「神の沈黙?」2012年9月12日(水)

 前回の「二つの1639年」の関わりで、遠藤周作の『沈黙』をもう一度読んでみました。それは、6年前の1633年に長崎で逆さ穴吊りの拷問にあって、他の7人は信仰を守り抜いて穴のなかで息絶えたのですが、わずか5時間で棄教を誓った神父、クリストファン・フェレイラを題材にした小説です。前回の続きで、マラーノが、今度はそのカトリックの側から迫害と拷問にあっていることをふまえてみると、多少異なった視点も見えてくるようです。

 フェレイラはその後、沢野忠庵という日本名をもらって、転びバテレンとしてキリシタンの取り締まりに当たるのですが、そこに、これも実在の人物をモデルにした祭司ロドリゴが日本に潜伏することから物語は始まっていきます。ロドリゴも捕らえられて、結局転んでいくのですが、その葛藤を語ることで、フェレイラの心を語っていくかたちになっています。

 ロドリゴは、隠れキリシタンが捕らえられて拷問にあって殺されていくのを見ながら、神はなぜ黙っておられるのかという問いを、キリストの十字架の道行きを振り返りながら自問するのです。自分も捕らえられて牢獄のなかで、官吏の鼾のような聞こえるうなり声が実は、フェレイラもそれで転んだ穴吊りの刑にあっているキリシタンのうめきであることを知って、神が何も手を下さないという沈黙に絶えかねて、フェレイラに促されるように踏み絵を踏んでいくのです。

 マラーノはカトリックに改宗しながら、隠れてユダヤ教を守っていくのです。すでにその意味では「転び」なのですが、その意識はあまりなさそうです。それよりも当のカトリック側が何ともそれを許せないのです。そこには当然キリスト教の成立とともに始まった反ユダヤ思想も相まっています。その迫害と拷問は、立場が逆になるのですが、隠れキリシタンが遭ったものと同じほどです。前回の『マラーノの武勲』では最後は火炙りの刑です。

 ただこのマラーノが追い詰められて行く場面でも、先のロドリゴが問題にする神の沈黙は、そんなにも問題になっていないようです。『沈黙』をもう一度読見ながら、逆に不思議な気がしていきました。むしろ神が黙っているのかと言うよりも、すでに自分たちが今遭っている試練は別に新しいことではなくて、神の民がすでに遭っていることの繰り返しと受け止めているようです。自分たちの先祖がすでに遭っていることを、自分たちも受けているのだと、静かにしっかりと受け止めているのです。

 それで聖書で思い起こすのは、神がアブラハムに、創世記の12章で、祝福の約束をするのですが、すぐに15章で、エジプトでの400年の苦難を言い添えるのです。あたかもヨブ記がそのために書かれているかのようです。そして出エジプトのあとには、あのバビロン捕囚が待っているのです。そんな歴史を通ってきた神の民なので、ホロコーストでもアブラハム、イサク、ヤコブの神への信仰は変わらないかのようです。何とも言えない神の歴史を歩んでいるのかも知れません。

 先のロドリゴがフェレイラに会ってというか、会わされて、日本人の神観を論じている場面があります。そこでフェレイラは、日本人はカトリックで理解されている神の概念を持っていないし、決して持つことはないと言いのけるのです。日本人が信じてもそれは自分たちの信じている神ではないとまでいうのです。それでフェレイラの宣教は無駄だったのです。

 ホロコーストのあとに哲学書を著していったレヴィナスは、その西洋の神は、たとえ超越の神と言っても、それは私たちの存在の一部として理解しているだけだと言うのです。そうすることで神を操作できると思ってしまうのです。だから困難のなかで沈黙している神は信じられなくなるのです。レヴィナスによれば、そのような存在の一部のように神を考えることはできないのです。神はすでに関わり、語っているのです。その歴史の事実のゆえに、信仰は変わらないのです。出エジプトとバビロン捕囚を経験している民にとって、神の沈黙は考えられないのです。

上沼昌雄記

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“「神の沈黙?」2012年9月12日(水)” への 8 件のフィードバック

  1. 名古屋地方もようやく秋の気配を感じるようになりました。
    コスモスの花が田畑に微かに揺れています。
    コスモスを見ると品田先生を思い出します。コスモスがとてもきれいな季節に
    天国に旅立っていかれました。あれからまもなく一年が過ぎるのかと思います。

    『神の沈黙』をゆっくり読みました。
    レヴィナスの考察に惹かれます。自分の存在の一部のように神を利用してしまう罪を自分ももっています。そのレベルで信仰がとまっている自分に気づかされる出来事が起きます。

    「本当に神はいるのだろうか?」この事態をなんとか変えてほしい。なんとか神に介入してほしい、そう思う光景に出会うことがあります。自分の深い心の傷がどうしてもあせりを生み出してしまうのです。

    でもゆっくりですが、自分の過去を見つめなおすときに、
    あの時はとても神がいるなどとは思えなかった悲しみのときに
    やはり神様はそばにいたのだと思えてきている自分に会っています。

    失望と絶望で深く沈黙してしまっていた自分が、最近別の苦しみに出会って、その苦しみのおかげで、祈りの中で、「なぜなのですか、あの時あなたは私のそばにいてくれなかったのですか」と思いを吐露するようになってきました。そんな人格と人格の関わりのときを神様は何十年も何十年も待っていたのだと思わされます。
    沈黙のなかにやさしいまなざしが見えてきます。

    見捨てられていたように思い込んでいた自分の歴史がゆっくりゆっくり変わっていっているような気がします。

  2. 吉川さんへ、
    最後の文章が吉川さんの心を語っているようで、なんと言えない響きが伝わってきます。それは吉川さんも聞き届けておられるのだと思います。そしてその響きはどこかで御霊自らののうめきのようでもあるようです。深い静かな森の中だけに聞こえる響きのようです。
    感謝。上沼

  3. 「倫理じゃなく、神秘主義があるのです。」

    「二つの1639年」とは村上春樹の東京奇譚集の最初に出て来る「偶然の旅人」のペッパー・アダムスの『10to 4 at the 5 Spot』に類似した話しではないかと、即座に思い浮かべました。
    村上春樹の小説と同じに「二つの1639年」を読んでいてちょっとした合一の神秘を考えています。
    村上春樹はオカルト的な事象にも、占いのようなものにも興味を惹かれたことはないと小説のイントロダクションで書いていて、多分、ジャズの神様がいるのかもしれないという彼なりの推測を披露している。
    「時々、血管にジャズの響きを注入してやらないと、日々の生活を進行させてゆくことができなかった」(日本版エスクワイアー別冊4号)言っている通り、彼はジャズの神様に操られているのでしょう。彼に取ってのジャズとはもうひとつ(オルタネイテイブ)のリアル。
    ペッパー・アダムスのハード・バップ(ジャズのある一つのスタイル)にジャズと自身のリアルを求めた結果起こった偶然の一致なのじゃないかと推測する次第。
    僕も春樹さんと同じにジャズをこよなく愛してますが、僕の場合はビリーヴァーなので彼とは多少違っていて、偶然の一致に神論が成り立つのです。
    そして少しばかりの神秘も重要としています。
    一致してしまう事は聖書やらを研究していると僕のまわりでも良く起こります。
    どうしても偶然の一致やら不思議な事は起こりうるのです。
    一致だけならユングの解釈で成り立つのですが、合一に偶然が何度も重なると、、、、これが説明がつかない事ばかりで、僕自身はその説明がつかない事に対して、とっちらかったままにして、半ば放置しながら断片を拾い集めてジグゾーパズルのごときにピースが出て来るまで待つことにしてます。ユダヤ人問題、特にホロコースト等は核になるピースがどうしても探せないというか、確実にあるのだと思いながら長年研究してきました。
    それにしても16世紀のこんがらがった残虐って4世紀後に起こるホロコーストのイントロダクションなのだったのでしょうか?
    上沼先生も承知の上でしょうが、ともかく16世紀はルターの贖宥状批判がきっかけとなり、宗教改革が起こったことを始めとして多くの神秘と奇跡が起こった世紀と考えています。ヤーコブ・ベーメの神秘思想、その継承のグルンスキーにスペインカルメル会を経て独特の宣教を行なう十字架の聖ヨハネ、そしてのちの聖教者のひとりで20世紀のエーディト・シュタインは晩年十字架のヨハネの研究(著作「聖十字架のヨハネに関する科学の研究」)に没頭したが、その著作の完成を見ずにアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所で殺害され殉教の死を遂げて行く。16世紀からの思想の継承が強制収容所という場で神の意思を捉えて行くさまは見ていて神聖と神秘の奥深さをさまざまと見せつけられる。

    「神が存在するかどうか?それは彼の問題だ!」とフランス・ソルボンヌ大学構内に落書きは書かれたが、フランスのアカデミズムの最高峰の学生らしい皮肉とエスプリが効いたユーモアは嫌いではない、しかし、神聖や神秘は人間のすべての計算から対象外にある。
    要するに神学者モーリス・ズンデル言うところの「倫理ではなく、神秘主義があるのです」 を僕は正解なのだと思う。
    そして「人間は相手がいなければ、半分の存在でしかないのです。」16世紀の神秘主義者 ヤーコブ・ベーメはこう書いたが、人間の相手とは、、、残されたあとの半分とは、、、、僕は神だと思っている。

    プリモ・レヴイーの研究者 徐 京植(ソ キョン シク)氏の書いた名著「プリモ・レヴィーへの旅」(朝日新聞社)では、「人間にはこんなことまではできないだろうとする通念、人間ならここまで堕ちないはずだという期待、それらが苦もなく裏切られた場所がアウシュビッツだった。そこは、人間という尺度が完膚なきまでに打ち砕かれた逆ユートピアであった。生き残ったごく少数の人々は強制収容所の地獄でさえ滅ぼす事のできなかった人間性の証人であり、それ故に、彼ら自身がアウシュビッツ以降の時代における人間の尺度でもあるのだ。彼らは地上に現存した逆ユートピアの生き証人であるだけでなく、人間や文明といった観念が瓦礫となった後に、再び人間という尺度を再建する役割を負わされた人々でもある。」と書いている。

    確かに徐 京植氏はアウシュビッツをプリモ・レヴィーという人間になぞって彼を人間の尺度として見て、ダンテの神曲に登場するオデッセウスとしているが、しかしホロコーストの問題の奥には、ユダヤ人迫害の問題の奥には、まだパズルのピースをはめるだけの肝心な核心部分が神秘として何処かに残っていると僕は思う。
    それは人間で探せるものなのか?解けるものなのか、、、、、果たして疑問なのだが、ホロコーストで欠けたパズルのピースは存在すると思う。
    それは神秘というベールに隠されているかのようであり、内密に人間心理の奥深くに秘かに存在する。
    僕自身はユダヤ教の神秘主義バカラの秘儀に傾倒しているわけでもなく、キリスト教神秘主義のヘルメス思想でもないのですが、ユダヤ人問題というのは研究すればするほどに、神秘の内側に突っ込まざるをえない、というか謎が深まり神秘への入り口の扉の一つが開け放れたと僕は考えている。
    伝説の稀覯本、アルトゥーロ・ペレス=レベルテが書いた『影の王国への九つの扉』には、LCF(ルシファー)の刻印がある9枚の版画を揃えると地獄の門が開くとされる。ホロコーストの神秘もそれに似たものであろうか?

    プロテスタント関係者及び頭の固い牧師やら信徒は神秘主義なぞカルトとあざ笑うでしょうが、ある意味、神聖の神秘に任せたまんまということで、ここいらへんの事は、大村先生の合一の神秘主義がおおいに役立っているというか、楯になっているというか、大村先生、上沼先生のベーメ傾倒に支えられています。
    僕自身は大村教授や上沼先生とは違うゾイゼの範書の合一の神秘性に偏っていますが、神秘主義に片足突っ込んでいる両者がいてくれたおかげで自由に学び書く事が出来ています。
    作家中上健次が村上春樹に語った「おまえがデビューして、俺は楽になった、、、。」のごとく、私は両者の存在があって楽であるのです。
    それなので、その神秘主義からユダヤ人に起こった迫害を解こうとしています。
    それにしても超難解なヘーゲル哲学を解きほぐしながらヤーコブ・ベーメへの傾倒という絶妙なブレンド感はたまらないものがあります。
    時代が時代ならこの両者は異端審問にあい磔刑され火あぶりに処せられていただろうと思う。
    そして私は、鶏が三度鳴くまで、この2人を知らないと言い張っていたのかもしれない。

    以前、上沼先生に今の教会に足りないものとして、僕はフーコーと少しばかりの神秘が必要と書いたが、フーコーのコレージュ・ド・フランスの講義におけるフランスカトリック教会への正確な批判は、彼言う所の教会の神聖の欠如じゃないかとさえ思う。同じフランスの思想家アルベルト・カミユなんかも死後に発見された日記で、教会の神聖と神秘の足りなさを指摘している。     
    ホロコーストとという言葉の語源が旧約聖書の「焼いて神前に捧げられるいけにえ」を意味するヘブライ語であり、ランズマンの『ショアー』がヘブル語で大破壊、破滅という意味を持つというが、この二つの言葉の奥に何故か神秘があると最近思い始めた。
    ホロコーストにおける霊的なインスピレーションは確かにあると頭の中で言葉が反復を覚えて鳴り響いている。
    なことで映画『ショアー』にも出て来るアウシュビッツの生き残りフィリップ・ミュラーのインタヴューの一部を掲載してみる。

    チクロンBの最初の数錠がガス室の床で昇華すると犠牲者たちは叫び始めた。急激に立ち上ってくる毒ガスから逃れようと、強い者は弱いものを殴り倒し、まだ毒ガスがたちこめない空気を求めて生きながらえようと、倒れた者の上にのった。
    15分以内にガス室の全員が死亡した。
    約30分後には扉が再び開かれ遺体は塔の様に積み重なっており座ったままの状態の者や、中腰の者もあった。
    下の方には子供や老人の屍体があった。遺体には緑色の斑点があり、肌はピンク色になっていた。
    口から泡を吹いている遺体や、鼻血も出ている遺体もあった。
    排泄物と尿にまみれた遺体もあり妊娠中の女性の中には出産が始まっている場合もあった。
    すべての収容所で遺体の穴と言う穴に、貴重品が隠されてないか調べられ、死者の口から金歯が抜かれた。(途中省略箇所あり)

    僕はこの映画を見る前に空腹を癒して牛乳とドーナツを食べたが、ミュラーのインタヴューを聞いた途端に吐き気がしてあやうく嘔吐しかけた。
    サルトルの『嘔吐』より強烈なものである。
    アドルフが起こしたナチス・ドイツの集団精神病の集合的な影がユダヤ人に投影され、その投影の証言がサボン達の口から飛び出すのでホロコーストにおける霊的なインスピレーションは止む事はない。
    ニーチェの皮肉たっぷりな言葉「駄目なヤツはすべて反ユダヤ主義に堕ちる」を彼の正直さとして捉え、駄目なヤツにならぬために今日も研究を続けています。

    それで現在、ユングの神秘主義の考察、ケネイアー夜の航海の部分を読んでいます。
    ユングはヨナが何故?大魚の呑み込まれたのかを「一個の人間になるためには、英雄は母の胎内(大魚の腹)の中にもう一度戻らねばならない。そうして初めて英雄は母から今こそ精神的に再生できるのだ!」としています。
    あのヨナの英雄的で強烈な宣教には母胎回帰の死と再生が必要だったのでしょうと僕は考えました。
    う〜〜〜〜〜ん!やっぱりヨナ書は神秘であります。

    フランス思想研究者 伊東禮輔

  4. 伊東禮輔さんへ、ヘーゲル研究者の大村先生のヤコブ・ベーメへの傾倒は、私にとっても大きな手だてでした。大村先生を今回も訪問予定です。十字架のヨハネの先駆者のアビラのテレーゼがユダヤ系であったことを最近知りました。エディット・シュタインはまさにユダヤ人でした。その背後の神秘主義、話を聞かせてください。一つの可能性は、10月16日(火)午後2時新宿です。他の可能性もあります。お元気で、祈りつつ。上沼 2012/10/11

  5. 伊東です。
    ブログを見ていなかったので連絡が遅れました。
    10月16日の午後2時にいつもの所に伺う事が出来ます。
    いかがでしょう?
    それでは、、、。

      1. 伊東さんへ、11月12日(月)の午後1時15分、東京駅の例のカフェ、如何ですか?

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