今回の日本での奉仕では印象的な男性集会や、今までとは多少異なる交わりをいただきました。そこでいただいた導きを続いて思い巡らしています。何かが発展しそうな感じです。そのような思いとは別に、心に残っていて、ことあるごとに思い起こすことがあります。友人の牧師が連れて行ってくれた禅寺の庭です。その庭を前にふたりで腰を下ろしてただ眺めていただけなのですが、しかもその庭には何か特別のものがあるわけでないのですが、いまだにその庭が心に浮かんできて、何かを語っています。
関西で牧会・伝道をしている水野健牧師は茶道をされています。毎年のように宇治の牧師セミナーで一緒になります。観光案内にない京都を案内しますよということで、前回はキリシタン関係のお寺に連れて行ってくれました。今回は「龍」をテーマにお寺周りをしましょうということで、彦根での奉仕の次の日に京都の花園の駅で落ち合いました。妙心寺という臨済宗のお寺で年に一度の懺悔の祈りがあって、それを観ることができると言うことで、水野牧師に付いていきました。観ながら禅のお坊さんたちが何を懺悔しているのか不思議に思いました。
確かに本堂の天井に大きな龍の絵が描かれています。次の建仁寺というお寺にも龍が掲げられていました。ともに臨済宗ですが、守りの象徴のように龍を観ているようです。言われてみると確かに怖いとか、異様だという感じがしないで、自然にそこにいるかのような感じがします。その辺はまさに禅宗なのかも知れません。
妙心寺の塔頭の一つで沙羅双樹の寺といわれる東林院でお茶をいただき、沙羅双樹の花をお坊さんの解説付きで眺めました。人が多すぎてゆっくりとすることができなかったのですが、沙羅像寿の花を見せながら説法をする世界があることが分かりました。続いての建仁寺はあの祇園の隣というか、その先にあって、妙心寺より寂しそうな臨済宗のお寺です。比較的近年に書かれた龍の絵を眺めた後に、座禅の修行に使われる部屋の並びに縁側に囲まれた庭がありました。観光客も少なく、その縁側の一つにふたりで腰を下ろして庭を眺めることになりました。
案内図で「潮音庭」とついているその中庭は、特に変哲があるわけでもないのですが、不思議に眺めているだけで落ち着きを与えてくれます。中庭ですので、向こうからただ眺めている人もいます。同じように何かを感じているのが分かります。花があるわけでなく、ただ数本の樹がその中庭にふさわしく置いてあるだけです。大きすぎて邪魔になることも、小さすぎて物足りなくなることもなく、しかもその建物の年代にふさわしく佇んでいるのです。禅寺はこの庭で勝負をしているのですねと、思わず水野牧師に話してみました。庭を見せるだけで伝えようとするものがあるのです。そういえば、石庭で有名な竜安寺も妙心寺の一つなのです。
いま家に戻ってきて、アメリカの大きな自然に囲まれているのですが、何かを置き忘れてきたような感覚がよみがえってきます。あの中庭はそのままなのですが、何か創造の作品のなかで失ってきたものに気づかされて探し求めているような感覚です。もったいないものを置き忘れてきてしまった感じです。 修道院には中庭があって回廊があって、そこに創造の回復のようなイメージをいただきますが、プロテスタントの建物にはその辺の感覚はないようです。 聖書にはあっても、私たちのキリスト教で失ってしまったのかも知れません。
メシアの到来には、荒野と砂漠がサフランの花を咲かせることがイザヤ書で約束されています。あの失ったエデンの園の回復です。その園を含めた新天新地が約束されています。全地がその創造の神を讃えることが黙示録で記されています。その約束を実現しようと、最上川の隠れ家の周りで花園が作られています。その約束を思い出させてくれるかのように、手付かずの知床半島の自然を今回は向こう側の海から眺めることになりました。
上沼昌雄記
『禅寺と庭』を読ませていただきました。
中庭を見つめながら何か失われたものを人々がみつめている光景が浮かびます。ひっそりと静まっている中庭がなにかを静かに人々に問うている情景が浮かびます。
きのうは数年来お世話になっているカウンセラー「聖書に基づいた方」の方と
会って
『穴』という事で話してきました。
「わたしは必死で穴を埋めようとしている。その穴を自分がいくら自分の力で埋めようとしても埋まらないことに気づいてきた。神様しか埋められない穴だ
とおもう」
そんなことを話してきました。
楽しみな金曜の朝です。チャックスミスが少年のように目をきらきらしてメッセージを語っています。
「人は人に重荷を負わせたがる。だけど他人の重荷を終えるのは祈りだけだ。」そういっています。
イエスキリストのことを考えてベッドに横たわるとうれしくてうれしくて眠れなくなるほど平安な気持ちに満ちる。。。そう話す目は本当に少年のようにきらきらして美しいものです。
チャックスミスを見ているとイエス様が映って見えます。イエス様を慕って慕って喜んでいる子どもの純粋な心が、見ている私にもよく伝わって、ますますこのチャックスミスをこんな目にさせるイエス様を知りたいと思います。
上沼先生
横浜にある「キリスト教 主の羊教会」の中川と申します。
KZ兄から先生のことを紹介され、『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』を貸していただきました。
先日、ちょうと開拓5年周年を迎えました。教会の開拓当初よりいろいろな事があって思い悩む中で、神さまは私の最も罪深く汚れていると思われるところでこそ深く交わりをもちたいと願っているのだし、私の傷ついて膿んでいるところにこそたくさん関わってくださっていることに気づかされてきました。
「罪人・・・」と教えられます。確かにそうでしょう。でも、そうとはいえ、人間はそんなに簡単なものではない。そんなことを考えているときに、KZ兄と出会い、上沼先生を紹介して頂きました。
レヴィナスですが、学生時代に少し手を出して、まるで分からない人でした。
でも歳のせいか、最近、先生の影響でレヴィナスについての本を読み始めて分かるような気がしています。
ぜひ、帰国された際は、先生とお会いしたく思っています。
先生のブログがあることを知って、嬉しくて書き込みをしました。
こんごとも、よろしくお願い致します。
なかがわ
中川先生
書き込みをありがとうございます。私も先生にお会いしたいです。
レヴィナスが、語りえないものとか、満たされない渇望とか、存在の彼方とか、存在の手前とか、他者とかといっていますので、そうなったらもう当然分からない世界です。すべてを分かる世界でやってきて、ホロコーストを経験して、挫折したのでしょう。その外傷を癒すかのように語っているように思えてきました。だれもが持っていて、だれも届きえない世界を目指しているかのようです。
こちらこそよろしくお願いいたします。上沼
お返事コメントありがとうございます。
先生の著書『闇を隠れ家とする私』で、p128に「受肉の神学」について、先生はパウロを通して「肉の弱さの神学」をみておられます。そして十字架の神学が語られるも、まだ「肉の問題は未解決」だと。
私はルターの受肉論について研究していたのですが、どの参考文献をみても受肉論がほとんどなく、十字架論ばかりでした。
確かに、ルター神学は「十字架の神学」といわれる理由はわかりますが、その土台にキリストの受肉を通しての豊かな福音理解があることに気づかされました。
ルターの著作を読むと聖書講義によって培われた豊かな福音理解があります。受肉論が乏しいところに語られる十字架論は、その鋭さこそあれ、その内容は乏しいです。
受肉論は人間の現実と向かい合うところにあります。
先生が「受肉の神学」で書かれたことは、先生の視線が深く人間存在そのもに対して向けられているところからきたものなのだろうと思いました。
先生がレヴィナスに魅かれる理由も分かるような気がします。
中川先生
パウロは肉の弱さを知っていました。おそらくルターもそうだと思います。ただこちらの読みで、パウロもルターも十字架だけが前面に出てくるような読み方をしてきたのだと思います。義認論中心の救済論です。受肉と復活が後ろに退いてしまいます。肉の弱さは復活で新しい局面になります。パウロに関しては、この面での理解が最近なされてきています。ルターに関しても同じような理解が可能なのか、大変興味をそそるところです。先生、是非調べてください。
このこととレヴィナスを結びつけてくださり、なるほどと納得をしています。レヴィナスには存在の何とも言えない脆さみたいな感性が、あのホロコーストの体験から身についているのでしょう。そのような脆さが、神学体系なのでおおい隠されてしまっている西洋の思想・神学に、逆に恐怖感を持っているのかも知れません。先生のコメントでレヴィナスへの興味がさらに湧いてきました。