「聖書学者と歴史観」2012年8月6日(月)

前回、ホロコーストの600万の犠牲者に捧げられたレヴィナスの本を紹介した。「語りえないもの」を語ろうとするレヴィナスの哲学が、戦後70年近くなって、ホロコーストは啓蒙思想の終焉であると言われてきたことを裏付けてきた。すなわち、理性によって築きあがれたシステムの崩壊である。理性を信じて歩んできた西洋の世界の行き詰まりである。その西洋を支えてきたキリスト教の崩壊である。

ヨーロッパのキリスト者が直面している現実である。アメリカのキリスト者はいまだ啓蒙思想の中にあると言える。その影響を受けている日本の福音主義もかたちとして啓蒙思想の中にある。イギリスの新約学者であるN.T.ライトは、あたかも、その崩壊したキリスト教の中から、逆に一世紀のユダヤ教を背景に新約聖書を読み直そうとしている。イスラエルを新約聖書理解に欠かせないものとして、ほとんどの著書で一章を割いている。少し長いのであるが、Simply Christianの6章「イスラエル」から、ホロコーストに言及している部分を引用する。

「クリスチャンが、古代イスラエルでも、イエスの時代のイスラエルでも、現代のイスラエルでも、ともかくイスラエルについて何かを語ろうとすると恐ろしいほど困難を感じる。数週間前に私はヤド・ヴァシェム(“記念と名前”という意味)を訪ねた。エルサレムにあるホロコースト記念館である。そこに刻まれている一人のユダ人の証を、初めてではないが、読んだ。数十人のユダヤ人と共に密封の牛輸送貨車に詰め込まれ、まさに生き地獄で、死に追い込まれた。続いて私は、堅い石で囲まれたプレートの周りを巡った。そこには何千というユダヤ人が集められ、殺戮のために連れ去られたヨーロッパの都市の名前が記されている。ユダヤ人について何かを言おうと思えば、悲しみで心がうずき、首を横に振りたくなり、深い恥を感じる。ヨーロッパの文化のなかから(ある人はいまだ“クリスチャン”文化と思っているが)そのようなことが考えられ、なされたのだ。しかし、だからといって何も言うことがないということではない。ユダヤ人の物語の中でこそイエスがなしたことに意味があるのであるが、そのユダヤ人の物語について何も言わないということは、ヒットラーが現実化する前から長い間潜在していた反ユダヤ主義を黙認することになる。どんなに戸惑いがあっても、語らなければならない。」(SPCK 英国2011年版 62,63頁 私訳)

このN.T. Wrightが、一世紀のユダヤ教を背景に新約聖書を読み直そうとしている思想的な経緯は熟知していないのであるが、あたかもホロコーストで崩壊したキリスト教の廃墟から元来の新約聖書の背景に迫ることで、建て直しをしているかのようである。当然そこに啓蒙思想を背景にした伝統的な神学からの反発がある。それでもN.T. Wrightの主張が確実に受け入れられてきている。一つには、伝統的な神学の行き詰まりを感じてきているからである。

そんな流れを生み出しているのは、このN.T. Wrightという聖書学者の歴史観によっていると言える。多くの聖書学者はどちらかというと言語学者であって、啓蒙思想の枠をそのまま継承している。歴史観がまったく乏しい。それゆえに釈義がどれだけ厳密であっても、その枠からは出られない。その枠は、聖書理解を聖書の世界から西洋の論理の世界にはめ込んでいるだけでなく、すでに機能しないと、N.T. Wrightは見ている。そのシステムはすでに限界に来ているのである。

ホロコーストの生き残りであるレヴィナスが、タルムードの学者であり、哲学者としてその西洋の崩壊の中から、「他者」を視点に倫理を築こうとしたように、ヨーロッパの新約学者であるN.T. Wrightが、そのホロコーストを暗黙のうちの容認したキリスト教の崩壊の中から、一世紀のユダヤ教を元に聖書を読み直そうとしているのは、歴史的な必然と言えそうである。

上沼昌雄記

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“「聖書学者と歴史観」2012年8月6日(月)” への 2 件のフィードバック

  1. 夏休みに入り、三週間ほど。娘と共に郷里の福岡に帰りました。

    福岡空港を降り立ったとたんに、すっかり自分としては使っていない博多の言葉が聞こえてきます。その空気を感じたとたん、体の緊張がとけていきます。
    その感覚を不思議に思っています。

    ふるさとの家にはもう母の肉声はきこえません。生前とは違い何があってもにこにこと笑っている母の遺影がこちらに微笑みかけているだけです。

    わたしが帰ると父は私を母の生き返りと思ってしまっています。
    いつもはひとりしかいない家に、ただいまといっても何も返事が帰ってこない
    家に、生きている人の気配がするのが父にとってはまるで母が生き返ったかのような錯覚になるのです。

    突然の死という空虚をあじわって、遺書も何もなく、母が去ってしまって
    どう現実を受け止めていいのかわからない時間が過ぎていきました。
    いまもまだ受け止められない部分がたくさんあります。

    しかし、そういういくつもの波を超えて、再び家をおとづれてみると目に見える
    存在としてはいないはずの母の存在や空気を感じています。

    そして生きている私もまた、いつかは目に見えなくなる世界に行くのだということを思うのです。

    生きている世界だけを見るとつらくて仕方ありません。しかし、天国を思いながら生きると生がとても生き生きとして見えてきます。

    無言の中で死においやられたたくさんの同胞を意識して生きる、レヴィナスも
    またたくさんのかけがえのない死を決して無駄にした生き方をしたくないと思っているのでしょうか。

    生きている人だけのなかでこの世界は動いているのではないということを
    改めて感じる8月です。

  2. 吉川さんへ、お元気に3週間の故郷への旅をお嬢さんとされたこと、感謝です。新しい出発にもなっているようです。レヴィナスは自分の家族のほとんどをホロコストで失っています。語ることのできないものを持っているのだと思います。残暑厳しき折、ご自愛ください。上沼

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