「造り主の思いは!?」2013年1月17日(木)

 天地万物の造り主が、ご自分の造られた世界がどのようになって 
いるのか、そのことに心を砕き、心配をされるのは当然である。し 
かしあまりに当然なので、そのまま棚の上に仕舞い上げられて、あ 
る面で祭り上げられて、場合によっては閉じ込められてしまってい 
る。そのままでも全能なる神の創造信仰に傷つくことはなく、むし 
ろそうすることが神を神としているような思いにさせられる。

 そしてこちら側では、何とかその神の思いを知って、神の子にふ 
さわしく生きようと努力するのであるが、何せその創造主は遠くに 
祭り上げられているので、届くことができない。それで何とか地上 
で神の子にふさわしく生きて、いずれ神の国に、すなわち天国に行 
くことをひたすら願うのである。そのために、自分がそれにふさわ 
しく生きているかどうか、信仰の確信を持っているのか、どうした 
ら恵み深く生きることができるのか、そのための手引き書を聖書か 
ら作り出して、何とか自分を納得さている。

 しかし、そんな棚に閉じ込められていることに神ご自身が満足し 
ないで、これは自分の造った世界で、その世界が病み、痛み、傷つ 
いていることをみて、何とかしようと思って、その棚から降りてき 
て動き出したら、どのようになるのであろうか。ご自分が造られた 
ので、どこが弱っていて、または破壊されていて、何が足りないの 
かはよく分かっている。もうこれ以上放って置くことはできないの 
である。

 アメリカに移り住んで3年半かかって建てた小さな家に、すでに 
20年近く住んでいる。自分で建てたので少なくともこの家の造り主 
である。全くの素人であるが自分で建てたので、壁のなかの配線も 
床下の配管もどのようになっているのかは今でもだいたい覚えてい 
る。冬に嵐になって、すきま風が入ってくるときに、どこから入っ 
ているのかが分かる。手抜きをしたわけでない。その部分をコーキ 
ングすることを知らなかったのである。少なくとも住みながら家の 
ことがいつも頭にある。そして造り主の責任で、自分で修理をする。20 
年近く経って壁に取り付けのヒーターの取り替える必要が出てき 
た。昨年の夏に外壁から切り離す作業をしているときに、空にヘリ 
コプターなどが飛んできて賑やかになって、川向こうの山で10 
日間燃え続いた山火事が起こったのを良く覚えている。

 誰でも自分の作ったものには特別な思いがある。そうだとすれ 
ば、全地万物を造られた創造者にとってはなおさらのことである。 
その神が何とかしようとしているのが神の歴史である。神はそのた 
めにイスラエルの民を選ばれた。同時にその民がまた問題の種にも 
なってしまっている。そうだとしたら、創造主である神はさらにど 
うしたらよいのであろうか。そのために神はひとり子であるキリス 
トをメシアとして遣わされた。同時にまたそのメシアの民とされた 
ものが、問題の元にもなってしまっている。家庭が崩壊し、国同士 
が争っている。被造物は今でもうめいている。そして、神もうめい 
ている。

 それでも全世界は神の創造の作品である。決して見捨てることはな 
い。 神はイスラエルを通して、メシアの民を通して、新天新 
地を約束している。神ご自身の誠実さである。聖書はその物語であ 
る。真実なる神の歴史の書である。そしてそれが聖書であるとすれ 
ば、その真実な、誠実な神にどのように応えていくかが、私たちの 
誠実さの現れとして求められている。それは単に自分の信仰が安定 
して、すべてがうまく行くという以上のものである。神の誠実さに 
犠牲がともなっているように、私たちの誠実さにも犠牲がともなっ 
てくる。困難な神の民の歩みである。聖書はその記録である。

 そんな視点で聖書を読み直している。少なくとも造り主の思いを 
身近に感じる。困惑し、悔やみ、悲しみ、それでも何とかしようと 
する造り主の思いである。放っておくことができない。自分の家は 
自分で修理する以外にない。人に頼めない。自分の責任である。聖 
書は、何とかしようとしている神の物語である。手引き書ではな 
い。実際に何とかしている神の歴史である。それに巻き込まれたら 
神の民も当然振り回される。 預言者ヨナの怒りであり、預言 
者エレミアの涙である。

 そんな造り主の思い、聖書の読み方を、この2,3年、N.T. 
ライトを通して教えられている。学術書も一般書も書いているが、 
何かそのように聖書を読んだら如何ですかと丁寧に勧めているだけ 
のようにも思う。自分の信仰のあり方だけに思いがとらわれている 
訳にいかないのではないかと、静かであるが、鋭く指摘もしてい 
る。それで、それがクリスチャンとして当たり前に思われている二 
つの面で反論を受けている。一つは義認論で、もう一つは天国論で 
ある。あたかもライトがそれらを否定しているようにとられている 
が、それがクリスチャンの最終目標でないと言っているだけであ 
る。死んだら天国に行ける、そのために自分が義とされているかど 
うか、そんな自己中心的な世界だけを聖書が取り扱っているのでは 
ないと、結構確信を持って語っている。

 神はご自分の世界を何とかしようとしている。私たちはそのため 
に召されている。

上沼昌雄記
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