「神の民への、神の取り扱いは、、、」2013年1月3 日(木)

 この数年ユダヤ人哲学者レヴィナスの本を読み、また近年イギリ 
スの新約学者N.T.ライトの一世紀のユダヤ教を中心に聖書全 
体を読み直していく作業に目を向けている。その結果、基本的には 
旧約聖書での神の民の神の取り扱いに思いが向いていく。エデンの 
園からの放出、出エジプト、バビロン捕囚へと向かう神の民の歩み 
と、そこにある神の計画と取り扱いである。さらに、ユダヤ人が今 
でもその延長の上に生きているという事実である。アウシュビッツ 
をその流れで受け止めている神の民のしたたかさである。

 暮れから家族のクリスマスをシカゴでということで、長女の瞳宅 
にきている。ふたりとも風邪を引いてしまって5日ほど滞在を 
延ばした。そのゆえに、念願であったシカゴの北にあるホロコスト 
記念館を大晦日の日に訪ねることができた。シカゴの北にはニュー 
ヨークに次いでユダヤ人の多い地域である。1970年代にネオ 
ナチの行進がなされたことが契機になってこの記念館が建てられた 
と言う。

 昨年一年間国防省の仕事でアフガニスタンに行っていた次女の泉 
が、すでにワシントンで仕事を始めていている。ユダヤ人女性で戦 
後の日本国憲法の起草、特に男女平等の項目に関わったベアテ・シ 
ロタ・ゴードンという方が89歳で暮れの30日に亡くな 
られたというニュースを、年明けに送ってくれた。戦前に父親が音 
楽家として日本に招かれて、演奏活動と教授活動をしているときに 
ナチスによる反ユダヤ主義のために帰国することができなくなっ 
た。ベアテはアメリカの大学に送られた。戦時中両親との連絡を取 
ることができなかった。日本語が堪能なベアテはマッカーサーの下 
で、日本で働くことになった。軽井沢に逃れていた両親との再会を 
果たした。その時に日本国憲法の起草に関わったのである。

 神はご自分の民を散らす。神の民は散らされたところでなお神の 
民としての忠実さを尽くそうとする。特別なことではなく、神の民 
としてどこにあってもできるだけ忠実に生き続けることである。バ 
ビロンにすでに捕囚の民となった同胞にエレミヤは語る。「家を建 
てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息 
子、娘を生み、あなた方の息子には妻をめとり、娘には夫を与え 
て、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。私があ 
なたがたを引いていったその町の繁栄を求め、そのために主に祈 
れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」(29: 
5-7)

 まさにこのエレミヤ書を中心にクリスチャンの社会的なあり方を 
説いている社会学者のJames Davison Hunter の Faithful 
Presenceについて、暮れに長男の義樹と3時間ほど語り合うこ 
とになった。それはなんと言ってもN.T.ライトの視点である、神の 
Faithfulnessと、イエス・キリストのFaithfulnessと、クリ 
スチャンのFaithfulnessに共通するところがあるからであ 
る。どのようなことが起ころうとも、どのような境遇に置かれよう 
が、なお忠実に神の民として生きていくのである。預言者ヨナのよ 
うにたとえそのことで納得できないで神に怒ることがあっても、な 
お神の民として歩み続けることである。

 教会は神の民として歩みをなしているのだろうか。あるいは、単 
に西洋社会の組織化された一つの機関として存在しているだけなの 
だろうか。散らされることがあっても、どこにあっても忠実に生き 
ることを求めているのだろうか。あるいは、自分たちの存在とその 
延命のために神の恵みを求めているだけなのだろうか。

 アメリカと日本の教会を限られたところでしか観ていないが、ど 
うしても教会が自己充足的な方向に動いているように思える。それ 
を支える神学がある。それでもそれが福音的であると言い張ってき 
た。しかし神の民の歩みを振り返れば振り返るほど、離散の神の民 
を神がどこかで指導し、散らされる民を神が神の国の建設のために 
またどこかで用いているように思えてならない。そうだとすると神 
はいずれ、自己充足的な教会の歩みの方向を変えることになる。背 
き続ける神の民への神の真実さが教会にも現される。そんなときが 
近づいているようである。

上沼昌雄記
広告

“「神の民への、神の取り扱いは、、、」2013年1月3 日(木)” への 1 件のフィードバック

  1. 今年の日本は東北・北陸地方が大雪となっています。
    滋賀県長浜市に七年住みました。大雪の季節になると片道二十分の通勤に二時間かかることもありました。高速道路もとまり、流通に影響が出ます。買い物も大変になります。そんな中で雪国の人々はまわりを気遣い自然に対しては無理をしない生き方をやっています。苦難の中で自然と助け合って思いやって生きている光景は温かい思い出となっています。

    上沼先生と3人のお子様との豊かな交わりが伝わってきます。

    「神の民への、神の取り扱いは、、、」を読ませていただきました。
    ちょうど今週の日曜日のメッセージがエレミヤ書の29・5~6でした。

    。神の民として今置かれている厳しくつらいそのところで、喜んで生きていく、増えていく生き方を教えていただきました。

    来月、母の三回忌となりまた福岡に帰ります。
    4月自衛官である弟は東京の市ヶ谷に転勤が決まりました。単身赴任です。
    自分の家族が、東京・名古屋・福岡に散らされていきます。
    それでも自分の中に非痛感がありません。それは母が亡くなった後にどれだけ神様が私の家族を憐れみ守り導いてくださったかをみさせていただいたので、これからもその御計画を信じることができるのです。

    神様の真実さは人間の思いをはるかに超えたものだと感じています。

    市ヶ谷は極東軍事裁判で廣田弘毅が死刑宣告を受けたところです。
    自死遺族に対して寛容な働きをしている聖イグナチオ教会も近くにあると知り喜んでいます。

    「おとうさん、暖かくなったら今年は一度東京見物にでもいこうよ!」と声をかけたら
    なんとなくうれしそうに笑う父の声が印象的でした。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中