存在することは神の恵みの一つなのだ」と結ぶ、この下りの素晴らしさは何を語るのか?
    レヴィナスの未稿を訳していて、その難解さにおいて拒んで来る彼の書いた書を相手にしているとは、神の恵みなのであろうか?
    ヨナ書の何も書かれていない難解さは、果たして神の恵みなのだろうか?
    現在、レヴィナス訳しながらもポーの駄作とされてきた『マリー・ロジェの謎』を解読していて再評価を与える論文を書いています。
    フランシス・オットー・マシーセンの名著「アメリカン・ルネッサンス」を使ってポストモダーン文学の連中を書いています。
    しかし、オースターにしろミルハウザーにしろ、ポーの影響は過大です。

    上沼先生、久しぶりです。
    それでは、先生の都合の良いお時間を指定して下さい。
    日付け、及び時間の指定は0523AM10:00という風にご記入ください。
    現在、リハビリ中ですが、這ってでもいつもの場所まで伺います。

    それでは、、。

    伊東

    1. 伊東さんへ
      ポール・オースターの『幻影の書』(新潮文庫)を手に入れました。
      ヨナ書の沈黙と言えそうです。パウロの沈黙は如何ですか。
      それでは0606PM2:00で如何でしょう。
      それでは、、。

  5. 了解しました、それでは当日お会いしましょう。
    それまで、良き説教がなされる事を祈っています。
    また、来日中によき書物との出会いもありますように、、。

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