「天の都から流れる川は、、、」2012年9月26日(水)

妻と朝ごとに、散歩に出かけるようにしています。道を下ったところに小川というか、小さな渓流が流れています。その流れを眺めて、Uターンして今度は道を上っていく散歩道です。その小川を眺めるごとに、この乾燥しきったカリフォルニアで、どこからか水が集まってきて、切れることなしに流れていることに感心しています。 針葉樹が、もうこれ以上水を吸い上げて提供できないから、降りていってくれと言わんばかりに、その枯れた針をいっぱい落としています。 日本では、今年は水不足と言われていても、考えられないことです。

その小さな渓流はさらに下って、北支流という大きな渓流に合流します。そこでは渓流下りもできます。その川の向こう側がこの夏に山火事になったところです。そしてその川はいずれ3つの支流が合流してサクラメントを通って、サンフランシスコに入って、ゴールデンゲートで太平洋に入っていきます。その道筋というか、流れは想像することも出来ます。しかし、散歩で出合うこの小さな渓流がどこから始まって、ここまできているのか、想像するのは不可能です。その向こうに山々があって、どこからか水が湧き出てというより、滲み出て、見えないところで寄り集まって、そしてほとんど誰にも見られないところで小川になって、下ってくるのでしょう。

川の流れの始まりが、あのエデンの園にあります。地上に雨が降る前に、「ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた」(創世記2:6)のです。神のかたちに人が造られたあとに、食べるのによいすべての木が生え出てきます。そこには一つの川がエデンの園から流れ出て、四つの川となって地を潤すのです。人はどの木からもとって食べることができましたが、善悪の木からは取って食べることができませんでした。

そしてここから、何とも複雑な人類の歩みが始まります。 ノアの洪水も、バベルの塔も、アブラハムへの契約も、出エジプトも、モーセの律法も、ダビデの王国も、神殿建設も、バビロン捕囚もそれに続きます。その川の流れが、せき止められたり、血の川になったり、別なところに流れ込んだり、洪水を起こしたり、国の間で争いを起こしたりしています。 誰もがその複雑な人の歩みに組み込まれて、苦闘し、絶望し、さらに信仰を奮い立たせます。アダムがこの木の実を食べなかったらばと、勝手に想像して推理を働かせることにもなります。

その流れをすべて引き受けて、イエス・キリストが、第二のアダムとして、アブラハムの子孫として、 律法の成就として、ダビデの子孫として、 自らが神殿であるかのように、そしてさらにその歩みが捕囚と帰還であるかのように、受肉し、十字架にかかり、復活し、昇天して行くのです。その流れは、全人類の苦悩を飲み込んでいます。あの緑深い最上川のように、流域の全住民の苦悩の記憶を吸い込んで、ゆっくりと流れています。

そしてその流れはいずれ、天の都から流れる川となります。都の大通りの中央を流れ、両岸にいのちの木があって、毎月のように実をならせます。何と「その木の葉は諸国の民をいやした」(黙示録22:2)のです。人がエデンの園を追放されて以来積み重ねてきた傷が、最後にいやされるのです。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない、新しい天と、新しい地に流れる川となります。

エデンの園から流れ出て、 その間のすべてのことを飲み込みながら、 天の都に結びつく流れを、N.T.ライトというイギリスの新約学者が丁寧に説明してくれて、聖書の流れ全体をもう一度たどる旅をしています。その流れの流域を楽しむというより、流れがとんでもないところに入り込んだり、枯れてしまったのではないかと思いながら、それでも不思議にまた湧き出て、しっかりと天の都にまで結びついている流域の旅です。そんな旅の誘いを、N.T.ライトがしてくれています。

上沼昌雄記

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「日本一週間」2012年10月10日(水)

暑いカリフォルニアから暑い日本へ

いつものように迎えてくれた大阪の隠れ家

秋を告げる岐阜・可児黙想の家のコスモス

一年ぶりに再会の牧師夫婦セミナー

雅歌を通しての牧師夫婦の愛の歌

東海神学塾の教師たちとのN.T.ライトについての懇談

初めて伺った三河安城の安城キリスト教会

茶の道を究める牧師との京都探索

道端に佇む元和キリシタン殉教碑

荘厳なる三十三間堂の十一面千手千眼観世音

清水寺境内の誰に見向きもされないアテルイ・モレの碑

かの新島襄旧邸とあの新島八重

立ち寄った御茶屋さんの一服の茶

思いがけない信州のいとこたちとの上州前橋での会合

ノーベル医学生理学賞受賞!

ようやく辿り着いた最上川の隠れ家

朝日に照る紅葉を始めたばかりの山並み

感謝とともに、上沼昌雄