「イエス・キリストのピスティスによる」2013年2月 20日(水)

 「イエス・キリストのピスティスによる」という表現は、「イエ 
ス・キリストを信じる信仰による神の義」と訳されているローマ書 
3章22節の文字通りの訳である。ピスティスは「信仰」とも 
「真実」とも訳されるので、さらに文字通りには「イエス・キリス 
トの信仰による」か「イエス・キリストの真実による」になる。英 
語訳に関しては、NIVもRSVもNRSVも、through faith 
in Jesus Christと日本語訳と同じである。しかし興味深いの 
は、KJではby faith of Jesus Christとなっている。 
ただし、NKJではまたthrough faith in Jesus Christ 
としている。

 伝統的には日本語訳のように「イエス・キリスト信じる信仰」と 
言うことで、信じるこちら側の信仰のことを問題にしている。すな 
わち、キリスト信じるこちら側の信仰で神の義が現されたか、神か 
らの義が私たちに付与されたと理解した。そして、そのようにとっ 
てきたし、さらに、それに基づいて説教をし、説教を聞いてきた。 
ともかく、こちら側の信仰のあり方が大切になってきた。その結 
果、自分の信仰を絶えず吟味することが信仰者の歩みになってき 
た。時にはそれは神経衰弱的な意味合いをもって、絶えず信仰の有 
り様を正し、自分を叱責することにまでなっている。当然他者の信 
仰をも批判することになる。福音的、聖書的という名のもとに。

 しかし、KJがとっているように、神の義は文字通りの意味 
合いで「イエス・キリストの信仰・真実」によって現されたという 
理解が、その時間的な流れは明確に把握していないが、この数十年 
の間で徐々にではあるが、確実に広がってきている。自分なりにキ 
リスト論を学んでくるなかで、その主張が折々になされてきたこと 
を思い出す。そしてこの顕著な理解が、前回取り上げて2002年の 
The New Interpreter's Bibleのローマ書注解でなされている。

 NIVとNRSVを併記しているこの注解書では、それぞれ 
この箇所をthrough faith in Jesus Christと今までどおりの 
訳をとっていることが分かる。違いはNRSVではフットノート 
で、through faith of Jesus Christを置いていることであ 
る。そして注解者であるN.T.ライトはこの理解を展開してい 
る。「イエス・キリストの信仰・真実」によって初めて明らかにさ 
れた神の義であって、それはまさにその次に「すべて信じる人に与 
えられ、何の差別もありません」とスムーズに続くのである。神の 
義は、第一義的に神のことで、それを御子であるキリストの信仰・ 
真実のゆえに、神ご自身がよしとされたのである。こちらの信仰の 
ことではない。信仰はただその神の義を信じることである。何か決 
定的な違いがそこにあることが分かる。

 この理解が明確になる前の1984年に、かつて KGKで 
も交わりをいただき、大村晴雄先生のゼミで一緒にさせていただい 
た清水哲郎氏が雑誌『途上』で、「イエスの信」というテーマで、 
同じ趣旨の議論を展開している。氏は哲学的言語分析としてまさに 
イエスの信仰・真実ととることがローマ書理解にかなっていると言 
う。聖書学や神学的理解でなくて、あえて哲学的ということで、言 
語理解として「イエスの信」ととるべきだと主張している。当時こ 
の論文を読んだときの衝撃を覚えている。聖書学者がようやく言い 
出したことを哲学の作業として言い出していたのである。氏のこれ 
とそれに続く論文集が2001年に『パウロの言語哲学』として 
岩波書店から出ている。

 「イエス・キリストの信仰・真実による神の義」、それはKJ 
で理解されていたものがようやく戻ってきたと取れるのであろうか。NIV 
はその後2005年と2011年に改訂版で、NRSVと同 
じようにフットノートでthrough faithfulness of Jesus Christ 
と取り入れてきた。しかもNRSVのフットノートよりさらに進めて 
faithfulnessとまで言っている。まさに、ピリピ書2:6-11 
で表現されているキリストの真実さである。フットノートであって 
もこのように取り入れてきたことは、先の注解者が主張してきたこ 
とを認めたことになる。この理解はここだけでは留まらないで、そ 
れに関わる箇所にも及んでいる。NIVもその改訂の説明文で認 
めていることである。

 そうするとこことでも、これからの日本語訳聖書でどうなるのか 
という課題になる。「イエスの信仰」、faith of Jesusのこ 
の「の」、英語の of を、イエスを主体にとるのか、今まで 
どおりにイエスを信仰の対象とるのかの、翻訳上の何ともわずかな 
違いであるが、その意味づけは決定的に違ってくる。イエスを信仰 
の対象のようにとってきた今までの信仰理解、ともかく自分の信仰 
状態だけが主眼になるようなクリスチャンとしてのあり方の行き詰 
まりを感じてきているなかで、イエスを主体ととることで、イエス 
の真実さにならう者としてのクリスチャンのあり方が見直されてき 
ていることになる。イエスの真実さをよしとする神の視点に生きる 
ことである。

 この神の視点は、まさに「神の真実」(3:3)のこ 
とであり、それがローマ書全体を貫いているテーマでもある。ユダ 
ヤ人の不真実がありながら、なお神の真実を貫く神の愛である。そ 
れを実行した「イエス・キリストの真実」のゆえに現された神の義 
である。自分の信仰のみに捉えられていたら見ることのできない神 
の真実の物語である。今までの翻訳が見逃してきたことである。よ 
うやく視点が文字通りに神に向いてきたかのようである。神の視点 
で生きる視座がようやく見えてきたかのようである。

上沼昌雄記
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「信仰の律法によって」2013年2月18日(月)

 「信仰の律法によって」とは馴染みのない表現である。「信仰の 
原理によって」という言い方ですでに定着していると思われてい 
る、ローマ書3章27節の文字通りの訳である。その文字 
通りの訳で読み直していく作業が、近年なされている。「信仰の原 
理によって」と新改訳聖書を使ってこの箇所を理解してきた者に 
は、文字通りに「信仰の律法によって」と読み直していくのは、思 
考回路の変更が求められる。

 口語訳と新共同訳では「信仰の法則によって」となっている。英 
訳聖書では、RSVとNIVでは「信仰の原理によって」と 
なっていて、KJ, NKJとNRSVでは「信仰の律法によっ 
て」となっている。新改訳はNIVより前に出ているので、この 
限りではRSVによっていることになる。興味深いのは、その 
RSVの新版であるNRSVで、伝統的なKJに戻って訳し直し 
ていることである。

 2002年に出ている最新の英語聖書注解書であるThe New 
Interpreter's Bibleは粋なやり方をしている。そのNIVと 
NRSVとを併記して載せて、両者の違いを確認しながら注解をしてい 
る。日本で新共同訳と新改訳を併記してその上で注解書を書くよう 
な感じである。あまりに線引きがはっきりしているので、起こりそ 
うもないことであるが、英語圏では斬新的な注解書が出ていること 
になる。

 この注解書のローマ書3章27節とその前後を何度か 
チャレンジして読んでいる。なぜNRSVであえてその前の 
RSVの訳を変えて「信仰の律法によって」ととっているのか、NIV 
のように、それは新改訳にも当てはまるのであるが、「信仰の原理 
によって」と訳すことが、聖書理解をある方向に定めてしまうこと 
になるのか、再考させられることである。

 明らかにその前後では何度も「律法」が出ている。その同じ「律 
法」は確かに「原理」とも訳すことができる。それを27節だ 
けに使っている。ユダヤ人の誇りはすでに取り除かれたという主張 
が「どの原理(律法)によっているのでしょう」と言う問いに対し 
て、「行いの原理(律法)によってでしょうか。そうではなく、信 
仰の原理(律法)によってです」となっている。何か「行い」と 
「信仰」という宗教改革以来のプロテスタントのそれこそ二律背反 
の原理に動かされて、その場合に「行い」イコール「律法」となる 
ので、「信仰の律法」という言い方はあり得ないので、「信仰の原 
理」と訳さざるを得ないかのようである。 そのようにとるの 
が聖書的とも思わされていている。 何か信仰の極意のような 
ものが求められているかのようでもある。

 「行いの原理によって」に関しては、新改訳はRSVどおりに 
とっているが、実はNIVは、プロテスタント精神を代表するか 
のように「律法を遵守することの原理によって」とまで言い換えて 
いる。これは「行いの原理によって」をさらに押し進めた言い方な 
のであろう。ルター以来、ディスペンセイショナリズムを経て、行 
いと律法に関することは全面的に否定されて、信仰とそれに関わる 
ことのみに視点が移ったためと言える。律法と信仰、律法と恵みと 
いう二律背反があまりに強すぎて、聖書をある方向に引っ張っている。

 ここでは「私たちの誇り」のことを言っていて、それはすでに取 
りのけられて、ユダヤ人も異邦人も区別がないということが、神の 
義がすべての人に現されたことで明らかにされている。ユダヤ人が 
誇りとする律法とは、安息日や割礼や儀式や食べ物に関する「行 
い」のことがある。彼らはその「行いの律法」で自分たちは異邦人 
と違うと主張し、それを誇りとしていた(2:17)。

 それに対して3章21節の始めで「しかし、今は」と 
言って、神の義は信仰によって明らかにされて、ユダヤ人も異邦人 
も何の区別もないというが、その前後関係だけでなく、ローマ書全 
体のテーマになっている。神の義は「信仰に始まり信仰に進ませる」 
(1:17)ものである。そして大切なのは、27節 
の後の31節で言われているように、その信仰は「律法を無効 
にする」のではなく、「かえって、律法を確立する」ものである。 
その意味で「信仰の律法によって」と文字通りにとることができ 
る。信仰によって律法が確立されること、それにはユダヤ人も異邦 
人も区別がないからである。そのように理解することは、前後関係 
にあっているだけでなく、聖書全体の理解にかなっている。

 このように「信仰の律法によって」と文字通りにとることは、宗 
教改革以来のプロテスタントの伝統的な理解の多少の修正が求めら 
れることになる。 伝統か聖書かという問いに戻る。 
根本的な問いかけである。さらにこのことは、聖書理解とその元に 
ある聖書翻訳そのものにいまだに再考の余地があることを示してい 
る。これからの日本語聖書でも同様に問われることである。

(ここで注記が必要であり、注目に値することは、NIVが 
2011年の改訂版で「信仰の律法によって」に沿うように訳し直して 
いることである。)

上沼昌雄記

「照らされない闇」2013年2月4日(月)

 2007年6月13日付のウイークリー瞑想で「照ら 
された闇」という記事を書きました(以下に添付)。ポートランド 
の日本人教会の聖書塾で 「魂の暗夜ー心の闇を見つめて、闇 
の中で神に出会うために」というテーマで、分かち合う時を持ちまし 
た。 小さいときの経験、戦争の時の記憶、父親のこと、結婚 
生活のこと、鬱になったこと、閉じこもっていたときのこと、 
分かち合いながら輝いている顔を今でも思い出します。それはまさ 
に「照らされた闇」でした。

 そのなかで「母が病気であったことで小学3年生の時の記憶 
がないこと」と語ってくださったご婦人と、先週不思議なかたちで 
メールのやり取りが始まりました。お会いしたことがないのですが 
ウイークリー瞑想を読んでいてくださる別のご婦人が、この方のお 
宅に立ち寄って、ウイークリー瞑想の話になったということです。 
闇のことを分かち合う授業に参加していていたというので、その時 
の「照らされた闇」を送りました。

 その返信で、お母様が病気であったために両親と離れて暮らさな 
ければならなかった時のことを記してくださりました。その時のこ 
とを語ったことで「照らされた闇」を体験したのです。「 先 
生の講義の時まで私の闇が何であるか考えてもいなかった私に、闇 
の原因を何も見えないはずの暗闇の中で見出したことは驚きであ 
り、またその闇の中に光を見出した時の安堵は今も忘れられません。」 
「 しかし私はその後、時には暗闇体験をしています。今はも 
う真っ暗闇ではありませんので時々行ったり来たりして光を楽しん 
でいますが、、、今私と共にいる神がいると信じているからできる 
ことかもしれませんね。」「今の私の心には時には影ができても、 
全く光の届かない闇がないことを感謝しています。」

 2008年に拙書『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする 
神』を出しました。当時「闇」のテーマで集会を、できるところで 
していました。二つの集会で、「もうやめてくれ」と怒りだした人 
のことを覚えています。ひとりの方は参加者のご主人で未信者の方 
でした。もうひとりは牧師でした。未信者のご主人は、しかし、怒 
りだしたことで、その説明をし出したのです。不思議なことでそれ 
で、何がその人の闇なのかは分からないのですが、その方の心のど 
こかに穴が空いて、何か重苦しい空気が除かれて、その場が明るく 
なったのです。

 もうひとりの牧師は、ある地域の牧師会の研修会でのことでし 
た。とりまとめてくれた牧師も、闇のことに関心があって研修会の 
テーマとしてくれたのです。現実には、自分たちの思いとは関係な 
しに多くの牧師は、自分の闇に直面しなければならなかったので 
す。ともかくその必要性をお話しして、自分の闇のことを分かち合 
う時を持ちました。その牧師は最後の方になっていたのですが、ご 
自分の順番になったときに、このようなテーマは取り上げない方が 
よいと言って怒りを表されたのです。それでも同じように、その理 
由を説明しだしたのです。そこでご自分が抱えている苦悩を、多分 
思いがけなく、吐露されたのです。それに触れたくはなかったの 
に、語り出したら出てきてしまったのです。

 この牧師の心にも穴が空きました。しかしどこかで重苦しい空気 
は除かれないで、その場は霞かかったままでした。それは、他のほ 
とんどの牧師たちに戸惑いを与えたからです。それまで自分のこと 
を語ってきた牧師たちの顔には、どこかで闇がそのまま覆っていた 
のです。牧師研修会に来て自分の心の闇を語るように言われてため 
らっていた顔、自分の心に闇があってもこんな場所で出したらどう 
なるのかという心配していた顔、こんなテーマは牧師会で取り上げ 
るべきでないと思っているような顔、それでもこの牧師が怒りを出 
してくれたので安心したような顔、すでに数年前のことなのです 
が、その時の何とも言えない暗い雰囲気がよみがえってきます。そ 
れはまさに「照らされない闇」でした。

 その時の牧師たちの心に、いま何かが残っているのか、知るすべ 
もありません。そのまま押さえ込んで、そんな時はなかったかのよ 
うに、今までどおりの牧会をされているのか、知るよしもありませ 
ん。闇は闇のままに留まっているのかも知れません。もしそうだと 
したら、光である神を信じていることが牧会者としてどのような意 
味をもってくるのか問われます。教会員も、それぞれ自分のなかに 
闇を抱えたままになってしまいます。

 その時の牧師たちを非難しているのではありません。ただ「照ら 
されない闇」を抱えたままでは、信仰も伝道もどこかで漂ってしま 
うからです。「照らされた闇」のウイークリー瞑想の最後にも紹介 
したのですが、秋田の牧師たちの会合に参加してくれた、現在山形 
で牧会している坂本献一牧師の体験が語っているとおりだからです。

 「上沼さんは繰り返し『闇に入っていくことができるのは、光の 
存在を信じるからだ』 、、、と語ります 。、、そし 
て、それは逆の表現を採るならば、『闇を直視できないのは、光の 
存在を信じていないから』と言えるはずです。私は、これが今日の 
教会に対するひとつの挑戦だと感じています。、、 結局のと 
ころ『信仰がない』ということに行き着いてしまうように思うのです。」

上沼昌雄記