「受肉と、幕屋と、」2012年12月13日(木)

 ヨハネが キリストの誕生を語るときに、 他の福音 
書記者とは異なって一つの世界観をもって語っている。初めに神と 
ともにあったことばが、「人となって(肉をとって)、私たちの間 
に住まされた」(1:14)という。「ことば」と言うこ 
とで、当時のギリシャ哲学の影響を伺わせるような表現である。そ 
れでも、神の世界に関わることが「肉をとる」というのは、二元的 
なギリシャ哲学とは相反するものである。

 さらに「私たちの間に住まわれた」とヨハネが言うときに、明ら 
かにユダヤ教の世界を視点に入れている。「住まわれた」というの 
が出エジプトの際の幕屋に関わることなのである。チェーン式聖書 
でもこの箇所に説明を加えている。「『住まわれた』 幕屋を張ら 
れた。かつて幕屋のうちに認められた神の栄光が(出エジプト40: 
34,35)、今やイエスの体のうちに認められるようになった。」

 このことは一般によく言われていることであるが、受肉の背後に 
幕屋の思想があることが分かる。その繋がりをしっかりと見ていた 
のがヨハネの世界観であった。「ことば」でキリストを語ろうとし 
ていることで、ギリシャ的な思想を伺わせるのであるが、むしろそ 
れに相反するように、ユダヤ的な伝統のなかでメシアの到来を展開 
していることが分かる。

 出エジプト記の後半で、十戒と様々な戒めを語ったあとに、神は 
幕屋のことを事細かに語っている。正直どうしてこんなに細かに語 
る必要があるのかと思わされる。レビ記では、その幕屋の祭司の務 
めを同じように事細かに語っている。それだけ大切なのだと分か 
る。しかし、それらは祭儀律法として、新約ではその象徴的な意味 
だけが捉えられて、実質的な意味は終わったと教えられてきた。そ 
の結果、事細かに記述されている旧約聖書のこの部分をとばして読 
むことになる。そのようにして、聖書がすべて神のことばであると 
いう立場を、実質的に無にすることになる。

 幕屋と祭司についての細かい戒めは、出エジプトの民が荒野の 
40年旅をして約束の地に至るために、欠かすことのできなかったこ 
とである。幕屋は、神が民のなかに住まい、神が民と出合い、神が 
民を導く場所であった。民は、幕屋を中心にして生活をし、移動 
し、他の民族に対して自分たちが神の民であることを示してきた。

 約束の地に入って、王国が立てられたときに、幕屋は、今度は神 
殿として築きあげられた。王国と神殿をどのように捉えたらよいの 
か迷うところである。その神殿が神の民の罪のためにバビロンに 
よって滅ぼされ、神の民はバビロンに連れて行かれる。バビロン捕 
囚である。そこからの帰還と神殿再建がバビロンでの民の叫びと 
なった。何とか神殿は再建されるのであるが、幕屋で約束された神 
の臨在を求める叫びは、メシアの到来を願う信仰として何百年と続 
くのである。

 その待望のなかで、ヨハネはキリストの誕生を見ている。「こと 
ばは人となって、私たちの間に住まわれた。」あの天幕で約束され 
たことが成就したのである。しかしそこには、神にそむいた民への 
神の深い悲しみがある。幕屋のことを語っている間に金の子牛を 
作って拝んだ神の民への神の怒りがあり、民の罪のために神殿がバ 
ビロンによって滅ぼさなければならなかった神の嘆きがある。キリ 
ストの受肉には、それが深く響いている。確かに救い主の誕生であ 
るが、単に誕生日といって祝うことをためらわせるがある。

 それでもあの幕屋で示された神の栄光は(出エジプト40: 
34,35)、御子の誕生において神が幕屋を張ることで、間違 
うことなしに示された。ヨハネはそれを見たのである。「私たちは 
この方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄 
光である。この方は恵みとまこと満ちておられた。」神の重い栄光 
は、神の悲しみの歴史のなかに長く潜行していて、時が至って闇の 
中に輝き出た。荘厳な出来事である。

 御子の受肉は、幕屋の再現である。それで、神は、御子のうちに 
おられ、御子において私たちと出合い、御子を通して私たちを導か 
れる。私たちは、御子を中心に生活し、 教会の徳を建て上げ、 
神の民であることを示していく。

上沼昌雄記
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