「信仰の律法によって」2013年2月18日(月)

 「信仰の律法によって」とは馴染みのない表現である。「信仰の 
原理によって」という言い方ですでに定着していると思われてい 
る、ローマ書3章27節の文字通りの訳である。その文字 
通りの訳で読み直していく作業が、近年なされている。「信仰の原 
理によって」と新改訳聖書を使ってこの箇所を理解してきた者に 
は、文字通りに「信仰の律法によって」と読み直していくのは、思 
考回路の変更が求められる。

 口語訳と新共同訳では「信仰の法則によって」となっている。英 
訳聖書では、RSVとNIVでは「信仰の原理によって」と 
なっていて、KJ, NKJとNRSVでは「信仰の律法によっ 
て」となっている。新改訳はNIVより前に出ているので、この 
限りではRSVによっていることになる。興味深いのは、その 
RSVの新版であるNRSVで、伝統的なKJに戻って訳し直し 
ていることである。

 2002年に出ている最新の英語聖書注解書であるThe New 
Interpreter's Bibleは粋なやり方をしている。そのNIVと 
NRSVとを併記して載せて、両者の違いを確認しながら注解をしてい 
る。日本で新共同訳と新改訳を併記してその上で注解書を書くよう 
な感じである。あまりに線引きがはっきりしているので、起こりそ 
うもないことであるが、英語圏では斬新的な注解書が出ていること 
になる。

 この注解書のローマ書3章27節とその前後を何度か 
チャレンジして読んでいる。なぜNRSVであえてその前の 
RSVの訳を変えて「信仰の律法によって」ととっているのか、NIV 
のように、それは新改訳にも当てはまるのであるが、「信仰の原理 
によって」と訳すことが、聖書理解をある方向に定めてしまうこと 
になるのか、再考させられることである。

 明らかにその前後では何度も「律法」が出ている。その同じ「律 
法」は確かに「原理」とも訳すことができる。それを27節だ 
けに使っている。ユダヤ人の誇りはすでに取り除かれたという主張 
が「どの原理(律法)によっているのでしょう」と言う問いに対し 
て、「行いの原理(律法)によってでしょうか。そうではなく、信 
仰の原理(律法)によってです」となっている。何か「行い」と 
「信仰」という宗教改革以来のプロテスタントのそれこそ二律背反 
の原理に動かされて、その場合に「行い」イコール「律法」となる 
ので、「信仰の律法」という言い方はあり得ないので、「信仰の原 
理」と訳さざるを得ないかのようである。 そのようにとるの 
が聖書的とも思わされていている。 何か信仰の極意のような 
ものが求められているかのようでもある。

 「行いの原理によって」に関しては、新改訳はRSVどおりに 
とっているが、実はNIVは、プロテスタント精神を代表するか 
のように「律法を遵守することの原理によって」とまで言い換えて 
いる。これは「行いの原理によって」をさらに押し進めた言い方な 
のであろう。ルター以来、ディスペンセイショナリズムを経て、行 
いと律法に関することは全面的に否定されて、信仰とそれに関わる 
ことのみに視点が移ったためと言える。律法と信仰、律法と恵みと 
いう二律背反があまりに強すぎて、聖書をある方向に引っ張っている。

 ここでは「私たちの誇り」のことを言っていて、それはすでに取 
りのけられて、ユダヤ人も異邦人も区別がないということが、神の 
義がすべての人に現されたことで明らかにされている。ユダヤ人が 
誇りとする律法とは、安息日や割礼や儀式や食べ物に関する「行 
い」のことがある。彼らはその「行いの律法」で自分たちは異邦人 
と違うと主張し、それを誇りとしていた(2:17)。

 それに対して3章21節の始めで「しかし、今は」と 
言って、神の義は信仰によって明らかにされて、ユダヤ人も異邦人 
も何の区別もないというが、その前後関係だけでなく、ローマ書全 
体のテーマになっている。神の義は「信仰に始まり信仰に進ませる」 
(1:17)ものである。そして大切なのは、27節 
の後の31節で言われているように、その信仰は「律法を無効 
にする」のではなく、「かえって、律法を確立する」ものである。 
その意味で「信仰の律法によって」と文字通りにとることができ 
る。信仰によって律法が確立されること、それにはユダヤ人も異邦 
人も区別がないからである。そのように理解することは、前後関係 
にあっているだけでなく、聖書全体の理解にかなっている。

 このように「信仰の律法によって」と文字通りにとることは、宗 
教改革以来のプロテスタントの伝統的な理解の多少の修正が求めら 
れることになる。 伝統か聖書かという問いに戻る。 
根本的な問いかけである。さらにこのことは、聖書理解とその元に 
ある聖書翻訳そのものにいまだに再考の余地があることを示してい 
る。これからの日本語聖書でも同様に問われることである。

(ここで注記が必要であり、注目に値することは、NIVが 
2011年の改訂版で「信仰の律法によって」に沿うように訳し直して 
いることである。)

上沼昌雄記
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