「007と聖書のスパイ物語」2012年11月29 日(木)

 昨日、子どもたちからいただいた映画の切符のギフト券を使っ 
て、雨の中、ジェームズ・ボンドの“007 Skyfall”を観てき 
ました。この映画は007シリーズの50周年記念にもなっ 
ているようで、昼の時間帯でしたが結構入っていました。といって 
もお年寄りの人たちばかりで、私たちもその仲間なのだと思わされ 
ました。この映画のある場面が日本で撮影されたことが、最後の字 
幕から分かりました。ほとんどのお客さんは映画が終わると帰って 
しまうのですが、私たちは字幕の最後までをジェームズ・ボンドの 
主題歌を聴きながら観ていました。そうしたら、日本語で「軍艦 
島、日本」と出てきました。

 妻と昨晩読んだ聖書の箇所が第二サムエル記の17章でした。15 
章から3男のアブシャロムが父であり王であるダビデに対して 
謀反を起こして、ヘブロンで自分が王であると言い出した箇所のあ 
との出来事です。どうして親子が相反することになったのかはまさ 
に第二サムエル記の謎解きのような感じがします。どうしてもダビ 
デ自身の罪が、確かに赦されているのですが、影響しているように 
思えます。妻はダビデが子どもたちを甘やかしてしまったからなの 
かと考えています。そして結局はダビデの王位が、ウリヤの妻に 
よって生まれたソロモンに受け継がれていくのです。これが聖書な 
のかと思わされる謎解きです。

 17章を私が日本語で妻が英語で読みながら、その午後に観 
た映画の場面が浮かんできそうな感じでした。ダビデの議官をして 
いて寝返ったアヒトフェルとダビデからスパイとして送られたフ 
シャイが、それぞれアブシャロムに助言をするのです。アヒトフェ 
ルの助言が退けられて、フシャイの助言が受け入れられます。その 
ためにフシャイがスパイとして送られたのですが、さらにダビデ自 
身の祈りもあったのです(15:31)。フィシャイはこ 
のことを、すでにダビデによってエルサレムに留まっているように 
指示されたふたりの祭司のふたりの子どもたちによって知らせるのです。

 ただこのふたりの子どもたちの行動がアブシャロムに知られると 
ことになったときに、ふたりをかばう人が登場します。その家の井 
戸の中にふたりが入り、その人の妻が井戸におおいを掛け、その上 
に麦をまき散らかして目隠しをしてしまったのです。 追って 
は見つけることができないで戻ります。 何ともスリリングな 
場面で、映画の場面がちらついてきます。こんなことまで聖書は記 
述しているのです。妻は遊女であったラハブを思い出すといいます。

 フシャイからの報告を聞いたダビデは戦いの備えをします。それ 
がフシャイのアブシャロムに対する助言でもありました。ダビデと 
アブシャロムを直接に戦わせることで決着をつけるのです。アヒト 
フェルの助言は自分が単独で乗り込んでダビデを殺すことでありま 
した。それが実行されていたらダビデは危なかったのも知れませ 
ん。アヒトフェルは自分の助言が退けられたことで、自分の家に 
帰って家を整理して、首をくくって死んだと、また聖書はここまで 
記しています。妻は、イスカリオテのユダを思い出すといいます。

 007 Skyfallも、元英国の情報部員が寝返って攻撃をしてく 
るのを、ジェームズ・ボンドがその人物を特定して、その住処に乗 
り込んでいく場面があります。その場面がいま廃墟になっている軍 
艦島のようです。その寝返った敵は現代流にサイバースペースを 
使って攻撃してきます。そしてまたそのサイバースペースを使って 
その敵を人里離れた両親の家であるSkyfallにおびき出して、 
直接対決で決着をつけるのです。敵はサイバースペースの向こうに 
隠れているのです。それでおびき出して正面で戦う以外にないのです。

 フシャイも、ダビデとアブシャロムを直接に戦わせる作戦をとっ 
たのです。それは悲しい結果をもたらすのですが、同時にダビデの 
王位が継がれることでなされる神の計画にもなっています。ジェー 
ムズ・ボンドは楽しんで観ることができますが、聖書のスパイ物語 
は、そうでなければ果たされない神の計画の流れなのですが、どこ 
かで神の悩みが聞き取れるようで悲しい思いになります。

 ジェームズ・ボンドの映画は、日本でも12月1日 
(土)に「007 スカイファール」として公開されるようで 
す。映画を観て、サムエル記を読んで、ダビデとアブシャロムの親 
子の悲しい対立に思いが留められます。

上沼昌雄記
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「男性の品格」2012年11月22日(木)

 今回の日本のほとんど最後に持たれた男性集会で、「男性の品 
格」というテーマで、男性同士で話し合いました。『国家の品格』 
という本が一時ベストセラーになりました。その本は読んでいない 
のですが、「男性の品格」と言うことでどのようなことが出てくる 
のか、また聖書とどのように関わるのか、興味と関心がありました。

 それぞれの「男性の品格」として持っているイメージを分かち 
合って、最終的にそれに合う聖書の登場人物を挙げてみました。私 
はどういう訳かあのニコデモが出てきました。イエスのところに夜 
来て質問したユダヤ人の指導者です。そのやり取りの結論は何も書 
いていないし、彼がどのような思いでいたのかも書いていません。 
それでも、十字架にかけられたイエスのからだを取り下ろすときに 
登場しているのです(ヨハネ19:39)。そんな姿に惹 
かれます。

 一人の青年がイエスでしょうか、と出してくれました。「男性の 
品格」を取り上げて、それがイエスとどのように結びつくのか知り 
たいところです。なんと言っても、十字架へ向かうイエスの姿はま 
さに「男性の品格」を漂わせていると言うことができるのではない 
でしょうか。ペテロが後年振り返っています。「ののしられても、 
ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさば 
かれる方にお任せになりました。」(1ペテロ2:23)

 実はこの聖書に入る前に、一般の社会で「男性の品格」を感じさ 
せる人はいるでしょうかと聞いてみました。一人の方が、スポーツ 
が好きなのでしょうか、「長嶋や王」とだしてきました。なるほど 
と思うのと同時に、そういえば今年ニューヨーク・ヤンキースで活 
躍した黒田投手はどうでしょうかと出してみました。ただ黙々と投 
げ続けて結果的に16勝まであげたのです。シーズン前半に、 
テキサス・レンジャーズの10歳以上も年下のダルビッシュ投 
手と投げ合ったのを覚えています。敗戦投手になりましたが、最後 
まであきらめないで投げ続ける姿は印象的でした。

 そんな男性集会で話し合ってきたことを、滞在先のご夫婦に話し 
ました。そうしましたら野田首相のことを出してきました。政策的 
には全面的に同意しているわけでないのでしょうが、野田首相の姿 
勢に感じるものがあったようです。野党の党首として出てきた政治 
家の過去のことには何ともやりきれない思いを持っているようで 
す。それにしても、政治家で品格を保つのは難しいことです。野党 
から引きずり下ろされ、マスコミには貶され、信念を通そうとすれ 
ば国民を無視していると言われ、結局は針のむしろに曝されるので 
す。そのなかで自分の信念を何とか通そうとしているのは、確かに 
「男性の品格」に通じるものがあります。

 そういえば黒田投手も野田首相も、じっと耐えて自分の責任を全 
うしようとする姿勢があります。釈明したり、声高になったりしま 
せん。自分のなすべき務めがあり、責任があるときに、ただ黙って 
なし続け、成し遂げるのはまさに男性の姿です。家族を養い、子ど 
もたちに聖書の物語を語り伝え、少しでも神の祝福を継承していく 
ことが男性の歩みなのです。「男性の品格」はそれに付いてきま 
す。それとイエスの歩みを結びつけるのは、法外なことでもないと 
思います。

 「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり 
場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている羊のよ 
うに、彼は口を開かない。」イザヤ53:7

上沼昌雄記

「上沼さん、いま何を勉強しているの?」2012年11月16日(金)

「上沼さん、いま何を勉強しているの?」2012年11月16日(金)
日本での奉仕のほとんど最後に、宇都宮の施設に入られている大村晴雄先生をお訪ねしました。いつも同伴させていただいている前橋在住の元群馬大学教授の小泉一太郎氏と、小泉氏のKGKの同期であり現在西上尾教会の牧師をされている石神稔氏と、宇都宮の駅で合流して伺いました。KGKの7年ほど先輩の方々と102歳の大村先生を訪ねる栄誉に預かりました。

私たちの3名の来訪を大村先生は待っていてくれ、しばしそれぞれの家族のことを聞いてこられました。そのあと石神牧師が聖餐式を執り行ってくださいました。なんと文語体の式文を用意してくれました。先生の聴力はこの5月に伺ったときよりもさらに衰えてきているのですが、式文にじっと耳を傾け、その最後にはしっかりとアーメンと一緒に唱和しました。お渡しするパンとぶどう液も感謝をもって受け止め、式後はしばし感激に慕っている様子でした。

先生はすでに目が見えない状態ですが、私たち3名が周りに座っていることは分かっています。実はこのあとどのような会話になるのか、ほとんど先生の耳元で話さないと通じませんので、静かに佇むことになりました。しばしの沈黙のあとに、おもむろに先生が「石神さん、いま何を勉強しているの?」と声をかけてきました。石神牧師は第2サムエル記をヘブル語で学ばれていることを話しました。

そのことに大村先生は納得され、しばし沈黙になりました。それで別の方向に会話が行くのかと思っていたら、「上沼さん、いま何を勉強しているの?」と聞いてこられました。耳元に行って「イギリスの聖書学者のN.T.ライトという人の本を翻訳しています」と、大きな声でお伝えしました。そのことに納得してくださった様子なので、「先生は何を勉強されているのですか?」と聞いてみました。前回の時には、この目が見えるようになって聖書を勉強することができるようになることが切なる願いと言われたのを、思い出したのです。

先生はにっこりと笑って、息子さんやお孫さんが来られたときに聖書を読んでもらって、その箇所を覚えていて、それを思い起こしながら勉強していますという返事に、私たち3名はただ驚嘆するのみでした。 先生のお話も良く聞き取らないと分からないのですが、具体的な聖書の箇所としてガラテヤ書2章20節とヨハネ福音者11章と15、16章を挙げました。何とも楽しそうに解説されるのです。ヘーゲル研究家、近世哲学史家として歩んでこられたのですが、そのすべてがあたかもガラテヤ書2章20節に集約されるかのようです。

最後に「小泉さん、いま何を勉強しているの?」と言われ、「オックスフォード大学史を勉強しています」という返事に、大村先生は安心されたかのようです。小泉氏の研究は貴重なもので、成果がさらに公にされることを願っているかのようです。 私個人も願っているところです。施設に伺う前に宇都宮の駅で餃子を食べながら、オックスフォード大学の機構の複雑さを話してくれました。

3人とも多少虚を突かれた思いをもって、大村先生との再会を約して帰途につきました。そして「上沼さん、いま何を勉強しているの?」という大村先生の問いかけがずっと耳に残って、追いかけてくるかのようです。石神牧師も小泉氏も同じような感じを持たれているのかも知れません。 N.T.ライトの翻訳と、今回の日本でのN.T.ライトセミナーと、N.T.ライトが読み直そうとしている聖書の世界を、単なる紹介というようなことではなくて、かなりの覚悟をもって学んでいく責任を負わされていることを思います。

昨晩妻が日本でのことを聞いてくるなかで、大村先生のことを聞いてきて、「上沼さん、いま何を勉強しているの?」という問いかけと、「先生は、いま何を勉強されているのですか?」という返答をしたことを喜んでいました。それ以上に、大村先生がガラテヤ書2章20節を出して来られたことに痛く感銘を受けていました。大村先生のなかにすべてがこのみことばに集約されるものがあるのかも知れません。そして何か妻のなかにも感じるものがあったようです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなくて、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

上沼昌雄記

「心の巣窟」2012年11月8日(木)

今回の札幌の滞在は、道内の旅行がなくて、ほぼ一週間藤野福音キリスト教会の2階に泊めていただき、当教会と市内の教会で奉仕することになりました。今年度で一応の定年退職で退くことになっている小林基人牧師ご夫婦に、食事こと、送り迎えと、大変お世話になりました。同時にご夫妻との会話を楽しむことになりました。かなり前になりますが、「ある牧師夫婦の絶妙な会話」という記事を書いたことがあります。何とも言えないお二人のやり取りに、こちらも勝手に突っ込みを入れて、やり取りのバランスを崩すことを楽しんでもいました。

そのような雰囲気のなかに、札幌に来て入ることになり、どこかで自分の「心の故郷」に帰った気分になりました。お互いの過去も知っていて、それでも互いに受け入れ、信頼し合っているというか、心を開いていることでいただける自由を楽しむことができます。変な緊張も、遠慮をもいらないのです。ありがたい交わりです。

そんな緊張もなかったこともあったのかも知れませんが、小林牧師とある意見の食い違いが出てきて、しばらく議論をすることになりました。奥様はニコニコしながらか、内心は心配しながらか、黙って聞いていてくれました。大したことはないといえばその通りなのですが、ただ45年ほど前にこの札幌の下宿で同じような議論をして、口角泡を飛ばしてやりやったことを思い出しました。

小林牧師もミニストリーの20周年記念誌にその時のことを記しています。「2年間重なった下宿生活の大半は、青春の疾風怒濤の時代だったのでしょうか、訳のわからない議論に明け暮れていました。」さらに続けています。「信仰一途な頑固者(?)の上沼さんは、私が小説を読んだり音楽を聴いたりするフマニスト的なことが気にさわったようで、私がベートーベンの『熱情ソナタ』を聴いていた時、『キリストの他に慰めがあっていいのか!』と名言を吐かれました。」

そんな恨みをもあってか、いまだに遠慮無しに心にあることを言い合うことができます。それでまた奥様の手料理で食事をいただいているときに、「心の故郷」に帰ったような気がしていますと言いましたら、「心の故郷」ではなくて、「心の巣窟」ではないですかと半分真顔で言い返してきました。奥様も合点が行かれたような笑みを浮かべていました。盗人や悪党たちの「巣窟」ですと説明をしてくれました。

言われてみれば、その後45年、恵みと赦しと祝福を信じていても、同時にどこかでわざわいをも引き込んでしまうところがあって、人を傷つけ、悲しめて来たことがあります。心に住みつく罪は、思いに反しても、自分のなかに巣を作っているのです。「心の故郷」に帰ることは、残念ながら「心の巣窟」に戻ることをも意味しています。小林牧師のいつもの冗談の一つなのかも知れませんが、どこかで真実をついています。そうなので、ただ赦しをいただいて生きていることを確認します。「心の巣窟」が少しでも光をいただいていることを願うのです。

上沼昌雄記

感謝!N.T.ライトセミナー

主にある友へ
昨日20名ほどの参加者をいただき、N.T.ライトセミナーを無事に終えました。4人の発題者がそれぞれの視点から20分語り、20分自由討議と言うことで進めました。どうなるのかと思ったのですが、全体の流れもあり、参加者も自由に討議に加わってくださり、自分一人で読んでいるだけでは気づかない視点が明確になって、発題者の一人としても大変有意義なときでした。N.T.ライトが捉えている聖書全体の流れが、セミナーでも明らかにされ、なぜN.T.ライトを読むのか、なぜN.T.ライトがこれほどの読まれるのかという意味合いも浮かび上がってきたのではないかと思います。N.T.ライトを通して一人でもその聖書全体の流れに関心も持ってくださればと願うところです。

次に何をするのかは全く不明です。それでも今回のことで何かが次に生まれてくるようなうずきも感じることができました。案内で参加くださった方々に心より感謝をいたします。続いて互いのためにフィードバックができると良いのですが、そのようなときも主が備えてくださるものと思います。それでも何か思うことがありましたら遠慮なくメールをください。何かが生まれてくるかも知れません。

心より感謝して。上沼昌雄 2012/10/19

「牧師の本棚」2012年11月6日(火)

今回初めて九州の熊本に伺いました。阿蘇山の麓の肥後大津という3万人ほどの町にある大津キリスト教会です。この5月に伺った大阪島本の教会の豊田信行先生の紹介です。阿蘇山の麓で良い働きをされているということで、牧師の米村英二先生にお会したくなりました。豊田先生の教会で米村先生の十戒について書かれた本を手に入れ読むことになりました。十戒の教えと生活と歴史上の賢人の教えとが何とも見事に調和されていて、引き込まれる思いをいただきました。

駅に先生ご夫妻が出迎えてくれました。踏切を横切っても5分もかからないところに教会がありました。地元に定着し、こちらも温かく迎えてくれるような雰囲気の会堂でした。2階の牧師住居の一室の畳の部屋に案内されました。その廊下には本棚がずらっと並んでいました。荷物を置いてふすまを開け、目の前に鎮座している本棚の本に対面することになりました。十戒についての本を読んだときに、歴史上の人物の人生訓のようなものが見事にブレンドして語られている不思議な感覚がよみがえってきました。

ABC順に本が並んでいるのですが、書棚は一見聖書と関係がないと思われる本が入りきれないほどに置かれています。ふすまを開けたところには『国家は誰が守るのか』とか、『大英帝国衰亡史』とか、『西田幾多郎の妻』とか、『二宮金次郎の一生』という本が、牧師の本棚にふさわしい(?)かたちで置かれています。米村先生の本を読んでいたので、ここからあのようなメッセージが出てきているのが分かりました。一見聖書と関係がないように思われる本が、米村先生のなかではみことばの下に見事に調和されているのです。出入りするごとに何度も立ち止まり本棚を眺めることになりました。

歴史上の人物で、真剣に生きた人、まじめに人生を考えてきた人の人生訓に米村先生が真剣に対面していることが分かります。そこから語られることは聞く人にも、読む人にも聖書の世界に自然に引き込まれていくのだと思います。そのような読書のなかで、先生は最終的に内村鑑三に導かれたと言われます。内村鑑三全集、著作集は全部そろっています。そしてよく読んでいます。また、良くここまで集め、揃えたものだと関心をしています。古本屋でといわれるのですが、この町に古本屋もあるわけでもないしと、思わされたのです。

熊本の2週間後に札幌に行きますとお話しをしました。先生が顧問をされている札幌のもう一つの聖書学院の学院長先生に会ってくださいと言うことになりました。話が通じて先週の金曜日に伺いました。同時に3時間目が空いているので何か講義をしてくださいと言うことになり、哲学概論のような話をしました。お昼をいただいて、このあとどこに行かれるのですかと問われましたので、北大の正門の向こうにある古本屋に寄る予定ですと話しました。そうしましたら先生たちが、米村先生は札幌に講義に来られて、良く古本屋に行っていましたと伝えてくれました。それで分かりました。米村先生のあの本棚の本は、そのように日本中の古本屋を歩いて集めてこられたのです。それが伝道と牧会に生きているのです。

伺ったところどころで、牧師の書棚、本棚を眺めるのは楽しいものです。それでもこれほど聖書と関係がないと思われる本が、当たり前に置いてあると、正直驚きです。先生の本を少し読んでいたので、なるほどと思わされるのですが、その膨大な本の量と読書の幅が聖書の世界に生かされているので、納得する以上に、そのように結びつけられる強靱な精神力に敬服させられます。

ただその熊本の牧師の本棚が、札幌にも結びついていることに不思議な導きを感じている次第です。

上沼昌雄記

「この2週間は、、、」2012年10月26日(金)

シンガポールで知り合ったご夫妻との東京駅近辺での気さくで真実みのある会食

一年ぶりの秋田でいつもの、それ以上の歓迎と何とも自由なやり取り

新しい牧師夫婦による新しい息吹が教会に

神の物語の続きと秋田の牧師の集い

新宿紀伊国屋でのあるフランス思想研究家との不思議な会話

カリフォルニアの友人夫妻の依頼での吉祥寺の「ユザワヤ」での和紙の購入

そして2週間持ち歩くことになった荷物

いつものごとくに立川の牧師宅への投宿、そして聖書と神学談義

横浜・洋光台の教会での水曜礼拝と不思議な交わり

N.T.ライトセミナーの関心と興奮と波及

再度大阪の隠れ家へ、もう一人のN.T.ライト読解者との会談

いよいよ熊本の阿蘇山の麓の大津キリスト教会へ、 大阪島本の牧師の紹介で

何とも興味深い牧師の本棚

家庭集会と礼拝での自由で豊かな交わりと会談

阿蘇山への火口へのドライブと牧師ご夫妻との親しい交流

長崎に寄り道して大浦天主堂へ、キリシタン殉教史の一端を

大阪での牧師ご夫妻との会食と雅歌の宿題の伝授、雅歌と5組の牧師夫婦

思い切って比叡山延暦寺へ、あの山寺の天台宗の総本山

大阪堺でのいつもの、そして奥深い祈祷会と家庭集会

そして2週間ぶりに最上川の隠れ家に、深夜に

いつもより遅い紅葉、それでも秋の佇まいはしっかりと

祈りつつ、上沼昌雄