「ホロコストで犠牲になった600万の同胞に捧げられた本」2012年8月1日(水)

それはレヴィナスの1974年に出た『存在の彼方へ』(講談社学術文庫)である。しかしこの本は、紛れもなく哲学の書である。「語りえないものの秘密を漏洩すること、おそらくそれが哲学の使命にほかならない」(31頁)と言ってはばからない。その「語りえないもの」を存在の彼方に見ている。とすれば、それは当然理解を超えたことを語ることになる。難解なのは当然である。それでいて、その語りえないものが自分の存在の手前に隠れているようで、何とも言えない親しみを感じさせる。

それゆえにと言えるほどに、この本の内容と先の献呈のことばが結びつかない。単に献呈されたものとしか思っていなかった。しかしそうでもなさそうである。前回のモノローグで紹介した雑誌の中の記事で、レヴィナスを精神病理的な視点で「外傷の哲学」と紹介しているものに出会った。『存在の彼方へ』では、その外傷が内在化されているというのである。それによってレヴィナスは救われ、持ちこたえることができたとさえ言っている。同じホロコストの経験者のプリモ・レーヴィやパウル・シェランのように自殺はしなくてすんだとまで言う。

「主体は人質ないし捕囚である。」(260頁)「自己とは人質であり、人質としての自己はすでに他人たちの身代わりになっている。」(273頁)まさに捕虜として閉じ込められていた自分の存在の姿を語っている。それは「一糸もまとわぬこの暴露において、他人たちによって脅迫される」(261頁)どうにもならない姿である。当然哲学の書なので、自分の体験を語っているわけでない。それでいながら、ホロコストで犠牲になった600万の同胞の中に自分の親族と親戚が含まれていることを、捕虜から解放されたあとに知った者だけが語ることができる、存在のあり方である。

ホロコストの生き残りの人が、その体験を語ってもだれにも分かってもらえないというのが、その人を死に追いやるとも言われる。そうだとすると、その「語りえないもの」をあえて哲学のテーマとすることで、レヴィナス自身が自分のいやしを体験したと言っても過言でない。その語りえないものは、しかしその程度の差がありながらも、だれもが抱えていることである。語っても分かってもらえない、その人だけがうちに抱えている外傷・トラウマである。分かっていることで、こうすれば大丈夫といわれていることをどれだけ頑張ってやっても、どのようにもいやしえない世界である。聖書の教えにマニュアルのように従ってやれば解放されると言われても、なおそこに留まっている「語りえないもの」である。

そんな語りえないものの周りを彷徨っているようなレヴィナスの哲学が、しかし、「苦痛は自我を狼狽させる」(159頁)のように、不思議に届いてきて、こちらのことばの手前でもがいている世界に触れてくることがある。筋道立ててすべてを理解することは不可能であっても、自己とは「自己に反する自己なのだ」(131頁)というように、語られていることに同意することがある。それを哲学的に「時間は自己を超えて過ぎ去っていく、、、かかる受動的総合、それは老いである」(133頁)と言われると、なるほどと思う。語りえない、いやしえない世界に届いてくるものがある。

このレヴィナスの外傷の内在化とそのいやしは、しかし、このことばが捧げられている一面というか、隠れた面である。ホロコストの生き残りとしての「語りえないもの」のなお覆い隠された面である。レヴィナス自身が一義的に意図したことではなかったが、「語りえないもの」の周縁でもがいているそのもがきが、比較しようのない程度の外傷を負っているこちら側に届いてくるのである。

このことばが捧げられた表の面は、取りも直さず、その暴力を容認してきたキリスト教を基盤にしてきた西洋の思想への静かな抵抗である。英語では単にinterestと訳されている「内存在性の我執」への抵抗である。すなわち自分の存在にしか関心がない、そのために他者をも自分のために使ってしまう、そんな我執を西洋のキリスト教が容認していることへの抵抗である。遠慮がちに言う。「戦争とは、存在することのかかる我執を描く武勲詩ないし劇なのだ。」(23,24頁)キリスト教会に属する者の多くが、暗黙のうちにホロコストを容認してしまうその存在理解へのしたたかな抵抗である。

何とか戦争を避けたい、避けなければならない、そのために哲学者として、特にホロコストの生き残りとしての責任表明である。その責任表明がレヴィナスを支えたのである。結果としてレヴィナスが語るものが、本来は語りえないものでありながら、こちらのことばの手前、存在の手前に届いてくるのである。多分それは、戦後70年近く経ってより届いてきていると言える。8月に入った。まもなく67年目の終戦記念日を迎えようとしている。

上沼昌雄記

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“「ホロコストで犠牲になった600万の同胞に捧げられた本」2012年8月1日(水)” への 1 件のフィードバック

  1. 二ヶ月近くたって『ホロコストで犠牲になった六百万の同胞に捧げられた本』を読みました。あの時はとてもよめなかったのに、今は食い込むようにこころに響いています。不思議です。

    レヴィナスが哲学を通して静かな抵抗をしている。他人を自分のために利用しようとする雰囲気を暗黙のうちに容認している西洋のキリスト教に哲学を通して静かに抵抗しようとしている。

    レヴイナスが自分は少なくとも自殺しないで生きている‥というところを静かに考えてみています。

    今朝は朝の静かな時間にフィリップ・ヤンシーの『神を信じて何になるのか』という本の抜粋記事を読みました。これも以前は読めなかったものです。でも今は響いてきます。
    その題名にひかれて読んでいきました。

    この叫びは私の叫びであり、また強く父の叫びです。
    父にやわらかく神様の話をしたときに「神なんているのかなあ。」といいました。「神や仏などいない気がする。。」とつぶやきました。

    そこにすぐ応答できず、自分もうめいてしまいました。
    神様を信じていると思っていたわたしが、あるときは「神なんて本当にいるのだろうか。」と思ってうめくときが確かにあるのです。

    二学期が経って一ヶ月たち、娘も学校に順調に通うようになり、1人の時間がたっぷりできると、母の死に対する深い問いがあたまをもたげてくるのです。

    神様、あなたは本当にいるのでしょうか。。と。
    それは不意に襲ってくる喪失の闇に耐えられそうになくなったとき、母と似たようなことばで子どもをしかりつけている母親に出くわしたとき、そのことに対して何もできず、ただその罵声を聞いているしかないときにでてくる問いです。

    それでもなんともいえない沈黙の中で静かに触れてくださる存在があることを感じています。それで私も自殺しないですんでいると思うのです。

    それで、悲しみにくれる父親のうめきに向き合えると思っています。
    母と似たような子育てをしているひとをみて自分の傷が痛むときにそこにとどまれるとおもうのです。

    秋がすすんでくるこのすこし寂しくなる季節、静かにそばにたたずんでくださる主に支えられて、静かな平安を味わっています。

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