「今また、レヴィナス?!」2012年6月25日(月)

5月17日(木)に成田に着いて、そのまま大阪の隠れ家に向かった。宇治の牧師セミナーを含めて10日間ほどの関西での奉仕が予定されていた。大阪の隠れ家から地下鉄ですぐに難波に入ることができる。少し歩いてJR難波の上にジュンク堂が、待っていましたとばかり迎えてくれる。何かをめざしていたわけではないが、思想・哲学関係の書棚をゆっくり観ていたときに、雑誌『現代思想』(青土社)の今年の3月臨時増刊号として「総特集・レヴィナス」が目に入った。雑誌といっても358ページのしっかりとしたもので、手に取ってみて、レヴィナスが再評価されているのか、レヴィナス・ルネッサンスのようなものが起こっているのか、といってもそれほどレヴィナスの本が書棚の前面に紹介されているわけでもなく、驚きと、好奇心があって購入した。

5週間の間は奉仕と旅の続きでほとんど読むことができなかった。最上川の隠れ家の机の上で鎮座していて、それを横目で眺めながら、どうして今またレヴィナスなのだろうか好奇心をそそられていた。先週の水曜日(6月20日)に家に帰ってきた。幸い気温も高くなく快適な日々を、時差ぼけと闘いながら、この雑誌をあちこちめくりながら読み出した。対談で若手の研究者が最近のレヴィナス研究の動向を紹介してくれている。一つは、レヴィナスは1995年のクリスマスに亡くなっているが、2000年にはイスラエルにレヴィナス研究所が創設され、『レヴィナス研究』という定期刊行物を出している。もう一つは、2009年からレヴィナス全集の刊行が始まり、7巻の予定のうちすでに1巻と2巻が出版された。

そんな背景があって、欧米にイスラエルを入れて、確かにレヴィナス・ルネッサンスが起こっている。日本の若手の研究者も起こされている。この雑誌の寄稿者も若手が中心になっている。総じての印象は、ユダヤ人レヴィナス、ユダヤ教徒哲学者レヴィナスという面を捉え直そうとしている。それまでは西洋の哲学の流れとしてレヴィナスが紹介されていたようであるが、ここに来てユダヤ思想を前面に出してレヴィナスを理解しようとしている。「レヴィナスとタルムード」「『雅歌』の形而上学/生命の現象学」という論文がある。

数年前にレヴィナスの『全体性と無限』と『存在の彼方へ』を一夏読み続けた。分かったのは前書の本文がアブラハムの旅で始まり、メシア待望で終わっていることであった。結局ユダヤ思想をそのまま哲学しているのである。といってもその言い方自身が矛盾に満ちたものである。哲学はギリシャ思想を元にして世界の捉え直しである。神を元にしているユダヤ教は哲学にはなり得ない。それを哲学していることにレヴィナスの不思議な魅力がある。アブラハムからメシアで終わる世界を哲学しているのである。それでいてそこに西洋が失ってきたもの、それ以上に西洋が自己のうちに取り入れてきたシステムの暴力性を打ち破るものをみている。後書『存在の彼方へ』はその暴力で抹殺された600万の同胞に捧げられているし、その内容もレヴィナス自身のホロコーストによる外傷が感じられる。それが何とも不思議な文体で表現されることで、レヴィナス自身のいやしがなされたかのようです。

レヴィナス・ルネッサンスがあるとすれば、それはレヴィナスの背後のユダヤ思想の回復でもある。言い方を変えれば、あのアウシュビッツで西洋の哲学と神学は崩壊したのである。その後に抹殺されたと思ったユダヤ思想が吹き返してきたのである。そこにレヴィナスが生き生きと迎えられているのは、そのユダヤ思想を普遍化していること、すなわち、哲学していることと言える。そこで展開されるものは旧約聖書とタルムードで彼らが身に着けてきたものである。あたかも新しいいのちの芽生えがあるかのようである。

そのユダヤ思想と、一世紀のユダヤ思想を元に新約聖書を読み直しているイギリスの新約学者であるN.T.ライトの書物が英語圏で圧倒的に読まれているのは、少なくとも私個人のなかでは結びつく。西洋、すなわち、ギリシャ思想とローマ法で読まれてきた2千年の西洋のキリスト教が見えなかったものを、一世紀のユダヤ思想と結びつけることで、聖書全体の流れがもう一度息を吹き返してきているからである。そんな現象が英語圏で起こっている。そんな意味もあってライトの一般向けの案内書とも言えるSimply Christianを訳出している。

かつて「キリスト教徒は何か」で好評を博した雑誌『pen』が、この3月号で「エルサレム」を特集しているのも、偶然に過ぎないとは言え、興味深い現象でもある。いま直面していることは、単なるイスラエルの回復とか、イスラエル国家の支援というのではなく、ユダヤ思想をしっかり背景に聖書を読み直していく作業である。それはまた単に語学としての聖書理解にとどまらない、骨の折れる根気のいる作業である。そこには伝統的な聖書理解を超えるものを含んでいるからである。レヴィナスによって始まった西洋の伝統的な思想の問い直しが、神学の領域にももたらされて来ているからである。

上沼昌雄記

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“「今また、レヴィナス?!」2012年6月25日(月)” への 1 件のフィードバック

  1. レヴィナスに助けられていることがあります。
    今年1月2日のエッセイでレヴィナスの「他者」のことが上沼先生によって紹介されていました。
    レヴィナスが他者というものに言及していること、時間もまた他者として考察していることが紹介されていました。

    「他者」の存在によってがどれだけ自分の人生が豊かになっただろうかと思います。他者をどこかでいやだいやだと思いながら、でもその他者によって自分がとても生かされてきたこと、生かされていることを思うのです。

    神様を知らなかった頃、他者を本当の意味でありがたくとらえることはできませんでした。自分1人の方が楽だと思って生きていました。自分を自分勝手に義として生きていました。今もまだまだそのような部分がたくさんあります。

    こちらの怒りを引き出すような他者の存在を今もいやだなと思ったり、会いたくないなと思うことがあります。

    しかし、ゆっくりと他者がどんなにか自分にとって大事かと言うことも少しずつ少しずつ思っています。怒りを引き出してくれる人は自分のこころを見つめさせてくれるのです。

    たとえ自分にとっては当座はありがたい存在ではないように感じたとしても
    その他者によって自分は育てられています。ありがたくない部分が自分に厳然としてあるのです。その部分に他者を通して気づかされるのです。

    母というのは娘の私にとっては強烈な存在でした。こちらの心にたくさんの波を立てる存在でした。しかし、今、娘とのかかわりを通して、そのいやな部分を引き継いでいる自分というものを事実としてみることがあります。
    たしかにあのいやだった母と同じような言葉を吐いている自分に時々会い、はっとしてしまうのです。受け継いでいるのです。

    わたしが赦されなければならないこと、キリストの血潮によって赦されなければならないことを思います。わたしは母を一方的に責めることはできないのだと、何十年も経って気づくこととなっているのです。

    私は子どもとしてあなたにずいぶん怒りましたが、私も赦されなければ生きていけない不十分な母親なんですよ。ずっと責め立てていてごめんなさいねと時々素直に天国に語りかけます。
    それがわたしにとっての和解の作業です。

    母という他者はたくさんの問いを残してくれました。苦しみもたくさんもらいました。それでもそれゆえにとても人生に深みが増しました。

    Simply Christianの日本語訳ができるのが楽しみです。
    レヴィナスのこともまだまだわからないことがいっぱいですけれども
    神学モノローグを楽しみに読んでいます。

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