「上沼さん、いま何を勉強しているの?」2012年11月16日(金)

「上沼さん、いま何を勉強しているの?」2012年11月16日(金)
日本での奉仕のほとんど最後に、宇都宮の施設に入られている大村晴雄先生をお訪ねしました。いつも同伴させていただいている前橋在住の元群馬大学教授の小泉一太郎氏と、小泉氏のKGKの同期であり現在西上尾教会の牧師をされている石神稔氏と、宇都宮の駅で合流して伺いました。KGKの7年ほど先輩の方々と102歳の大村先生を訪ねる栄誉に預かりました。

私たちの3名の来訪を大村先生は待っていてくれ、しばしそれぞれの家族のことを聞いてこられました。そのあと石神牧師が聖餐式を執り行ってくださいました。なんと文語体の式文を用意してくれました。先生の聴力はこの5月に伺ったときよりもさらに衰えてきているのですが、式文にじっと耳を傾け、その最後にはしっかりとアーメンと一緒に唱和しました。お渡しするパンとぶどう液も感謝をもって受け止め、式後はしばし感激に慕っている様子でした。

先生はすでに目が見えない状態ですが、私たち3名が周りに座っていることは分かっています。実はこのあとどのような会話になるのか、ほとんど先生の耳元で話さないと通じませんので、静かに佇むことになりました。しばしの沈黙のあとに、おもむろに先生が「石神さん、いま何を勉強しているの?」と声をかけてきました。石神牧師は第2サムエル記をヘブル語で学ばれていることを話しました。

そのことに大村先生は納得され、しばし沈黙になりました。それで別の方向に会話が行くのかと思っていたら、「上沼さん、いま何を勉強しているの?」と聞いてこられました。耳元に行って「イギリスの聖書学者のN.T.ライトという人の本を翻訳しています」と、大きな声でお伝えしました。そのことに納得してくださった様子なので、「先生は何を勉強されているのですか?」と聞いてみました。前回の時には、この目が見えるようになって聖書を勉強することができるようになることが切なる願いと言われたのを、思い出したのです。

先生はにっこりと笑って、息子さんやお孫さんが来られたときに聖書を読んでもらって、その箇所を覚えていて、それを思い起こしながら勉強していますという返事に、私たち3名はただ驚嘆するのみでした。 先生のお話も良く聞き取らないと分からないのですが、具体的な聖書の箇所としてガラテヤ書2章20節とヨハネ福音者11章と15、16章を挙げました。何とも楽しそうに解説されるのです。ヘーゲル研究家、近世哲学史家として歩んでこられたのですが、そのすべてがあたかもガラテヤ書2章20節に集約されるかのようです。

最後に「小泉さん、いま何を勉強しているの?」と言われ、「オックスフォード大学史を勉強しています」という返事に、大村先生は安心されたかのようです。小泉氏の研究は貴重なもので、成果がさらに公にされることを願っているかのようです。 私個人も願っているところです。施設に伺う前に宇都宮の駅で餃子を食べながら、オックスフォード大学の機構の複雑さを話してくれました。

3人とも多少虚を突かれた思いをもって、大村先生との再会を約して帰途につきました。そして「上沼さん、いま何を勉強しているの?」という大村先生の問いかけがずっと耳に残って、追いかけてくるかのようです。石神牧師も小泉氏も同じような感じを持たれているのかも知れません。 N.T.ライトの翻訳と、今回の日本でのN.T.ライトセミナーと、N.T.ライトが読み直そうとしている聖書の世界を、単なる紹介というようなことではなくて、かなりの覚悟をもって学んでいく責任を負わされていることを思います。

昨晩妻が日本でのことを聞いてくるなかで、大村先生のことを聞いてきて、「上沼さん、いま何を勉強しているの?」という問いかけと、「先生は、いま何を勉強されているのですか?」という返答をしたことを喜んでいました。それ以上に、大村先生がガラテヤ書2章20節を出して来られたことに痛く感銘を受けていました。大村先生のなかにすべてがこのみことばに集約されるものがあるのかも知れません。そして何か妻のなかにも感じるものがあったようです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなくて、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

上沼昌雄記

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“「上沼さん、いま何を勉強しているの?」2012年11月16日(金)” への 1 件のフィードバック

  1. 名古屋地方は冬の始まりです。
    夜の冷え込みがきついのですが、晴れの日は朝からぽかぽかとした暖かい日差しが部屋に入り込んできます。

    大村先生に御友人お会いできてよかったですね。
    年を重ねられても、肉体の弱りがあっても神様の道を歩き続けられるお姿が素敵ですね。

    こちらは井戸掘りが続いています。
    自分で掘ろうとは思っているのではありません。あるときからの思いがけない
    他人との交わりで井戸掘りが続いていきます。

    他者の存在がが自分の無意識の所に気づかせてくれるので、井戸掘りをせざるを得ません。

    今回は主人との交わりで始まりました。
    主人がトヨタの過酷な労働現場から帰ってきます。主人が自分の仕事場を次のように表現します。「ああ、野麦峠」「闇」「掃き溜め」。

    そこで1日過ごしてきた鬱憤やどうしようもない気持ちを家に帰ってきて
    言葉というよりも表情とか空気で出してきます。

    ずっとその主人に面してきて、主人の気持ちを受け止められる自分と
    受け止められない自分を発見しています。

    受け止められない自分がなぜ受け止められないのかを考えてみました。
    そこから井戸掘りが始まりました。

    それは幼少から思春期、母の鬱憤を黙ってこらえていた子どもの自分であることがわかりました。
    仕事から帰ってくるといつも不機嫌で感情をあらわにし、酒におぼれ、
    タバコにおぼれ、最後は薬物に依存していった母の姿が亡霊のように出てきました。
    そしてその姿におびえる自分が夫の今の姿を見ると掘り返されているのだと思っています。

    思いもかけず昔の傷があぶりだされてしまうのです。
    もう忘れた、赦していると思っていたことが、別の現象を通して掘り返されてしまうのです。

    そして夫と一緒にいたくない。夫が帰ってくるのがこわい。そういう心情になってしまうのです。

    ああ本当に怖かったんだね。大変だったね。つらかったねとおびえる自分に声をかけています。こわい気持ちを抑えなくていいんだよ。
    夫の気持ちを全部受け止められなくて当たり前なんだよ。
    少しずつ少しずつ受け止められるように、あなたの傷も癒されていくからね。
    そう自分に声をかけながら、無意識におびえてしまう自分にやさしく接しています。

    そしてあなたと母親の関係と、あなたと夫との関係はまた別次元のものであって、あなたの気持ちも率直に夫に伝えていいんだよということも赦しています。

    あたたかな冬の朝のような神様の光があるからできることだと思っています。

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